潮風の思い出

アールグレイ

海辺の思い出

「早くしろよー、もう出発の時間だぞ!」

 まだ薄暗い早朝、父の声が夢の世界を引き裂く。昨晩のワクワク感と興奮で、なかなか寝付けなかったせいか、頭がぼーっとする。それでも、心はすでに海へ向かっていた。

 布団から這い出し、昨日から準備していたリュックの中身を再度確認する。カラフルな水着、数日分の着替え、そして、絶対に外せないのが、お気に入りの児童文学シリーズだ。活字の世界に没頭することで、長時間の車移動もあっという間に感じるはず。

「そういえば、浮き輪とか持っていかなくて大丈夫なの?」

 キッチンから母の心配そうな声が聞こえる。

「大丈夫!向こうにいっぱいあるって従兄弟が言ってたから」

 そう返事をしながら、寝癖のついた髪を手で撫で付ける。そういえば、髪もちゃんとセットしておけばよかったと少し後悔。

 テーブルの上には、母が用意してくれた朝食が並んでいる。トーストの焼ける香ばしい匂いが食欲をそそる。急いで食べ終え、玄関へ。

「忘れ物はない? ハンカチ、ティッシュ、日焼け止め……」

 出発間際になっても、母はあれこれと心配そうだ。

「大丈夫だって! 全部持ったよ。それに、何かあったおじさんに聞けばいいし」

 そう言って、いつもよりも少し強めに手を振る。心配性の母を安心させたい気持ちと、早く海に行きたい気持ちが入り混じっていた。

 父の運転する車に乗り込むと、助手席の窓から母の小さくなっていく姿が見える。いつもは少し怖い父も、今日はなんだか嬉しそうだ。

「よし、海だー!」

 父の掛け声と同時に、車はゆっくりと動き出す。

 バックミラー越しに、最後まで手を振り続ける母の姿が見えた。

 助手席の窓から吹き込む風が、夏の匂いを運んでくる。

 これから始まる海辺での冒険に、胸が高鳴るのを感じながら、僕は目を閉じた。


 父の運転する車は、高速道路をひた走る。

 見慣れた街並みがどんどん小さくなっていく。いとこの家までは、ここからまだ数時間。この時までは、送り迎えだけの父の気持ちが分からなかった。

「寂しいとか、ないのか?」

 ハンドルを握る父が、バックミラー越しに僕の様子を伺う。

「別に」

 強がってそう答えたけれど、心の中は期待と不安でいっぱいだった。これから始まる知らない世界への冒険。わくわくする気持ちと、もう引き返せないという少しの怖さ。

 しばらくすると、車はサービスエリアに入った。普段は倹約家の父が、「ほら、好きなもの選べ」と小銭を握らせてくれる。

「え? いいの?」

 予想外の言葉に、思わず聞き返してしまう。

「たまには、いいだろ」

 照れくさそうに笑う父。

 僕は急いで売店へ向かい、ソフトクリームを選ぶ。

 溶けかけた白いクリームを口に運ぶと、ひんやりとした甘さが全身に染み渡る。サービスエリアのコンクリートは熱を帯び、照り返しが眩しい。それでも、冷たいソフトクリームが僕を夏の暑さから守ってくれる気がした。

 父は、缶コーヒーを片手に、遠くを見つめている。

「さあ、行くぞ」

 父の言葉で、再び車に乗り込む。

 高速道路を降りると、窓の外に青い海が見えた。

「うおおお! 海だー!」

 興奮を抑えきれずに叫ぶと、

「うるさいぞ」

 と、父に少しだけ怒られた。でも、その声には笑いが混じっていた。

 車は海沿いの道を進む。潮の香りが窓から流れ込んでくる。

 集合場所の神社はもうすぐだ。

 新しい冒険の始まりに、胸が高鳴った。


 神社の境内は、夏の木漏れ日でまだら模様に彩られていた。

 鳥居をくぐると、いつものように陽気なおじさんが笑顔で出迎えてくれる。

「おー! 大きくなったなぁ!」

 隣には、数年ぶりに会う従姉妹の姿。確か名前は、アヤナだったか。昔はよく一緒に遊んだ仲だけど、久しぶりに会う彼女は少し大人びて見えた。

 そして、もう一人。

 見慣れないお姉さんが、少し離れたところに立っている。

 大学生くらいだろうか。透き通るような白い肌と、長い黒髪が印象的で、ベレー帽に白を基調としたフリル袖のワンピースが似合っている。

「あ、こちらがアルバイトのミカちゃんだよ。海の家を手伝ってくれるんだ」

 おじさんの紹介に、お姉さんは優しく微笑んで小さく手を振る。

 ドキッとした。

 目が離せない。

 吸い込まれるように、彼女の笑顔に見とれてしまう。

「じゃあ、俺はこれで。何かあったら電話しろよ」

 父の言葉で、ようやく我に返る。

「うん、わかった」

 精一杯の笑顔で手を振るけれど、心の中は寂しさでいっぱいだ。いつもは口うるさい父だけど、いざ離れるとなると、その存在の大きさに気付かされる。

 父が運転する車が小さくなっていくのを、見送る。

「さ、行こうか」

 お姉さんの明るい声が、僕を夏の冒険へと誘う。

 神社の鳥居をくぐり、海の家へと続く道を歩き出す。

 初めての場所、初めて会う人。

 不安と期待が入り混じる。

 でも、この夏はきっと特別な夏になる。

 そんな予感がした。


 海の家が見えてきた。

 想像していたよりもこぢんまりとした、年季の入った建物だ。

「ここが海の家か…」

 少し拍子抜けしながら、男子更衣室へと向かう。

 中に入ると、湿っぽい空気が鼻をつく。

 薄暗い室内には、古びた木のロッカーが並んでいる。

「なんか、虫とか出てきそうだな……」

 そんなことを考えながら、水着に着替える。

 初めての場所で、少し緊張しているせいか、いつもより手間取ってしまう。

 更衣室を出ると、すでに他のメンバーは着替え終えていた。

 おじさんは、派手な柄の海パン姿。アヤナは、フリルのついたピンクの可愛らしいワンピースタイプの水着を着ている。

 そして、お姉さん。

 鮮やかなブルーのフリルビキニが、彼女の白い肌によく映えている。

「ミカさんの水着かわいい!」

 アヤナがお姉さんに抱きつく。

「ふふ、ありがとう」

 優しい眼差しでアヤナの頭を撫でる彼女。

 なんだか、それを見ているとすごくドキドキするし、アヤナがうらやましく思えた。

「アヤナちゃんの水着もかわいいよねー?」

 お姉さんは、僕に話を振ろうとする。

「あ、え? ぼ、僕?」

 急に話を振られて、焦ってしまう。

「かわいい……と思いますよ」

 消え入りそうな声で答える僕。

 アヤナは、少し頬を赤らめて「ふん!」とそっぽを向いた。

「もう、仲良くね?」

 お姉さんは、僕とアヤナの頭を撫でながら微笑む。

 夏の日差しのように眩しくて、目が眩みそうだ。

「そういえば、タダシくん……だっけ? は泳げるの?」

 お姉さんの優しい声に、ドキッとする。

「う、うん……でも、あんまり自信ないです……」

 消え入りそうな声で答える。

「そっかー、じゃあ練習しようか! とりあえず準備運動しようね」

 お姉さんは、笑顔で準備運動を始める。

 その健康的な肢体は、とても綺麗で、思わず見とれてしまう。

「タダシ! あんまりお姉さんを見ないでよ! えっち!」

 アヤナに怒られて、ハッと我に返る。

「べ、別に見てないし……」

 僕は慌てて目をそらす。

「ふふ、二人ともかわいいなぁ」

 お姉さんの笑顔に、また胸が高鳴る。

 この時の僕は、まだ自分の中の感情に気付くことができなかった。

「ちょっと、タダシ、ちゃんと準備体操してよ! 溺れても助けてやんないんだから!」

 アヤナが叫ぶ。

「はいはい、わかったよ……」

 僕は仕方なく準備運動を始める。

「はい、タダシくんもちゃんとやってね! アヤナちゃんの言うとおり、何かあってからじゃ遅いんだからね」

 お姉さんは、僕に優しく諭す。

「うん……」

 僕は素直に従うことにする。

 海の家での生活が始まる。

 少し不安もあるけれど、それ以上に、この夏への期待が胸を膨らませる。


 海の家から続く砂浜へ、一歩足を踏み出す。

「あちっ!」

 思わず声を上げてしまう。焼けた砂が足の裏を容赦なく攻撃する。まるでフライパンの上を歩いているようだ。

「ぷぷぷー、もしかして熱くてこっち来れないの? 砂浜も歩けないようじゃ、海で遊べないんじゃない?」

 アヤナが勝ち誇ったように笑う。

 悔しい。

 意地でも負けたくない。

「そんなことないもん! 熱いのは最初だけだって!」

 僕は勢いよく砂浜へ飛び出した。

「あちちちちっ! やっぱ熱い!」

 熱さに耐えきれず、飛び跳ねてしまう。まるで、熱い石の上で踊る猿のようだ。

 そんな僕を見て、お姉さんが笑いながら手を差し伸べてくれる。

「落ち着いて、ゆっくり歩いてごらん。波打ち際まで行けば、すぐに慣れるから」

 言われた通り、ゆっくりと足を進める。

 すると、不思議と熱さが和らいできた。

「ほらね、大丈夫でしょ? 焦らないことが大切だよ」

 お姉さんの笑顔に、少しだけホッとする。

「タダシ! どっちが速く泳げるか勝負よ!」

 アヤナが、すでに海に入っている僕に向かって叫ぶ。

「えー、勝負はいいよ。砂浜で貝殻とか探したい」

 本当は泳ぎに自信がない。でも、そんなことは言えない。

「何言ってんの! 男なら勝負でしょ! 逃げる気?」

 アヤナの挑発に乗せられ、僕は仕方なく勝負を受けることにした。

「ま、負けないし!」

 僕は気合いを入れ、一気に海の中へ飛び込んだ。海の水は思ったよりも冷たくて、気持ちがいい。夏の暑さを忘れさせるような感触に、少しだけ安心する。


「はやくはやくー!」

 アヤナが手で招く。彼女はすでに沖に向かって泳ぎ始めていた。

「あんまり遠くまで行くと危ないから、私がゴールになるね」

 そういってお姉さんが先に進む。数十メートル離れたところにお姉さんはいる。その優雅な泳ぎ姿に、またしても目が離せなくなる。

「じゃあ、あそこまで競争よ!」

 アヤナの声に従って、僕も泳ぎ始めた。

 しかし、すぐに気づいた。アヤナには全然手も足も出ない。それに、手足を縛られているかのように、思うように進めない。

「やばいかもしれない」胸の中で警鐘が鳴り響く。呼吸が乱れ、水を飲み込みそうになる。必死に藻掻いていると、突然、何かが触れる感触があった。

 それは、お姉さんだった。

「大丈夫!?」

 お姉さんが水中で抱きかかえてくれた。お姉さんの柔らかい体が、僕の体と密着する。

「落ち着いて……ゆっくりと息を吸って……」

 耳元で囁かれる声に、心臓が高鳴る。

「はい……すーはー」

 お姉さんに合わせて息を吸い込むと、徐々に呼吸が落ち着いてくる。

「もう大丈夫? まだ苦しい?」

 心配そうなお姉さんの声。僕は慌てて答える。

「あ、はい! もう大丈夫です」

 お姉さんは優しく微笑んだ。

「無理しちゃダメだよ、タダシくん。少し休もうね」

 お姉さんは優しく僕を岸に連れて行ってくれた。

 アヤナは先にゴールしていたようだが、僕が岸に戻るのを見て駆け寄ってきた。

「……ごめんね、タダシ。無理させちゃったかも」

 アヤナは少し泣きそうになっていた。

「いや、僕が勝手に無理したんだ」

 お姉さんの介抱がなければ、溺れていたかもしれない。そう思うとゾッとする。

「でも、タダシくんが溺れた時は本当にビックリしたよ。心臓が止まるかと思った」

 お姉さんは、そう言って優しく微笑んでくれた。

「ごめんなさい……」

 僕は素直に謝る。お姉さんに迷惑をかけてしまった申し訳なさで、胸がいっぱいになる。

「でも、次はもっと上手く泳げるように練習しようね!」

 お姉さんの励ましに、少しだけ前向きな気持ちが芽生える。


 波打ち際でひとしきり遊んだ後、僕は砂浜に戻り、お城作りを始めた。

 まずは大きな穴を掘り、そこから砂を掻き出して堀を作る。

「ふふふ、これがあの伝説の要塞か……」

 スコップを手に、夢中になって砂を積み上げていく。

「それ、楽しいの?」

 アヤナが横から覗き込んでくる。

「楽しいよ! アヤナちゃんも一緒に作ろうよ」

「えー、別にいい……」

 アヤナはつまらなさそうに首を振る。

「いいじゃん、一緒に作ったらもっと楽しいよ! ほら、この貝殻を屋根に飾ったらどう? かわいいんじゃない?」

「別に……」

 アヤナは興味なさそうに、海の方へ戻っていく。

「なんだよ、つまんないなぁ……」

 僕は少しがっかりするけれど、お城作りを続けることにした。

「このお城は、絶対に誰にも壊させないぞ!」

 僕は心の中でそう誓い、黙々と作業を続けた。


 太陽が真上に昇り、砂浜が熱気を帯びてきた頃、

「じゃあ、ふたりとも、一回海の家に戻ってご飯にしよっか?」

 お姉さんの声が聞こえた。

「やったー! もうお腹ぺこぺこ!」

 アヤナは待ちきれない様子で、海の家に向かって走り出す。

 僕も、夢中でお城を作っていたせいか、お腹がグーグー鳴っていた。

「僕もお腹すいたかも」

 アヤナの後に続いて、海の家へと急ぐ。

 海の家に戻ると、いい匂いが漂ってくる。

「私はフランクフルトと焼きそばね!」

 アヤナは迷わず注文を決める。

「僕はカレーにしようかな」

 僕もメニューを見ながら、心の中で決める。

 お姉さんは、カウンターでラーメンを注文しているようだ。

「お待たせー!」

 おじさんが、大きなトレーに乗せた料理を運んでくる。

 カレーのスパイシーな香りに、食欲がさらに増す。

「いただきます!」

 三人揃って手を合わせ、待ちに待った昼食が始まった。

 まずは、カレーを一口食べる。

 スパイシーなルーとご飯の相性が抜群だ。少しチープな味も、遠慮なく口に運べて、疲れた体にピッタリだ。

 アヤナは、大きな口を開けてフランクフルトを頬張っている。口の周りにソースをつけながら、幸せそうな笑顔を浮かべている姿は微笑ましい。

「アヤナちゃん、口にケチャップついてるよ」

 お姉さんがアヤナの口元を紙ナプキンで拭いてあげている。

 なんだか、親子みたいだなぁと思いながらその様子を眺めていると、アヤナと目が合った。

「べぇ」

 と舌を出しながら、悪戯っぽく笑うアヤナ。その仕草が妙に色っぽくてドキッとしてしまう。

 お姉さんは、髪をかき上げながらラーメンを啜る。僕は、その姿から目を離せずにいた。


 食事を終えた僕たちは、再び海で遊ぶことにした。

 アヤナは、浮き輪でぷかぷかと浮いている。

 僕は、波打ち際で貝殻探しをしていた。

「あ、これいいな」

 僕は、綺麗な貝殻を見つけて満足げに太陽にかざす。

「そういえばお姉さんはどうしたんだろう?」

 きょろきょろと見まわすと、砂浜にお姉さんを見つけた。

 お姉さんの前には、3人の男たちがいて、何やら言い争っている様子だ。

「ねえ、君かわいいね!一緒に遊ぼうよ!」

 男の一人が、お姉さんの腕を掴む。

「やめてください! 離してください!」

 抵抗するお姉さん。

 僕はいてもたってもいられずに、間に割って入ってしまった。

「おい! 何やってんだよ!」

 自分でも驚くくらい大きな声が出る。

「なんだこのガキ」

 男たちが睨みつけてくる。

「お姉さんが嫌がっているだろ!」

 男たちは一瞬たじろいだ様子を見せたが、すぐに態度を大きくしてきた。

「うるせーぞガキ! 邪魔すると容赦しねーぞ!」

 僕は正直泣きそうだった。

 もうだめかと思ったときに、おじさんが海の家から駆けつけてくる。

「なにやってんだ、お前ら!!」

 おじさんの怒鳴り声に、男たちは一目散に逃げていった。

「大丈夫か!」

 おじさんは、すぐにお姉さんに駆け寄った。

「はい、ありがとうございます」

 お姉さんは、安心した表情を浮かべていた。

「良かった……」

 僕も安心して力が抜ける。その場に座り込んでしまう。

「タダシもよくやったな!」

 おじさんは僕の肩をバンバン叩く。

「ちょっと、痛いって!」

 思わず叫んでしまう。

「ごめんごめん」

 おじさんは苦笑いしながら謝る。

「でも、本当に無事でよかった」

 そこに、海から上がってきたアヤナも駆けつけてくる。

「ふーん、ちょっとカッコいいじゃん」

「ん? なんて?」

 あまりに小声過ぎてよく聞き取れなかった。

「なんでもないわよ!」

 アヤナは、拗ねたようにそっぽを向いてしまった。


 その後、僕らはパラソルの下で休憩することにした。

 アヤナは体をほっぽりだし、無警戒に寝転んで、スース―寝息を立てていた。

 お姉さんは、日焼け止めクリームを肌に塗っている。僕は、そんなお姉さんの姿をじっと見ていた。

「ん? どうしたの?」

 僕に気付くと、お姉さんは優しく微笑んだ。

「あ、いえ! なんでもないです!」

 恥ずかしくなって、そっぽを向く僕。

「もしかして、お姉さんの水着姿に見惚れちゃった?」

 そう言って、いたずらっぽく笑うお姉さん。図星を突かれて、顔が熱くなる。

「そ、そんなことないです!」

 慌てて否定するが、お姉さんはクスクス笑っている。

「ふふ、冗談よ」

 お姉さんはそう言って、僕の隣に座ってくる。

「君はいい子だね」

 そう言いながら、優しく頭を撫でてくれた。

 僕は恥ずかしくなって、俯いてしまう。

「でもさ、さっきみたいに危ないことをしちゃダメよ?」

「はい、ごめんなさい……」

 僕は素直に謝った。

「わかればよろしい」

 お姉さんは僕の頭を撫で続ける。

 その手つきはとても心地よく、いつまでもこうしていたいと思った。

 そこで、ふと思い出したことがあった。

「そういえば見て! すごくない? こんなにきれいな貝殻、初めて見つけたんだ!」

 得意げに差し出すと、お姉さんはそれを優しく受け取った。

「ほんとだ、きれいだね。タダシくん、すごいね」

 お姉さんの笑顔を見て、僕は照れくさくなって、貝殻を握りしめた。

「お姉さんは、貝殻とか集めないの?」

「私はね、海で泳いでる魚を見るのが好きだな」

「そうなんだ!」

 僕は、お姉さんの意外な一面を知って、少し驚いた。

「でも、この貝殻、お姉さんにあげるよ」

「え、いいの? ありがとう」

 お姉さんは、嬉しそうに貝殻を受け取ると、それを太陽にかざして眺めた。

「本当にきれい。宝物にするね」

 お姉さんの言葉に、僕は心が温かくなった。

 夏の太陽が照りつける中、僕たちはパラソルの下で、しばらく穏やかな時間を過ごした。


 日が傾き始め、オレンジ色の光が海面をキラキラと照らし出す。その美しさに見とれていると、おじさんの声が遠くから聞こえてきた。

「そろそろ家に行くぞー!」

「はーい!」

 僕らは元気よく返事をして、おじさんのもとへ向かう。

 名残惜しいけれど、貝殻や思い出を胸に抱えながら、砂浜を後にした。

 再び海の家に戻ると、僕たちはシャワーを浴びることにした。

 シャワー室は男女別になっていて、それぞれカーテンで仕切られている。

「タダシ! 覗いたら殺す!」

「えー、別に水着のままなのに……」

 アヤナの過激な発言に呆れつつ、僕はシャワーを浴びる。海水でべとついていた体がさっぱりとして気持ちいい。

「ねえ、タダシくん、ちょっといいかしら?」

 突然声をかけられて振り返ると、そこには水着姿のお姉さんがいた。

「え、ちょ……なんで入って……」

「ごめんね、どうしてもタダシくんとお話したくて」

 お姉さんは申し訳なさそうな表情を浮かべる。

「別に大丈夫ですよ」

 僕は平静を装って答えるが、内心ではかなり動揺していた。

「ありがとう」

 そう言って微笑むお姉さんは、すごく綺麗だった。

「あの、話ってなんですか?」

 僕は恐る恐る尋ねる。

「さっきは本当にありがとう。私にはタダシくんがヒーローに見えたよ」

 そう言って、微笑むお姉さん。その顔を見ると、胸の鼓動が激しくなる。

「そんな……僕はただ、お姉さんを助けたかっただけです」

 恥ずかしくなって顔を逸らしてしまう。

「あ、ごめんね。シャワー中だったよね、もう戻るね」

 お姉さんは、慌ててシャワー室から出て行こうとする。僕は思わずその腕を掴みそうになるが、ぐっとこらえる。

「じゃあ、またね」

 お姉さんは、そう言い残して去っていった。

 僕はしばらく呆然としていたが、我に返り、慌てて着替えを済ませた。

「あれ、なんか顔赤くない?」

 アヤナが不思議そうな目で見つめてくる。

「そ、そんなことないよ!」

 僕は慌てて誤魔化した。

 そして僕らはおじさんの車に乗り込んだ。車内には海の家特有の潮の香りが漂っている。助手席にはアヤナが座り、僕とお姉さんは後部座席に座った。

 おじさんがエンジンをかけると、車はゆっくりと動き出した。窓の外には、日が沈みかけた空と海が広がっている。

「今日は楽しかったなぁ」

 僕は小さな声でつぶやいた。

「私も、すごく楽しかったよ」

 お姉さんも笑顔で答える。その笑顔を見ていると幸せな気分になる。

 車が海沿いの道を走り、やがて街の灯りが見えてきた。夏の冒険はまだ始まったばかりだ。明日も、もっと素敵な思い出が待っているに違いない。

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