第4話 果たされる約束

 彼女との思い出が鮮明に蘇る。

 この子と出会ったのは、俺がまだ十代の頃だった。ブラックカース島には何の因果かいろいろなものが流れつくことがあった。人間が流れ着くことも珍しくなかった。文字通り浜辺に流れつくという意味でも、寄港した船の奴隷が逃げだしたとかそういう意味でもだ。


 ラトリスはそういう漂流者のひとりだった。商船に奴隷として載せられていた彼女は、鎖に繋がれて檻のなかにいた。俺には奴隷を買う趣味も資金力もなかった。檻のなかの狐の少女と目をあわせても「俺には何もできないよ」と、その時は憐れむだけだった。


 商人から逃げてきたラトリスを道場にかくまったのは、ある種の罪悪感だったのかもしれない。商人に怯えるちいさな少女は、涙目で訴えかけてきたのだ。救済を。

 そうして俺と義父はちいさなラトリスを育てることにした。


「あの時だって、商船が島から避難する時だって、オウル先生はわたしを助けてくれました」


 ラトリスは涙を指でぬぐいながら、嗚咽混じりに言った。


「約束を果たしにきました。ずいぶん時間はかかってしまいましたが」


 恩返しだというのか。いい子すぎるのだが。あぁ、俺も嗚咽が。とまらん。涙が。感動に涙が溢れそうになる。いかん。こんないい歳したおっさんがギャン泣きするわけにはいかない。


「あの時のことを覚えていてくれたなんて、俺のことをまだ……うぅ、なんてことだ、ぐすん」


 突然ラトリスはガバッと抱きついてきた。


「十年間、先生のことを忘れた日はなかったです、当たり前じゃないですか‼」


 ラトリスはおでこを擦りつけてきて、ぴょこぴょこ動くふわふわのお耳で俺の顎のあたりを攻撃してくる。昔もこれをよくやられていた。懐かしい。


 モフモフした巨大な尻尾も左右に激しく揺れる。

 モフモフ揺れる景色も非常になつい。道場には漂流者の獣人族がやたら多かったのだが、なかでも狐人族であるラトリスの尻尾は、特別モフモフ値が高かった。アイボリー道場モフモフ選手権の連覇者は伊達ではない。


「尻尾は相変わらず。身長もおおきくなったなラトリス。あの頃はこんなにちいさかったのに」

「先生、流石に指でつまめそうなほど小さくはなかったと思いますよ?」


 ひとしきり泣くと、ケラケラとした笑みを見せてくれた。愛らしくみんなの人気者だった笑顔だ。いかん。すべてが懐かしすぎて涙が足りない。


 涙腺の修復作業に手こずっていると彼女が力強く抱擁していることが気になり始める。ずっとホールドされているうえ、鼻先を俺の胸骨に刺しそうなくらいぐりぐりしている。


「ラトリス? 何しているんだ?」


 ラトリスは俺の胸におでこをこすりつけながら首を横にふる。

 返事になっていない。


 正直、俺、もうおっさんなんだ。認めたくないが、たぶん臭いと思う。お願いだから離れたい。十年前の爽やか美青年だった師範代のイメージを崩したくない。いや、いまさら何を格好つけるのだって話だけどさ。愛すべき弟子に失望されたくないと思うのは人情ってものだろう。いつまでもカッコいいままでいたいのだ。


「……濃度100%の先生の香り」


 ラトリスは鼻息を荒くし、モフモフの尻尾をことさらに激しく揺らした。


「なんだなんだ、どうした?」

「先生の匂い、落ち着きます」

「そうか? 故郷の香り的な話か。……いや、臭いだろ」

「嘘じゃないです。これほど落ちつく香りは7つの海を見渡してもオウル先生だけ。吸うたびに瞼が重たくなって意識が朦朧とします」


 それはほとんど麻酔の類なのでは。 


「フガフガフガ」

「ん? ラトリス、落ち着いているんじゃなかったのか?」

「フガフガッ‼ フーッ‼ フーッ‼」

「麻酔が裏返って興奮に⁉ ラトリス、落ち着け、落ち着くんだ‼ うああ‼」


 様子のおかしいラトリスに押し倒されてしまった。

 ぐへっ。けっこう重たいな……。


 鼻息を荒くし、我が弟子が俺の身体の隅々までクンクン。モフモフの尻尾は嵐を生みだすのではないかという勢いで乱舞する。このまま空でも飛びそうだな。


 待てよ、そうかそうか、思いだしたぞ、獣人の子はこういう感じだった。


 かつて道場には漂流者の獣人族がたくさんいたのは先述の通り。獣人たちは身体の匂いを柱とか壁とかにつけて縄張りの主張をしたりするのだ。あと夜鳴きもします。いやぁ大変だった。


 感情表現は人間よりずっと激しい。怒りは噴火する火山のようにあらわすし、悲しむ時は滝のように涙を流す。そして、嬉しさは表すときは大興奮して手がつけられない。


「ラトリス、落ち着け、落ち着くんだ!」

「きゅぇえ、先生先生先生先生先生先生、せんせ、オウル先生っ、この日をどれだけ──‼」

「ええい、こうなったら……っ」


 俺はモフモフの尻尾をむぎゅっと握った。これぞかつて興奮状態になった獣人弟子たちを制圧するために編みだした対処法、アイボリー流『しっぽ掴み』である。


 モフモフの毛束をぎゅっとすると、ラトリスはビクンっと身体を跳ねさせ動きをこわばらせた。

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