イノセントヘブン

黒い蜘蛛

第一部 魔弾の祓魔師

プロローグ 淀みなき青

第1話 贖罪



 ―――――――――――――――――――――――――――――――――――


 我はわざわいなるかな、主よ、

 生涯に大いなる罪を犯したれば、

 我何をかなせし、みじめなる者よ?

 汝へならで我いずこに逃れゆかん 我が神よ?

 我を憐れみたまえ、最後の審判さばきの日に汝来るときまで


 ――――――――――――――――――――――――――――――――――― 


 弱いとも強いともつかない蛍光灯の麓、神秘的なまでに静謐な声音がその詩歌を響かせた。


「カルロ・ジェズアルドのモテットです。間男と逢引きしてる途中の妻の命を奪い、その罪に苛まれながら生きた彼の苦悩が表れているとされています」


 陰鬱そうな声で言いながら、ほんじょうゆうもたれから背を離した。

 その拍子にパイプ椅子が音を立てる。脆く弱そうな音。それに引けを取らず、本條侑は弱々しい姿をしていた。

 痩せこけた頬に、伸び放題な髪と髭、丈の合っていないスウェットから生えた手首は生気のない根っこを彷彿とさせた。骨が浮き出ていた。

 長い髪から覗く伏し目がちの黒い瞳は、一切の光を吸収するような暗闇に埋め尽くされていた。


「その他にも、神からのゆるしを得るために、祈り続けて衰弱したという話も残っています。幼少期から、優れた聖職者を生み出した家庭で宗教教育を受けてきた、彼らしい贖罪の仕方とも言えます」淡々とした口ぶりで、疲弊して無感動になっているのか、それとも開き直って特別な感情も湧かないのか、どちらとも取れない抑揚のなさで続けた。「きっと、食事も喉を通らなかったでしょう。それが原因かは解りませんが、鬱病にも苦しんだようです。以降に作曲した彼のマドリガーレには、先程のモテットも含め、苦悩や死に関する歌詞が多く作詞されているように、きっと、罪に苛まれながら生涯を終えたのでしょうね」


 そこまで喋ったところで息をつく。唇を湿らせる。長いこと言葉を発することがなかったのか、それとも普段から寡黙に徹しているのか、何度か舌を動かしながら、前髪で隠れた眼を正面に向けた。

 目の前には自分がいた。正確には、最初に眼に入ったのが自分の姿だった。間もなく、透過した自分の鏡像から奥の景色が、ポッと火が灯るように人の姿が浮かび上がる。心当たりのない、名前も知らない人達だ。


 分厚いアクリル板を挟んだ向こうの空間には、二人いた。

 本條侑から見て、斜めの位置にある同じパイプ椅子に腰掛けており、左に50前後と思われる男性、右にはそれよりも二周りは下であろう女性が座っていた。


 若手社長とその秘書、という澄んだ雰囲気を放つ二人は、侑の寄る辺ない独白を聞き及び、果たして何を思ったのか。


「不思議、だね」と口を開いたのは男性のほうだった。柔和な笑みを湛えている。「君が音楽好きだということは知っていた。ベートーヴェンやモーツァルト、クラシックを題材にしたオペラやミュージカルの開催には劇場まで見に行くことも」


 男性の口から紡がれる言葉の数々は、それこそ清廉な歌手のような落ち着きのある響きがあった。聞くだけで心に安らぎをもたらしてくれる。


「だけど、だ」男性はその声音のまま続けた。「その好きな音楽の話をしているというのに、君のこぼす言葉には好きが感じられない。何故だろう?」


「そう思いますか」本條侑はそう返事した。肌が幽霊のように白い。


「嫌悪を抱いている、というよりは納得していない感じだね。失礼ながら、私は君の言う音楽家のことは知らない。その御仁が、歴史的にも音楽的にもどういった評価を受けているのか解らないんだけど――君はどちらに不満を抱いているのかな。よければ教えてほしいな」


「……あの」


「ん?」男性は微笑んだまま、顔の角度を傾けた。


「貴方がたは何者なんですか?」本條侑はずっと訊きたかったことを口にした。


 午後の1時だった。30分前ほどに支給された昼食のトンカツ弁当を、白米と刻み野菜を一口二口喉に通しただけで終わらせた後、部屋にやってきた看守が前触れもなく言ってきた。


「面会の時間だ」と。


 当然、断った。会いたい人物などいなかったし、そこらへんの決まりに詳しいわけではなかったが、。訪問者の正体にも心当たりがなく、拒否権があることを思い出した本條侑はすぐさま拒絶を口にした。すると、


「拒否権はない」と。


 あからさまな抵抗はしなかったものの、半ば強制的に連れ出され、廊下を引っ張られるように進み、第9面会室に入るよう促されると、蜂の巣のような小さな穴が空いたアクリル板の向こうに、今の二人がいた。


 本当に見たこともない男女だった。正体を探ろうとして、真っ先に浮かんだ候補は弁護士関係だったが、あちらは既に決着がついているはず。まさか冷やかしか? などと思いも過ぎったが、それにしては服装が畏まっているし、先述の通りただの悪ふざけで会えるような身の上ではないことは他ならぬ自分がよく理解している。

 二人が着ているのは喪服のように黒いスーツで、アクリル板下の白い壁には同じ色をしたテーブルが引っ付くように広がっているので全体像は把握しかねるが、予想の範囲を飛び出すようなファッションではないだろう。

 一番可能性が高いところで警察関係だろうか。正直、誰であろうとどうでもよかった。


 女性のほうは一向に口を開く気配を見せず、男性が引き続き侑の疑問に返事した。「その前に、ひとつだけ、確認を取ってもいいかな」


「確認?」


「ここまで来て、別人でしたなんて笑い話にもならないからね。君が10年前――本当に、新宿アモック劇場で無差別殺人を引き起こしたのかな?」


「……違いますよ」


「え、違うのかい?」男性はこのとき、初めて素を出したような気がした。


「10年前ではなく、11年前ですよ」決して間違えてはいけない、と本條侑は力強く訂正した。




 かつて、新宿歌舞伎町にて栄華を極めた音楽の殿堂、新宿アモック劇場。

 収容人数千人を越え、お手軽な価格で公演を毎日のような頻度で開き、チケットも取りやすいと評判だった。披露される内容も、ミュージカル、オペラ、演劇、演歌、落語、と多種多様な芸術に富んでおり、昔気質な老齢も新しい時代に生まれた子供も楽しめる、誰からも愛されていた伝説的な劇場だった。

 その頻度の高さ、それも一日にジャンルの異なる公演を何度も披露するような特殊性から、並々ならぬ費用と散財が予想されるが、残念ながら毎回が枚員御礼とはいかず、経営の進捗は右肩下がりのように思われていたが何故か潰れない。そこに黒い噂を嗅ぎつけたジャーナリストや記者が後を絶たなく、当時、規制の甘かった暴対法も相まって暴力団の影をチラつかせる記事も少なくなかったが――とにかく表からも裏からも話題の尽きない劇場だったことには間違いない。


 そんな日本のトップに君臨したといってもいい殿堂も、今では見る影もなかった。


 2008年5月1日。

 劇場内にて発生した無差別殺人事件によって、次の年を跨ぐ前に強制閉鎖されることとなった。


 『魔弾の射手』の公演途中だった。

 観客の一人が突然、席から立ち、客席と客席に挟まれた通行用通路を半ばほど下った位置で、隠し持っていた拳銃を客席に向かって乱射した。

 弾丸に撃ち抜かれ、死亡した被害者は26人。大小含めた負傷者まで入れると数は200数人に及ぶという、世界的に見ても凄惨極まるこの事件。

 無差別に道行く人を襲うこのような事件は珍しくなく、また計画的なテロ事件ではそのさらに倍近い被害者数が出ているとはいえ、今回の犯人は単独行動であり、たった一人の手によって二桁に登る死者を出したこの事件は尋常ではなかった。


 以降、このような閉鎖的な空間に入る際には執拗な持ち物検査をすることを義務付けられるようになるほどの影響。その犯人は犯行後、難なく警察に捕まり、三審まで伸びた裁判の末、当然のように死刑が決まった。


 ネットではこの凶悪な犯人を、公演していたオペラの題名や形式から取り、『魔弾の怪人』などと名付け持て囃し、またミステリアスな精悍な顔つきも相まって一部ではカルト的な人気まで出る始末だった。


 愛憎の渦中に籠もり、拘置所でただ終わりが来るのを待っていた凶悪犯――それが本條侑だった。




「テレビなどの娯楽は受刑者が働いた労働の対価として与えられるもので、死刑囚である私には見ることもできませんでした。……いや、嫌味や文句なんかではありませんよ。真面目に働くからこそ得られる権利というのは道理に適応していて素晴らしいと思いますから」


 死刑囚である彼からは有り得た未来がことごとく失われており、獄中という敷かれたレールの先には底の見えない奈落が待っているのみ。まさに、そんな暗闇と同じ色を湛えた眼で、淡々と言葉を紡ぐ。


「ただひとつ、気になったのは、父と母の名誉のことです。父は立派な弁護士でした。母も、一般会社員で仕事をしながら私を育ててくれた敬意を表すべき人です。そんな二人が、私の取った愚行によって、どのような扱いを受けているのか。それが今も心残りです」


「君の両親は確か」


「亡くなっています」


 即答で出された結論。その無味乾燥とした指向が、侑の過去に触れた悲しみを思い出すまいとしているようだった。


「12年前です。交通事故でした。その六ヶ月後、母も後追いのように」


 だからというわけではないが、裁判のときはそのことを言及された。自分の担当だった弁護士は両親の死を見せしめに法的猶予を取ろうと奮起していた。が実際は関係がない。本條侑が起こした事件と、両親の死には直接的な関係がない。お門違いの主張だった。侑が唯一、良かったと思えたのは、拘置所に入っても、悲しませたり、失望させたりする相手がいないということだった。


「子供を置いて、という風に母を悪く思われるかもしれません。しかし、私は納得しています。愛がどういうものか、自分は感じたことがありませんが、感じたことがないが故に不満を持つのはおかしな話ですから」


「そんなことはない。この星に産み落とした以上、責任を持って育てるのは親の責務だよ」


「育てる、という年齢でもなかったですが」


「親子に年齢は関係ないよ。血の繋がった特別は永遠のものだから。逆に子供もまた、親のために精一杯の恩返しをやり抜く。運命共同体。私の好きな言葉だよ」


「運命共同体、ですか」本條侑は長いため息をついた。「では、あなたの持論だと私は最悪の親不孝者となるでしょうね」自虐や皮肉ではなく、本心から出た言葉だった。


 本條侑が座っている側の部屋に取り付けられた蛍光灯が、カチカチと音を立てながら明滅し、前髪でただでさえ陰気な彼を、光を与えたり影を落としたり、意地の悪い悪戯のようだった。

 面会室の出入り口には、本條侑を連れてきた看守が見張るように佇んでいたが、反応らしき変化もなく、こちらの会話が聞こえているのかも怪しい。


「人は二度死ぬ。肉体的な消滅と、記憶からの消滅。それなら、記憶の中の大切な人は綺麗であってほしい。もしも、私の犯した罪を契機に、美しく生きた二人の人生が誰々の記憶の中で穢れてしまっていたら申し訳ない気持ちでいっぱいです」


「思いやりに溢れているね、君は」男性は言った。


「思いやる気持ちがあれば事件なんて起こしませんよ」


「けど、思いやりがあるからこそ、君は今もこうして苦しんでいるんだろ?」男性の微笑みは柔らかく、少しでも気を許すと何もかもを預けてしまいそうだった。「今の姿がその証拠だ。ただズボラなだけでは、そこまで弱ったりはしない。それこそ、さっき君が言った、カルロ・ジェズアルドのように罪に心を苛まれている」


「当然の結果です。然るべき末路ですよ」


 女性は所在なさげに髪を摘んで弄っていた。会話を聞いているのかいないのか、男性のとなりで沈黙を貫いている。


「大切な人を奪われた遺族や身内は、私が想像するのも烏滸がましいほどの悲しみと憎しみで苦しんでいるはずです。この程度で済んだだけでもありがたいと思うべきですよ」


「確かに。君の犯した罪は許されるべきではない」男性は神妙そうに眼を伏せた。「というより、許す権利を私達は持っていない」


「私の裁判を担当した弁護士は、一貫して『反省の態度を示すべきだ』と仰っていました。それぐらい分が悪い審理だったんでしょう」


「でも君は、裁判中一度も、役人からの質問に答えることはなく、事件を引き起こした動機についても語らなかった」


 今思えば、あの弁護士には申し訳なかった。刑事裁判の有罪率は99.9%。そこに大量の人命を奪った凶悪犯の弁護となれば、世間的にも弁護士としての箔的にも逆風なのは明らかで、恐らく彼もやりたくてやったわけではなかったのだろう。

 本條侑に喋る手番がまわるたび、躾のなっていない飼い犬が人に噛みつかないか不安で見守るような気の揉んだ顔をしていた。そして、侑はそれに裏切る、いやこの場合は応えると言うべきか、要領を得ない発言や黙秘、終始薄笑いすら浮かべながら有罪の烙印を押された。

 その後、どうしてあんな態度を取ったのかと弁護士から非難されると、


「反省や懺悔を行うことは当然の行為であり、前提なんですよ」本條侑はあの弁護士のときに言った事と、同じ事を目の前の男性にも言った。「人は動物や昆虫じゃない。己の仕出かした行為を顧み、心からそれを受け止めることができる。人間にとっては、最初から特別なことをしなくても備わっている当然の機構だ。だからこそ、そんな当然によって、与える罰則を左右するなど馬鹿げているとしか思えない」


「……つまり、君は」男性は言葉を選ぶような間を置いた。「減刑されるのを嫌って、ワザと模範から外れた態度を取ったのかい?」


「私は、裁かれるべき人間ですからね」


 本條侑の突飛な真実に、男性も笑顔を消して押し黙った。さしものあの女性も、興味のない素振りを見せているものの、明らかに衝撃を受けて瞬きを何度もしていた。


 事件当時、本條侑は20歳の誕生日を迎えたばかりだった。一年前から、芸術専門学校にてミュージカル俳優になるための指導を受けていた。その努力が実を結んだというわけではないが、裁判中ではその演技力が活かされたことは間違いない。ただ、直接的に被害者やその遺族を悪く言うような悪辣な言動は流石にできず、まるで自身に下される判決すら楽しみにしているような愉快犯的な路線に走った結果、その飄々とした態度がミステリアスさを呼ぶと変な持ち上げ方をされたのは予想外だったが。


 その独白を聞いた弁護士は、この世に存在しない生き物でも見たかのように愕然とショックを受けていた。本條侑の行動、思想はあまりにも常軌を逸していた。それではまるで…………、


「君は――死刑になりたかったのかい?」


「それが、この国で出せる最も重い罰なのであれば」


 本條侑は長い前髪の下からにゅっと広角を歪ませた。

 よし。少し勘が戻ってきた。


 なら、どうしてあんな残酷な事件を起こしたんだ!


 弁護士の言葉が頭に反響するように繰り返された。

 しかし、侑はそれが聞こえていなかったかのように呆然とする二人に語り続ける。


「罪人には犯した罪と同じ制裁を享受すべき。これが私の持論です。つまり、お金を奪い取ったのなら、同じ額だけのお金を取られるべきで、人を殺したのならその人も殺されるべきなんです」


「しかし、それだと君の場合は」


「その通り。私は、私の命ひとつでは償えきれないほどの命を奪いました。でも、だからって結論は変わらない。日本での重罰が死罪というのならば、私はそこを目指す他ありません」


「……それが、君の贖罪だと?」


 本條侑は答えなかった。


「……よく解ったよ」男性はそう呟くと、面会室に拵えられた安物のパイプ椅子から立ち上がった。

 付き添いの女性も、一コマ遅れて席を立つ。


 ようやく帰ってくれるのか、と本條侑は人知れず安堵した。11年の時を経て、彼の死刑執行日は間近に迫っている。その日を待ちわびてここまで来たのだ。

 表情にこそ出していなかったが、本條侑の中で駆け巡るその思いは、荒れ狂う海原よりも激しい感情の波を渦巻かせていた。

 もしも、突然二人が面会に来ることなく、一人独房でじっとしていれば、瞳から滝のような感涙を流していてもおかしくなかったぐらいに。

 二人が何者なのか気にならないと言えば嘘になるが、有終のXデーが遠のくような騒ぎに発展するくらいならば、触らぬ神に祟りなし、このまま身を引いてもらったほうが都合がよかった。

 ようやく解放される、と身体に嵌められていた枷が外されるような感動に身が打ち震える。


「それじゃあ、行こうか」そのとき、男性から聞こえた言葉がそれだった。


「…………え?」そこで、本條侑は初めてアクリル板の向こうの世界をまともに直視した。


「事情は大体解った」戸惑う侑を置いて、男性は尚も言葉を紡ぐ。「今度は実践だ」

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