第3話 回想1

 前世のと司狼が共に過ごしたのは僅か五年ほどだ。


 獣越者は獣の逸話を先天的に秘めている。それは操ることが叶えばこれ以上便利なものはなく……同時に制御できない獣の力は大勢の人々に恐怖や忌避を抱かせた。

 最初の命の私や次の命の私の頃には恐怖による獣狩りすら行われていたし、地域によっては長らく獣の名を刻んだ石を握った子どもが生まれたらそのまま殺す風習もある。

 司狼が生まれた時代にはそれらの過激な活動は下火になっていたが、それでも鋭い牙と爪を自在に操り月の夜には凶暴になる狼の獣越者は多くの人々が長らく恐怖の対象としていた。


 そうした狼の力を継いだ獣越者の幼子を保護したけれども、暴れて手がつけられないから助けてほしいと連絡が来たのは友人の警視総監からだった。


「……ほう、中々の跳ねっ返りだと話に聞いていたが」


 若い時分か、或いは九つの生の前半段階だったなら痛みに苦悶の声をあげていたかもしれない。年老いる利点は少ないが、その一つが痛みに鈍くなることだ。

 見下ろした環の腕には深々と牙がつき刺さる。隣にいる担当警官は青ざめた顔をして環と環の腕に食らいついている獣のような少年を交互に見た。


 独房めいた一室に入るや否や噛みついてきた少年こそが、ありし日の司狼だった。感情が高ぶった時に隠せなくなる幻耳げんじ幻尾げんおは狼のもので、問うまでもなく彼が当該の子どもだということは分かった。狼の耳は数代も前に逢った出会いを胸の内に想起させる。

 ──けれどもそれは過去の話だ。内心で自らの記憶力を嘲笑しながら、担当をしている警官へと目線を向ける。


「それでも獣越者は聡明な知能を有することが多い。適切な教育を受けていればここまではならないだろう」

「それが……元々彼の母親は獣越者の偏見主義者だったようで」

「……なるほどな。ずいぶん生傷が多いが、自傷だけではないと」


 凶暴性は自衛からなるものだろう。ならばすべきことは決まっている。未だ私の腕に食らいつき、睨みつけている狼の子の首根っこを掴み無理やり引き剥がした。


「彼はうちで保護をしよう。構わないね?」


 申し出をするとの前の警官の瞳が小さく窄まった。


「えっ……は、はい。然るべき手続きをしていただければ勿論ですが……よろしいのですか?」


 立場を慮ってか、或いは子どもの性質ゆえか。助けを求めた警視総監も、案内をしてきた男もあわよくばという思いはあっただろうに。


「構わないさ。獣越者の子どもを保護した経験は前の世である。何より狼は忠義に厚い。上手くいけば狭牙うちの跡取りとなってくれるだろうよ」



 ◇ ◆ ◇



 引き取った当初の司狼はすべてを警戒しきっており、使用人の誰かが数メートル以内に入り込もうとしただけでその牙と爪で攻撃を与えかねなかった。


「だからといって環さまお自らがお世話をされるなど……そのお身体も若くないでしょうに」

「拾ったからには責任を持つのが当然だからな。なに、亀の獣越者ほどではないにしても、年は八度の生を合わせれば相応に重ねている。首輪スタイリングも決めたのだから、万一の時も問題はなかろう」

「ですが……」

「なに。匙の使い方も分からない子どもの世話など久方ぶりだ。この生の最後の道楽と思って見逃せ」


 時に苦言を呈する執事をいなしながらも手づから食事を摂らせ、食器や衣服の使い方を伝え、基本的な知恵を与えてやった。元より賢いとされる狼の獣越者だ。二年もすれば身の回りのことも出来るようになる。


「じーさん、この本読んでくれよ」

「環さま、だ。司狼! 環さまはお忙しいのだから……、」

「急ぎの仕事を終えてからなら構わない。司狼、部屋でそれまで待てるか?」

「おう!」


 知識欲も好奇心も旺盛な子どもは、みるみる内に知恵をつけていく。狼の力と逸話を持つのだから、身体能力は言わずもがな。このまま成長すれば将来が楽しみだといつしか思うようになっていた。


 だからこそ死ぬ半年前に倒れた時、後継者として兼ねてもの期待通り司狼を指名することに、何ら躊躇いはなかった。唇を嚙みしめた少年へとそのことを寝台に横たわりながら告げれば、息が詰まるように少年は顔をゆがめる。


「……アンタが死ぬとか、んなことあり得ねぇだろ、じーさん」

「死ぬさ。少なくともこの肉体はもうすぐ終わりを迎える。……魂はあと一度、巡る機会を残しているだろうがね」

「なら、会社を俺に継がせる必要が、どこにあるんだ」


 そのままアンタの持ち物にしちまえばいいだろうと低く呻く黒髪の子どもは、世間の道理がまだ理解できていないようだ。くつりと動かしにくくなった口角をあげた。


わたしは気まぐれだからね。再びこの会社を継ぐことを望む保証はない。全く別のところで別の産業を興してそれっきりになる可能性もあるわけだし」

「そんなの認めねぇ!!」


 吼え声が聞こえる。ここ二年ほどは完全に隠せるようになっていた司狼の幻耳げんじがその頭にまっすぐ立つ。


「……この会社を継ぐ気がねぇかもっていうなら、俺が貰ってやる。それは構わねぇ。でも、これっきりなんて、ダメだ」

「はぁ……。一体何を興奮しているんだ。お前からすれば、口うるさい養父がいなくなる機会だろう」

「養父じゃねぇ」


 突き放すような物言いを口にしながらも、橙の混じった紅蓮は炎のように強い熱を持つ。


「じーさん……いや、環。俺はアンタを養父と思ったことはねぇ。愛してるんだ。アンタにゃ俺の、番になってほしい。だからこれっきりなんて許さねぇ」

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