第6話 未だここにある

 汚い涎をしたたらせる凶悪な口。

 それを眼前にし、ラトリスは己の浅慮を悔いた。


(あぁ、何してるんだろう、わたしは。見た目が同じだからって、前倒せたからって、敵を見誤った。この蜘蛛……火を怖がらないし、今の斬撃で怯まない、わたしが戦ったやつよりずっと生命力が高い。わたしの知ってる無限を喰らう蜘蛛じゃない、この島の特異個体なんだ)


 張りきっていたこと。倒した経験があったこと。熟達の剣士としての自信。

 対処できない敵などもうずいぶんと会っていなかったことによる慢心。


 いくつかの理由が突然の死を招いた。


 ラトリスは死神の冷たい吐息を首筋に感じた。

 皮と骨だけの枯れた手先が、白く細い喉元に手をかける。

 身体に満ちていた火が冷めていく。ろうそくの灯を吹き消すかのように。


(意外とあっけないもんだわ、死ってこんな近くにあるんだ)


 かつてないほどに肉薄している暗い死。もはや回避は間に合わない。意識が薄く引き伸ばされていく。訪れる一秒先が永遠にやってこない。不思議な感覚。己の死を前にした、ラトリスの脳裏によぎっていたのはありし日の景色であった。


 ブラックカース島には、商船に乗ってやってきた。冷たい檻のなかに入れられて、たまに思いだしたように水と食事を与えられながら。そうやって長い時間かけて遠い場所から連れてこられた。


 必死の思いで商船から逃げ出し、知らない町のなかを駆けた。後ろからは商人たちが怒声をあげて追いかけてくる。ガリガリに痩せた子狐が逃げられる可能性は限りなく低かった。


 ラトリスの体力がつきてもう走れなくなろうという時、彼女の前に青年が現れた。当時の格好を覚えている。よく鍛えられた二の腕が半袖のシャツにピチピチで、もっとおおきい服を着たほうがいいと場違いな感想を抱いたのだ。酒瓶を片手に腰に刀を下げた美青年は、ラトリスに気づくなり「お前……」と声をもらした。とても驚いているようだった。


「た、たすげで……っ」困惑する青年へ、ラトリスは嗚咽をもらすように言葉をはきだした。それが精いっぱいだった。息も絶え絶えで、今にも倒れそう。救済を願う必死の叫びだった。


「おい、お前え‼ うちの奴隷になにしてる‼」

「商品を返してもらおうか‼」


 商人たちは銃を抜いて、青年に向けた。

 青年はチラッと視線をやるだけで気にした風もない。

 膝を折り、目線の高さをあわせ、ちいさなラトリスの頭をやさしく撫でた。


「おっさんども、悪いがこのモフモフはもらうにした」

「馬鹿なこと言うんじゃねえ‼ どういう了見だ、俺たちが納得するとでも⁉」

「この獣人の娘はべつに俺が檻からだしたわけじゃあない。ここにいるのはてめえらの管理不足のせいだ。だのに、なんで俺に銃を向けてる。ムカつく。だからこのチビは俺がいただく」

「めちゃくちゃなことを……‼ 後悔したくなきゃさっさとガキをよこせ‼」

「話のわからねえじじいだ」


 青年は酒瓶を放り捨てた。パリンと割れる音。そして腰の刀に手を伸ばした。


「はは、なんだ? まさか剣で銃に挑もうってのか? これだから田舎者は‼」

「火薬の力を知らないと見えるな‼」


 商人の忍耐力は強くなかった。すぐに撃鉄が落ち、近代科学の咆哮があがった。

 最新の武器だ。火薬は旧時代の武器をすべて時代遅れの産物にした。理由は明白。

 銃は剣よりも強し。今日では赤子でもわかる道理である。


 しかし、時に例外があることはあまり知られていない。


 ガギン。甲高い金属音。火花が散ったあと、青年は直立不動のままそこにいた。彼は親指で鍔を押し、鞘からわずかに刃を露わにし、顔をのぞかせた数センチの白刃で、弾丸を弾いたのだった。


「……は?」「こ、こいつは……ッ」商人たちはあとずさり始めた。引き金をひいた者は、顔色を悪くさせ、短銃を力なくさげる。


 ただ一度のやりとり。それだけで彼我の闘争者としての差は明白だった。

 青年はひとつため息をつくと、刀を完全に抜いた。


 途端、商人たちはバタバタと駆けだした。

 背を向けて互いに押し合いながら「うあぁあぁぁぁぁ‼」と叫び声をあげながら。


 ラトリスは茫然としていた。あれだけ恐怖の対象だった商人が、あれほど無様に去っていくさまは、幼子に衝撃的に映っていた。それはスカッとする感覚だったのだが、当時の彼女には、それが気持ちのいいものなのか判別がつかなかった。


「大丈夫か、ぼうーっとしてるけど」


 青年はいつの間にか刀を鞘におさめ、しゃがんで目線の高さをあわせていた。


「小汚いな。すごく痩せてるし。これじゃあせっかくの可愛い顔が台無しだぞ」


 そう言って幼いラトリスを撫でる青年。

 当のラトリスは頬を染め、顔を深くふせてしまった。


 それがすべての始まりだった。

 黄金のように輝く日々の最初の記憶だ。


 脳裏の甘酸っぱさとは打って変わって、現在のラトリスは眼前にせまった暗い死を摘ままれそうになっていた。こんなにいいことを思いだせたのに、もったいないな、とラトリスは思った。


(走馬灯ってやつかな。懐かしいや。あの時、オウル先生が助けてくれなかったらわたしは……大丈夫、船はもってきた、わたしが死んでもオウル先生はきっとこの島を脱出できる)


 最後の瞬間、ラトリスは己が使命を果たしたことに誇りらしさを感じていた。


(わたしの使命はオウル先生を島からだすこと。先生にもらった大恩に比べれば、あまりにちいさい恩返し。申し訳ありません、オウル先生。どうかお元気で)


 引き伸ばされた時間にも終わりはくる。覚悟は済んだ。

 ラトリスは無念の結末を受け入れようとし──ヌルッと視界にはいってきた背中に目を見張った。怪物と狐の間に割りこんできたのは、師オウル・アイボリーだった。


 背中でラトリスを押しだしつつ、オウルは素早く抜刀し、剣先で蜘蛛の突進を迎撃する。巨大な体躯を押さえるには細く薄すぎる刀をつっかえ棒のようにして、人間数十人分もの質量を止めた。


 ──否、止めたのではない。逆だ。


 まったく止めない。

 突進するエネルギーをまったく静止させずに、巧みに力の流れを変化させる。


 彼はひき殺される運命にあったラトリスから土砂崩れのような攻撃をそらし、勢いそのままに埠頭の海側へと案内した。暴れ牛の突進をいなすような、一見して理解しにくい力の誘導で。


「こらこら、うちの一番弟子を食べないでくれるか?」


 そうこぼすオウル。

 ラトリスは眼を見張り、息を呑み、ぴたりと固まった。


(あぁ……先生は、いまだわたしを救ってくれるんだ……)


 全幅の信頼。最大の安心。ラトリスの口元が優しく緩んだ。


 だが、戦いが終わったわけではない。

 死の運ぶ蜘蛛はただ受けながされ転ばされただけだ。


 力を誘導された怪物は、埠頭をゴロゴロと横転しつつ、すぐに姿勢を立て直そうとする。再び突っこんで、持て余す野生の暴力で、非力な人間どもをすり潰すために。


 しかし、おかしい。

 どういうことだこれは。


 暴虐の蜘蛛は思うように姿勢が整わない。

 八本もある足で、地を掴み、空を蹴り、それでもうまく身体を制御できない。


 それもそのはずだ。

 無限を喰らう蜘蛛は、すでに“右側面の脚4本”を失っていたのだから。


 オウルは短く息を吐き、軽やかな足取りで地を蹴りサッと怪物に近づいた。


 噴射される糸。蜘蛛の十八番。

 硬質で粘性の強い糸は、同時に毒性を有する。


 予備動作なく放たれる致命的な攻撃を、しかし、オウルは飛翔する凶糸に刀を横からあてがい軌道を変化させ、自分にあたらないようにしてしのぐと、火斬で切開された傷口へ刀を深く刺しこんだ。


 ラトリスの攻撃が傷つけた箇所へ、裂傷をえぐるように深々刺さった刀は、奥深くに到達し、蜘蛛の心臓を的確に穿つ。蜘蛛はピクリと震えたのち動かなくなった。オウルは刃をひねり、グッ! グッ! と押しこんでしっかりと怪物が死んだことを確認する。


「ふむ」納得したようにうなずき、オウルは刀を抜いた。

 そこまでしてようやく埠頭を包んでいた緊張感は薄らいだ。


 すっかり固まっていたラトリスは忘れていた息をとりもどし、深く空気を吸いこんだ。


(先生の、理合の剣……健在どころか、以前よりもさらに練度が増している……)


 ありしの日の憧れた師、長い時間が過ぎようと、そのすべてが確かに、未だここにあった。ラトリスは涙ぐみ、身体の内側から湧き上がる熱さを、深く吐きだした。

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