居酒屋の思い出

 市街地を抜けると、視界が開けた。そこには、まるで時代劇のセットのような大きな屋敷が広がっていた。白壁と黒い瓦屋根が陽光に照らされ、威風堂々と佇む姿は、この街のランドマークと言っても過言ではないのだろう。

「うわぁ……」

 思わず息を呑んだ。小さい頃に来たことがあるらしいのだが、記憶の中の屋敷はこんなにも大きく立派だっただろうか。記憶の糸を手繰り寄せるように目を凝らすが、思い出せない。ただ、圧倒的な存在感だけが心に深く刻み込まれる。

「ほらほら、何ボーッとしてんだい。早く降りて降りて」

 やや乱暴に車を停めたおじさんの声が、我に返らせた。助手席から慌てて降り、後部座席のお姉さんと合流する。しかし、アヤナは待ちきれないとばかりに、すでに玄関へと駆け出していた。

「アヤナちゃん、危ないから走っちゃダメ!」

 お姉さんが注意するのも聞かず、アヤナは屋敷の中へと消えていく。僕とお姉さんは苦笑いを交わし、足早におじさんの後を追って玄関をくぐった。

 重厚な木の扉が開くと、ひんやりとした空気が肌を撫でる。薄暗い玄関ホールには、年代物の調度品が静かに並んでいた。

「さぁ、上がって上がって」

 おじさんに促され、靴を脱いで上がる。廊下は薄暗く、まるで別の世界に迷い込んだかのようだった。

「えっと……こっちかな?」

「タダシは、一回客間に荷物を置いてくるといい」

 おじさんにそう言われ、僕は頷く。正直言って、もうクタクタだ。早く横になりたい気分だった。

「わかった。お姉さんは?」

 僕は、お姉さんに尋ねる。

「私もアヤナちゃんの部屋に泊めてもらっているよ」

 お姉さんは優しく微笑んでくれた。

「あ、そうなんだ……」

 僕は、もしかしたらお姉さんと同じ部屋で過ごせるかもしれないという淡い期待を抱いていたので、少しがっかりした。


 広々とした客間に案内されると、僕は迷わず荷物を畳の上に放り投げ、そのまま大の字に寝転がった。どこか懐かしい畳の香りが鼻腔をくすぐり、じんわりと心地よい眠気が全身を包み込む。このまま夢の中へ落ちてしまいそうになるのを堪え、うとうとしていると、突然襖が勢いよく開いた。

「何ぼーっとしてんのよ、ご飯いくわよ、ご飯!」

 アヤナが、弾けるような笑顔で飛び込んできた。どうやら、おじさんが港近くの美味しいお店に連れて行ってくれるらしい。眠気を吹き飛ばし、慌てて起き上がる。

 部屋を出ると、アヤナの後ろをついていく。

「なにピッタリくっついてくるの? キモいんだけど」

 アヤナは振り返りもせず、辛辣な言葉を投げつけてくる。でも、今日一日で慣れっこだった。それに、正直、この広大な屋敷でアヤナとはぐれたら、二度と自力で部屋に戻れる気がしない。アヤナの冷ややかな視線を受けながらも、必死にその後を追いかける。

 曲がりくねった廊下を抜け、ようやく玄関にたどり着いた。安堵のため息をつき、再びおじさんの車に乗り込む。これから始まる夕食の時間が、少しだけ楽しみになった。

 20分ほど車に乗って移動する。その間は、みんな疲れていたのか、言葉少なかった。

 車が止まり、期待に胸を膨らませながら車外へ飛び出す。目の前には、活気溢れる港町の風景が広がっていた。しかし、その賑わいの輪の中心には、見慣れない大人たちが大勢集まっている。少し警戒しながらも、おじさんの後をついていく。



「よう、いきなりなのによく来たな」

「タダシ君が来たっていうのに、来ないほど薄情じゃないさ」

 おじさんが親しげに声をかけると、大人たちは笑顔で応える。どうやら、彼らは皆親戚らしい。僕は少しホッとした。

「おっと、予約の時間だ」

 おじさんの声に促され、ぞろぞろと店内へ入っていく。案内されたのは、大人数用の広々とした宴会席だった。僕は遠慮がちに端っこの席に座ると、アヤナとお姉さんも隣にやってきた。

「なんでそんな端なの?」

 アヤナが不思議そうに尋ねてくる。正直なところ、大人たちに囲まれるのは少し緊張する。しかし、それを説明するのも面倒だったので、「トイレに行きやすいから」と適当な答えでごまかした。

 おじさんがメニューを回してきたので、アヤナとお姉さんと一緒に覗き込む。ずらりと並んだ料理の名前や写真に、僕はかすかな既視感を覚えた。そういえば、一度だけ父に連れられてきたことがある。そう、ここは居酒屋だったのだ。

「とりあえず生の人~」

 おじさんの声に、何人かの人が手を上げる。

「タダシくんは?」

 お姉さんが僕に尋ねてきた。

「ぼくメロンソーダ」

 そう答えると、アヤナも負けじと「私オレンジジュース」と元気いっぱいに宣言する。

「じゃあ私はウーロン茶かな」

 お姉さんがそう言うと、僕はふと疑問に思った。

「お姉さんはお酒飲まないの?」

 すると、お姉さんはクスッと笑って答えた。

「そしたら帰り運転する人がいなくなっちゃうよ」

 なるほど、確かにそうだ。大人って色々と考えているんだな、と僕は感心した。

「そういえば、お姉さんは運転できるの?」

 ふと疑問に思って尋ねてみる。

「うん、免許持ってるよ」

 お姉さんは少しドヤ顔で答えた。

「えー、すごーい!」

 アヤナが驚きの声を上げる。僕も内心驚いていた。だって、お姉さんみたいな綺麗な人が自動車を運転している姿なんて想像できないからだ。

「ドライブとか、結構するんだよ? 今回バイトしてるのも、自分の車が欲しいからだし」

 お姉さんは、にっこり笑って答えた。その言葉にますます興味が湧いてくる。

「じゃあ、いつかドライブ連れてってよ!」

 アヤナも目を輝かせながら、身を乗り出した。お姉さんは笑顔で答える。

「もちろん、いつか一緒に行こうね」

 その言葉に胸が躍った。お姉さんとドライブに行ける日が来るのだろうか。



「みんな飲み物は揃ったな、じゃあ乾杯!」

 おじさんの掛け声とともに、グラスがカチンと音を立ててぶつかり合う。大人たちに混じって、僕も小さなグラスに入ったメロンソーダを掲げた。初めての乾杯。少し背伸びをしたような、大人になったような、不思議な気分だった。

「タダシも遠慮せずに料理を頼めよ」

 親戚のおじさんが、優しい笑顔で声をかけてくれる。メニューを眺めながら、僕は迷わず答えた。

「えーと、じゃあ、僕フライドポテト」

「お、分かってるじゃないか。つまみにちょうどいい」

 褒められて、少し得意げになる。

「じゃあ私つくね~」

 アヤナも負けじと注文する。

「アヤナちゃんは本当に焼き鳥好きだね~」

 親戚のおじさんが笑う。アヤナは照れくさそうに、でも嬉しそうに笑みを浮かべた。

 賑やかな会話と美味しい料理。大人たちに囲まれて、少し緊張していた気持ちもいつの間にかどこかに消えていた。この温かい雰囲気の中で、僕は初めての居酒屋体験を心から楽しんでいた。

「ミカちゃんも遠慮せずにほらほら」

 おじさんがお姉さんにメニューを差し出すと、お姉さんは少し悩んだ後、目を輝かせながら「えー、いいんですか? じゃあ、カプレーゼで」と答えた。

「かぷれーぜ?」

 僕は初めて聞くその料理の名前に首をかしげる。すると、お姉さんはまるで先生のように説明を始めた。

「カプレーゼっていうのはね、イタリアのカプリ島っていうところで生まれたサラダなんだよ。輪切りにしたトマトとモッツァレラチーズっていう白いチーズを交互に重ねて、そこにバジルっていうハーブのソースをかけるの。見た目がすごくおしゃれで、味もさっぱりしてるから夏にぴったりなんだ」

 お姉さんの説明を聞きながら、僕は頭の中でカプレーゼの姿を想像してみた。赤と白のコントラストが鮮やかな、まるで芸術作品のようなサラダ。しかし、トマトが苦手という事実は変わらない。

「トマトかぁ、僕苦手……」

 僕は少し残念そうに呟くと、お姉さんは「そんなこと言わないで。このお店のトマトは甘くて美味しいから、きっと食べられるよ」と励ましてくれた。

「お姉さんが言うなら……」

 僕は恐る恐る頷いた。すると、アヤナが「ふふーん、私はトマト平気よ」と勝ち誇ったように胸を張った。

 僕は少しだけ悔しい気持ちになったが、初めての料理に挑戦できることにワクワクもしていた。もしかしたら、このカプレーゼがきっかけで、トマトが好きになるかもしれない。そんな期待を胸に、料理が運ばれてくるのを待った。



 次々と料理が運ばれてきて、テーブルの上はあっという間に色とりどりの皿で埋め尽くされた。こんなにたくさんの料理が一堂に会する光景を目の当たりにするのは初めてで、僕は興奮を抑えきれない。

「唐揚げにレモンかけちゃうよ~」

 親戚のおじさんがレモンを手に取ると、おばさんがすかさず注意する。

「こら! 苦手な人もいるかもしれないんだから、それぞれの取り皿でかけなさい」

 僕らの目の前のテーブルには、僕が注文したフライドポテト、アヤナが大好きなつくね、そしてお姉さんが選んだカプレーゼ、さらにおじさんたちが頼んだこの店自慢の刺身盛り合わせが並べられている。

「じゃあ、さっそく挑戦してみる?」

 お姉さんがカプレーゼを箸でつまんで、僕に差し出した。

「え? ええ?」

 まさか、こんな風に食べさせてもらうなんて、子供扱いされているようで少し恥ずかしい。だけど、すぐに僕は自分の間違いに気づいた。お姉さんは、僕が取り皿を出すことを求めていたのだ。

 僕の取り皿の上には、赤と白のコントラストが美しいカプレーゼがちょこんと鎮座している。意を決して、箸で一切れ口に運ぶ。

「……美味しい」

 思わず声が漏れた。生のトマトのフレッシュな食感と、モッツァレラチーズのもっちりとした食感が楽しい。トマトの酸味とチーズの濃厚なコクが絶妙にマッチし、そこにバジルの爽やかな香りがアクセントを加える。

「も、もう一個食べていい?」

 恐る恐る尋ねると、お姉さんは優しく微笑んだ。

「遠慮せずに、何個でも食べていいよ」

「んー、おいしい!」

 アヤナは、そんなやり取りをよそに、すでにカプレーゼをバクバクと平らげている。僕も負けじと箸を伸ばし、カプレーゼを口に運んだ。トマトが苦手だったはずなのに、不思議とどんどん食べ進めてしまう。

「ね、美味しいでしょ?」

 お姉さんが得意げに笑う。僕は大きく頷き、笑顔で答えた。

「うん、すごく美味しい!」

 次に、こんがりと揚がったフライドポテトに手を伸ばす。ファストフード店で食べるものとは違い、ケチャップや明太子ソースなど、複数のディップが用意されているようだ。まずは定番のケチャップをつけて一口。

「おいしい!」

 思わず歓声を上げる。揚げたてのホクホクとした食感と、ケチャップの甘酸っぱさが口の中に広がる。フライドポテトに外れなし。これは紛れもない事実だ。

 続いて、テーブルの中央に鎮座する刺身盛り合わせに目を向ける。まるで宝石箱のような、色とりどりの魚介が所狭しと並んでいる。迷わず、まずはマグロの赤身から箸をつける。

 ねっとりとした舌触りと、赤身ならではのさっぱりとした旨味が口の中に広がる。醤油の香ばしさが、マグロの旨味をさらに引き立てる。新鮮な魚介の味わいに、思わず笑みがこぼれる。

「美味しい?」

 お姉さんが優しい声で尋ねてくる。僕は大きく頷き、満足そうに笑った。

「うん、すごく美味しい!」

 人生2回目の居酒屋体験は、どれもこれも新鮮で、とても楽しいものだった。刺身を頬張りながら、次は何を頼もうかと思案する。

 そんな時、ふと、アヤナが何か言いたげな目でこちらを見ていることに気がついた。

「どうしたの?」と尋ねると、彼女は恥ずかしそうに呟いた。

「……トイレ」

「え? あ、じゃあ僕も」

 慌てて席を立とうとするが、お姉さんに制止される。

「なら、私が一緒に行ってあげる」

 そう言ってお姉さんは席を立つ。僕は少しホッとして、大人しく彼女について行った。

 トイレは店の奥の方にあり、廊下に面して2つ、男女別に分かれていた。

「ここで待ってるから」

 とお姉さんが言うので、僕とアヤナはそれぞれトイレに入った。

 トイレは、居酒屋特有の芳香剤の匂いで満ちていた。小便器と個室が1つずつあり、反対側に手洗い場があるだけの簡素な作りだ。

 僕はそそくさと用を足し、手を洗ってお姉さんの元に戻る。

「お待たせしました」

 僕が声をかけると、お姉さんは優しく微笑み返してくれる。そして、アヤナが戻ってくるのを待って、3人で再び席に着いた。



 居酒屋の喧騒の中、店員の「ラストオーダーです!」の声が響き渡る。カウンター席に座っていたアヤナが、身を乗り出して僕に尋ねる。

「ねえ、らすとおーだーって何?」

 僕も初めて聞く言葉で、戸惑いながらも隣に座るお姉さんに助けを求めた。

 お姉さんは、慣れた様子で「ラストオーダーっていうのはね、お店がそろそろ閉まる時間だから、最後に何か注文したいものがないか聞くことだよ」と説明してくれた。例えば、もう一杯ビールを飲みたいとか、デザートが食べたいとか、そういう時に最後に注文できるチャンスなんだって。

「へー!」と目を輝かせるアヤナ。そんな彼女を見て、僕もお酒を飲める年齢になったら、こんな風に居酒屋で楽しい時間を過ごしたいなと思った。

「そろそろお開きにしますか」と、テーブル席に座っていたおじさんが立ち上がり、財布を取り出した。「今日は俺の奢りだ」。すると、他の親戚たちも「いやいや、ここは割り勘で」「いや、俺が出すよ」と、いつものお会計の攻防が始まる。僕たちは、そんな大人たちのやり取りを横目に、一足先に店を出た。

 夏の夜はまだ暑さが残っていたけれど、外の空気を吸うと、どこかホッとする。少し寂しい気持ちもあったけれど、美味しい料理とお酒、そしてみんなとの楽しい会話で満たされた夜だった。

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潮風の思い出 アールグレイ @gemini555

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