朝を知る。
鈴ノ木 鈴ノ子
あさをしる。
日の出より少し前に目が覚めた。
日々の仕事のだるさと昨夜の抱擁の果ての寝起き、隣には愛しい由美香が安らかな寝息を立てていた。
長い付き合いの女性だ。
見慣れた顔は齢を重ねて皺を少し湛えていたが、それは木造佛の年輪のようでもあった。
手を伸ばしてそっとその肌に触れる、温かさと程よい柔らかさを兼ね備えて何とも心地が心地よい。そのまま鼻先まで指先を流してゆくと、囁きのような小さな声を漏らして私の胸元に置かれていた手が伸びてきて指先をそっと掴む、やがて薄目でこちらをチラリと見てから安堵したように瞼を閉じると微笑みを浮かべて寝息を湛えた。
朝日の光がカーテンの切れ目から漏れてきて、薄い闇の中に金糸を垂らしたかのように線を引く、外では目覚めた蝉達が恋歌を奏で始めている。騒がしい恋の歌が窓枠と外壁を通じて室内へと響いてくる。普段の喧騒からはかけ離れた一種の異世界のようなこの場所でこの由美香と新しい関係を始めることとなった。
自然豊かな田舎町といえば聞こえはいいだろうか。
実際は人口減少に伴い衰退してゆくと言った方が正しいだろう。
町に数か所あった小中学校は今では1校だけの1クラス、体育祭や文化祭は学校行事から町内行事へと変化して幾久しい。誰も彼もが親戚縁者のようなもので、古刹の家系図を辿れば線はすべて1つに繋がる。噂話が流れるのも早い、良い話はもたつきながら、悪い話は疾風のように。ただ、田舎的な人間関係よりは都会的な人間関係の方がはるかに複雑で地獄だと思う。
これは大学を都で過ごした者として言えるだろう。
その田舎的な、ある種の封建制度のようなものが残るこの町に中学校の教師として赴任してきたのが先生だ。
全校生徒10人の小中学校の中学クラス5人のところに新しく赴任してきた数学教師、黛由美香先生。第一印象は災厄だった。つり上がり気味の三白眼に少しやつれた頬、髪は肩にかかる程度だが艶はなく木綿の糸のようだ。
「黛由美香です、よろしくお願いします」
冷徹な声が挨拶を告げた。
抑揚がなく声は低音で威嚇をしているのか思うほどであった。
クラスメイトと『左遷されてきた』など根拠を欠いて根も葉もないことで噂話をしていたが、やがてはその噂をすることさえもなくなった。授業がとても分かりやすく、放課後には自分の時間を割いてまで生徒の勉強を見てくれる。とても素晴らしい先生で、2年生から3年生へ受験のために塾へと行く機会さえない私達に指導してくれた。充実した時間で全員が夜遅くまで居残って勉強しては先生が各自を車で自宅まで送ってくれる。
「どうせやることないし、それに皆と居た方が楽しいからね」
中学校の教員用宿舎は我が家の隣であったので最後は何時も2人となった。
そこでは色々な話をした、先生の出身がこの県ではない遠い北海道の地であること。東京で教員をしていたがゴタゴタに巻き込まれて嫌気がさしてこの地方に再就職したこと、なにより今の学校生活が気に入っていること。読書が好きなこと、映画が好きなこと、音楽が好きなこと。どれこれも他愛ない話ばかりだったが、田舎の中学生には刺激的な話ばかりでスマホの中だけの世界とは違う大人の世界に憧れを抱いた。
やがてクラスメイトはそれぞれの目指す高校への進学を果たして町から出ていったが、私は家庭の家業のために自宅から2時間の道のりをバスに揺られて高校へと通学することとなった。
「2時間の時間なら色々なことができるわね。本でも何でも読んでみるといいわ」
先生がそう笑いながら言ってくれて私は先生の蔵書を借りてバスの中で読み耽った。
ライトノベルから純文学まで、毎日のように読んで過ごしては返却の度に感想を述べてみたりもする。
年齢差や読書量の差、思考の方向性などで感想は時に乖離し、時に癒着し、時に平坦で、時に荒れた。
口論激しい時には喧嘩別れになりそうなこともあったが翌日には互いに水に流して新しい話をした。
「意見の相違に流されないこと。否定と肯定のどちらも受け入れて、咀嚼して、無理なら話し合い後に吐いて捨てなさい」
先生はこう諭してくれたおかげで、私はかなり捻くれた高校生として3年間を過ごした。
2年目の春先、バスに揺られながら私は物語を書いてみることにした。
設定も何も考えていない、ただ、今のありのままをつらつらとタブレットに綴る、もちろん、ところどころで破綻はするし、かみ合わぬことも多かった。ただ、書くことだけが面白かった。
「これ、なに?」
「あ……」
借りていた本を返してタブレットに纏めていた感想を先生に話している時だ。
一緒に見ていた感想文とは別の書きかけの物語が表示されてしまった。慌てて隠そうとすると先生の手がタブレットを奪い取り、取り返そうとした私に鋭い三白眼の視線が降り注ぐ。
もう、こうなれば大人しくするしかない。
顔を真っ赤にして俯いていると先生から一冊のノートが投げつけられた。
「それ、私が高校生の頃に書いたの、これでおあいこ」
勝手な弁を述べてから先生はタブレットに真剣な視線を落として物語を読み始めてゆく。
私も「おあいこ」になった先生のノートを開いて物語を読んだ、人物の設定や状況などが事細かに最初に記されてから、小説の大体の内容や落としどころ、そしてラストまでのプロットの後に物語が始まる。
書き出しは綺麗で情景や感情描写には涙するところもあった、今の先生とはかけ離れているような書き方については驚いたものの、恋愛ものとして最後に結ばれるまでの流れはとてもすばらしかった。
唯一の不満な点を述べるとすれば、「BL」の作品だということだ。
「青松学園女子高等学校 黛 由美香」とノートの裏側に書かれていたから、それが本当の最後の最後のオチなのかと思ったほどだ。
「どう、BL、いいでしょ?」
「どうかえせばいいでしょうね?」
現役男子高校生に笑って進めてくる先生に私は返す言葉を失い、そして、先生は私の物語について色々と感想を述べてくれた。読者第一号となってくれて感想を貰えることが何よりも嬉しいかったのだと思う。
やや、袈裟切りモードの言い回しには精神がすり減ったけれども。
「これからも書きなさい、で、持ってきて、私が読むから」
それから私は物語を書いては先生の元へと働きアリのように持って行き、先生からも自らが書いた物語を読ませてもらった。どれもこれも「BL」か「百合」であったことを除けば問題はなく読めた。
3年生となり受験勉強に憑りつかれながら、たとえ数ページの出来であっても先生に毎日のように見せにいった。もちろん受験対策の勉強を見てもらっていて、両親は塾代として定期的に差し入れを私に持って行かせて、甘味や時にはアルコールに酔いしれてもいた。
「先生、受かりました」
「よし!よくやったぞ!でも、寂しいなぁ」
喜んではくれているが一抹の寂しさを漂わせてそう言った先生だったが、すぐに気持ちを切り変えて、私と物語の談義をいつもの通り交わしてゆく。この頃にはある程度まで物語を書く能力は備わってきたように思うが、それを言うたびに先生は意地悪く「まだまだ」と呆れたように言うのだった。
4月を迎えて東京の大学へと入学を果たした。
文学部とは名ばかり、まぁ、さしてそこまでという感じではあったが、友人もできてアルバイトもこなし、それなりの学生生活を楽しみながら半年が過ぎた夏の盛りの深夜2時過ぎ、突然インターホンが鳴った。
「はい?」
どうせ学友だろうとがさつな返事をしながら扉を開ける。目の前で恐ろしいほどつり上がった三白眼が私を睨んでいた。
「せ、先生」
「古い女は捨てちゃうのかな?」
「古い女って‥‥‥」
「連絡は少しだけ、どれだけ寂しかったか、不安で来ちゃったわよ」
来て早々にヤンデレのようなことを言い始めたのでそんな関係じゃないのだがと言い返そうとして、それが思い違いであることに気がつく。あの田舎の町で本当に先生と親しかったのは私だった。互いに覚悟のない物語を見せ合うまでになった関係は確かにある意味でそういう関係であるのかもしれない。
棒立ちになっていた私を押しのけて先生は荷物を持って部屋の奥へと入って行き、私はドアを閉めて素直に先生を招き入れた。それから3日間、先生は居座って男子大学生の荒れ果てた部屋の片づけと掃除を厳命して監視し、少なからず書き溜めていた物語を読んでは感想を述べ、そして大学とアルバイトで疲れて自宅へと帰り着いた哀れな学生に手料理を振舞ってくれたのだった。
「じゃぁ、帰るけど。毎日連絡を寄越しなさい。何時でもいいから」
「はい。先生も気を付けて」
「よし、じゃぁね」
去っていく車のテールランプを消えるまで見送りながら、何かこう心に穴が空いたような一抹の寂しさを味わう。自室の電気をつけた時にそれは猛烈に迫り来た。過ごしていた時間が消えてしまうと言うことがどれほどのことか、どれほど辛いことか、どれほど、どれほど……それを身を持って理解できた。
『寂しいですね』
『分かればよろしい』
メッセージを送るとすぐに返事があった。
『もう少し居たかったし、居てあげたかったけど、学校の子達もいるから、また、来れるときに来るわ。あと、お盆には帰ってくること』
『分かりました。でも、気を付けて、連絡きちんとします』
『うん。待ってます』
最後の言葉がとても嬉しい。誰かがどこかで待ってくれている、それだけで人はどれだけの安心感を得ることができるだろう。寂しい思いをさせてしまったとしっかりと反省して、それ以降に連絡を欠かすことは無く、お盆と正月には帰省して先生の元にもきちんと顔を出して書き溜めた物語と思い出話を手土産に沢山の話をした。
大学4年生の夏、公募で出した物語で賞を頂く機会を得て、やがてそれは一冊の小説となって世の中に出版された。意気揚々と手にしたそれを持って帰省して先生の元を訪れていつものようにドアをノックをしたものの反応がない、先ほどまでメッセージでやり取りをしていたというに物音の1つも聞こえてこなかった。
不安が過った。ドア越しに先生が倒れている姿が透けてみたような気さえして、慌てて裏手に回り室内を覗きこんだ。
そこに倒れている先生の姿が見えた。
殊の外、思考は鈍く体の動きは素早かった。後先も考えずに鍵のかかった長窓のガラスを手でたたき割って室内へと入り、拳から流れる血をそのままに駆け寄ってその身へと手を掛けようとしたとたん恐ろしく低い声が話しかけてきた。
「触ったら殺すし抱き起しても殺す、どうやら腰をやっちゃったみたい」
「あ…、なるほど。は、はぁ……」
ガラスの割れた音を聞いた両親が驚いて掛けつけくれたおかげで、先生と私はそろって町外の救急病院へと連れて行ってもらうことができた。私の怪我を見て驚き慌てふためいた先生だったが両親は冷静で清潔なタオルでくるんでガムテープで海苔巻にすれば問題ないと言い、事実その通りにされて連れていかれたのだった。
診察の結果、私は10針を縫う怪我を負い、先生はいわゆるぎっくり腰の診断を受けた。両親からはガラスを割るなどという浅慮な行動についていい年をして情けないと呆れてこっ酷く叱られた。先生は申し訳ないと私に謝罪したのち包帯の撒かれた手を見つめながら、なにかこう、まんざらでもないような表情を浮かべていたので私はそれに安堵する。
帰路、先生は新しいのを持ってくるという言葉を聞かず血染みのできた本を受け取って手放すことはなく、結局、買い直すことも無く先生は読み終えると袈裟切りの感想を書いて寄越してくれた。
大学卒業と同時に実家稼業を引き継いで町へと戻った。
仕事をこなしながら夜は物語を書き、そして先生と直に話しては感想を述べあう。
先生はやはり先生であったようで公募で賞をいくつか獲り数冊の本を出した。初版をすぐに頂いて拝読し、先生宅の夏夜の縁側で感想を伝えると顔を綻ばせてくれた。
とても魅力的だった。
思わずそのまま顔に手を伸ばしてしまう。
ピクリと驚いたような表情をして、やがて少し溶けたような視線と表情に吸い込まれるように私はゆっくりと唇を重ねた。やさしく手を廻してそのまま身を抱きしめると私の背中にも手が回ってしっかりと抱きしめられる。
唇を離して視線を合わせる。
潤んだ瞳と火照る柔らかな頬、艶やかで触り心地の良い髪を幾度か撫でて、私は無言のままその手を取って部屋と誘い、指を絡め合いながら夜の帳を開けたのだった。
朝を知る。 鈴ノ木 鈴ノ子 @suzunokisuzunoki
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