第63話 穏やかな旅路


 聖歴1430年8月28日。

 緊急出航の翌日。


 ヴェイパーレックスの渦潮を離れた際、海賊狩りの船が追跡してくるかと思われたが、リバースカース号の後ろの海には今のところ船影はない。とても平和な航海が続いている。


「この船に追い付ける船は7つの海を見渡しても存在しませんよ」


 これはラトリスの言だ。

 事実ならば航行している限り、追跡の心配がないということになる。


 船のお客さんゼロは昨日のとおり警戒心が強いため、常時気が張っているようだった。常にこちらの位置を気にしているのが視線の動きからわかるのだ。


 ただ、そんな野生の狼みたいな彼女でも、唯一セツにだけは警戒心を緩めているようだ。昨晩も彼女の部屋で眠ったという。天真爛漫な子供は安心できるようだ。


「おはようございます、オウルさん」

「おはよう、お嬢さん」


 朝、ゼロは挨拶をしてくれた。

 個室前の廊下でのことだ。


 彼女はマントを脱いでおり、トランクも持っていなかった。代わりにちいさな石鹸とタオルを抱きかかえていた。俺がそれに視線を落とすと、彼女の腕が力んだ。


「その、この船には浴室が備わっていると聞きまして……」


 ちいさな声でそういい、彼女は気まずそうに顔を伏せた。浴室を使うことへの後ろめたさを感じているのだろうか。気にしなくていいのに。


「おほん。そうか。狼が寝ているかもしれない。気をつけろよ」

「え? お、狼……?」


 小首をかしげる少女。困った顔をしている。いい顔だ。

 俺は皆まで言わず、上甲板へと続く階段に足をかけた。


「昨日は、ありがとうございます」


 背後から声をかけられ、俺は振りかえった。


「?」

「海賊狩りから助けていただいたお礼、まだ言っていなかったので」

「そのことか。気にしなくていいさ」


 俺は手をひらひらと振って上甲板へとのぼった。

 しばらくして、床下から「きゃあぁぁぁ‼」と叫び声が聞こえてきた。どうやら狼を見つけたようだ。楽しそうでなにより。


 上甲板では朝からセツとナツがたわしで上甲板をこすっていた。ミス・ニンフムは舵を取っていて、ラトリスは船長室のほうに姿が見える。俺は酒瓶を片手に船長室に足を向けた。


「おはようございます、オウル先生」

「おはよう、ラトリス。いい朝だな。ゼロの顔色がよかった。よく眠れたらしい」

「セツが相部屋を受け入れてくれてよかったです」

「まったくな。クウォンの時はあんなに嫌がってたのに」

「一時のお客ですから、部屋を乗っ取られる心配はないと判断したのでしょう。クウォンは、ほら、なんかずっといそうな雰囲気あるじゃないですか」


 俺は船長室の机のうえを見やる。

 地図が広げられ、羅針盤やら定規やらが転がっている。


「船は目的地までいけそうか?」


 ラトリスは少し悩んで「嵐に捕まらなければ」と答えた。


「ヴェイパーレックスの渦潮からホワイトコーストまでは普通の船なら2週間、この船なら最高速度を維持できれば5日でつけます。食料も水もほとんど無いですけど、航行日数も少ないですし、乗組員も極端に少ないので、我慢さえすれば、生きてたどり着けるかと」

「ストロングスタイルだな……あの出航の仕方にしては、目的地につけるだけありがたいか」

「最高速度を維持するために、追い風の魔法を絶やすわけにいかないです。なので、ミス・ニンフムに頼んで、ほかの魔法の多くを止めてもらいました」


 リバースカース号には多くの魔法設備が存在する。ゴーレムの魔法、船体の再生する魔法、菜園の水瓶で真水をつくる魔法、浴室のお湯をつくる魔法、個室で揺れを軽減する魔法などなど。


 毎日太陽の光から生み出される蓄積魔力がなければ、リバースカースは魔法を使えない。なので一番大事な追い風の魔法を全開でまわせるようにエコ生活をしなければいけないのだ。


「ん、待てよ、だとすると、浴室の魔法も切れちゃってるのか……?」


 床下から「うわぁぁ、冷たっ、これ海水……⁉」と、悲鳴にも似た声が響いてきた。ラトリスと俺は視線を一緒に足元に向けた。


「うちは女の子もおおいし、お風呂くらいは復活させてもいいんじゃないか」

「ミス・ニンフムのやつ、命のお風呂まで魔法をとめるなんて……抗議してきます」


 ラトリスは半眼になり、不満そうな顔で船長室を出ていった。

 あの子は人一倍、お風呂好きだ。ミス・ニンフムにたびたびに「蓄積魔力が尽きました。浴室の使い過ぎです」と注意を受けるが、たいていはラトリスへの注意喚起もセットなくらいだ。


 午後になった。食料不足の対策として、俺は本日も釣り糸を垂らしていた。


 蒸留酒をチビチビと飲み、限られたベーコンをチビチビ齧りながら、気持ちのいい風に体をあずける。良き時間だ。


 ほどなくしてゼロが隣にやってきた。彼女も釣り竿を持っていた。

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