第20話 魔人、津川冬夜

「私が? ……冬夜くんが、何を言ってるのか分からないよ? 私は今、生きてるよ?」


誤魔化すように彼女は曖昧な笑みを浮かべる。否、それは笑顔などではなかった。笑みを作ろうと、頬の筋肉を無理やり動かしただけの、不気味な表情だった。


「まだシラをきるなら構わない」


黒い瞳に強い決意の光を溜めて、冬夜は断罪の一言を告げる。


「お前は殺したつもりだったんだろう。オレが駆けつけたとき、京花は生きていた。かろうじてだがな。だから、話は聞いている」


桜は放心したように目を見開く。そのまま、彼女はうつむいて、口をつぐむ。

そんな彼女に、冬夜はそれ以上何も言わなかった。

一体どれほどの間、彼女はそうしていただろう。やがて彼女は膝から崩れ落ちて、ぺたり、と地面に座り込んだ。


「―見逃して」


風の音にも消えてしまいそうなそれは、命乞いの言葉だった。


「見逃して、冬夜くん!」


顔をあげた彼女は涙を貯めた目で睨むように少年を見つめてそう口にした。


「京花さんの事はごめんなさい! ……冬夜くんに謝っても仕方がないのは分かってるけど、どうしようもなかったの! 京花さんも、私の事を殺すって……だから仕方なく……」


冬夜は黙ったまま、ポケットからタバコのパッケージを取り出す。

残り二本。それを確認すると、彼はタバコを吸わずにポケットに戻した。


「お願い、冬夜くん! 夢には内緒にして! 私はまだ、死ぬわけにはいかないの!」


「ダメだ」


「お願い……お願いします! 私は死にたくない! 夢を一人には出来ない!」


「断る」


涙ながらの懇願を、切り捨てる。

感情を殺す。同情など必要ない。

冬夜はおもむろに右手で手刀を作り、その場で一閃させた。

桜に対して、ではない。己の左腕にである。


「お前をこのままにしてはおけない」


一拍遅れて、手刀の切っ先が触れた左手首の辺りに血が滲んだ。赤い雫が溢れ出した腕を、そっと桜の方に差し出す。

次の瞬間、冬夜の腕に激痛が走った。


「やはり、な……」


血の滲む左腕に、桜が食らいついていた。

冬夜の肌に、歯が食い込む。肉を食み、溢れる血を嚥下する。一滴でも味わい逃す事を恐れるかのようにぴちゃぴちゃと、いやらしい音を立てて舌で舐めまわす。

真に恐るべきは、それでもなお顔色一つ変えない冬夜だった。


「う、う……ううぅぅぅぅっ」


やがてはっとしたように桜は冬夜の手を離して後ろに跳んだ。

口元から血を滴らせて冬夜を睨みつける。その顔は、人のそれではなかった。


「人食いの衝動を抑えられなくなっている。随分長らく人のあり方を留めていたようだが……もう終わりだ。お前はもう、人ではいられない。犬猫を食うだけじゃ、体を保てなくなっているな?」


それでも京花を殺しながら、血肉を啜らなかったのは人としての最期の抵抗だったのだろうか。

冬夜には分からない。


「う、うぅぅぅ」


その顔に浮かべるのは悲哀か、憎悪か。唸り声を上げる彼女の顔は鬼のようだった。

反魂の法が外法とされる由縁。古今東西いかなる法を用いても、黄泉より戻ったモノは決して人間ではいられない事にある。

仮に人としての理性を残しても、それは時の経過と共に薄らいでいき、ついには化物そのものに変じていく。この世の理を捻じ曲げる事など、人に許される業ではないのだ。


「血に飢えた化物をこのままにしておくわけにはいかない。……オレは払い屋、これも仕事だ。お前を、滅ぼす」


冬夜の一言を合図に、鬼女が大地を蹴って跳びだした。それは、常識の埒外の動きだった。人間ではない、野生の獣を思わせる動きだった。


「あああああぁぁぁぁあああ!!」


咆哮を上げて、彼女は右腕を振り上げた。対する黒衣の少年はその場から動こうとはしなかった。ただ、木石がそこにあるように佇んだままだった。

至近距離からの一撃。ただでさえかわそうと思ってかわせるものではない。

右腕が振り下ろされた。

だが、その瞬間、桜の動きが不自然に停止した。それは彼女にとって予想外の事だったのだろう。驚愕に見開いた目で自分の手元と冬夜の顔を見比べる。

熊手のように開かれた桜の右手が、冬夜の左脇腹に触れる直前で止まっていた。


「こうやって、京花をやったのか?」


がっちりと、冬夜の手が桜の右腕の手首を掴んで固定していた。石さえも砕く怪力を秘めた腕を、冬夜は片手で受け止めていたのだった。


「そん、な……」


「言ったはずだ。オレは払い屋。お前たちを滅ぼすものだ」


払い屋、津川冬夜。

彼を拾った二人が示し、与えたのはその生き方と名、そしてその技術。

津川式闘法。

すなわち、極限まで鍛えた人の肉体を以て、人以上の存在を屠る技。

みしり、と。

嫌な音がした。桜の手首が握りつぶされた音だった。


「いッ……いやぁぁっぁ!」


たまらずに叫び声を上げる桜の腹を蹴飛ばす。

吹き飛ばされた彼女は地面を二度、三度と転がってからゆっくりと立ち上がった。


「来い」


ばさり、と。コートの裾を翻して冬夜は彼女に正面から向き合う。

既に彼の顔から甘さは消えていた。

彼女の友人であった少年の姿はなく、そこにあるのは一人の払い屋の姿だった。

一瞬で、二人の距離が縮まった。桜の攻撃をかいくぐり、その腕を手刀でへし折る。


「むんッ!」


冬夜の脚が跳ねあがり、つま先が真下から顎を狙う。

外した。そう思った次の瞬間、振り下ろされた踵が桜の脳天を捉え、彼女の体がうつ伏せに倒れた。

冬夜は追撃をすることなく、その場で無造作に立ったまま少女を見下ろしていた。

彼の見つめる前で、桜は再び立ち上がる。だらりと垂らした腕は、先の一撃でへし折られたらしい。


「今のは、京花の技だ」


誰に言うともなく、彼は小さく呟く。京花が初めて冬夜に見せ、そして彼女が最も得意としていた技だった。それに桜は対応する事ができなかった。その意味は……


「あああああああああぁ!」


雄叫びと共に突っ込んできた彼女の顔に右の拳を叩き込む。続けざまに左を腹に打ち込み、前かがみに体制が崩れたところにこめかみを狙って足刀を見舞った。

どれもこれも少年の狙った通りに打ち込まれていた。

それらは全て、常人であるならば致命の一撃。たとえ化物が相手でもそれは同じこと。

それでも桜は立ち上がる。

ずたずたの体を動かすのは骨でも筋肉でもない。人ならざる者の、超常の力であった。

だが、人外の力という点では冬夜も違いはない。人並外れた鍛錬と、人知を超えた術によって、桁外れの力を振るう彼もまた、最早人ならざる者であった。

鬼女と魔人。人の世の常識から外れた二匹の怪物が薄闇の中対峙する。


「ちぃッ……」


冬夜の額に冷たい汗が浮かんでいた。

並の相手であれば決着は既についているはずであった。


―どうすれば……


どうすれば桜を滅ぼせるのか。

滅ぼすべき相手を見つめる。

先の一撃で片腕はだらりと垂れ下がり、千切れる寸前だった。折れた首を不自然な方向に傾け、元が分からないくらいに潰れた顔は思わず目を背けたくなるくらいに痛々しい。

彼女はそんな有様になりながらも焦点の定まらない目にどす黒い感情を燃やしていた。

ぐしゃぐしゃになりながら、なおも彼女は向かってくる。


ぎしり、と。


何かが軋むような音が聞こえた。それは、冬夜の胸の奥から生じたものだった。

押し殺した感情が、心の奥で暴れていた。

何故自分はこんな事をしているのか。何故少女はこんな目にあわなければならないのか。


「おおおッ!」


振り払うように咆哮をあげる。

何を今更迷うのか。

これまでにどれほどの屍の山を作ってきたのか。

墓場で討ったものを思い出せ。廃ビルで倒したものを思い出せ。

あれらを滅ぼせて、何故同じ化物を滅ぼすのに躊躇うのか。


「あああああああああああああああっ!」


呼応するように桜が吠えた。

体一つ、真正面から冬夜に駆け寄る。捨て身で彼を殺すつもりらしかった。

対する冬夜は構えない。

自然体のまま、まっすぐに近づいてくる彼女を見据えていた。

様々なものが彼の脳裏を駆け巡っていた。

桜、夢見と初めて出会った時のこと。彬と知り合ったこと。京花と会った時のこと。四人で遊びにいったこと。料理を美味しいといって笑う面々。友人だと言ってくれた人たち。

つかの間の友人達。


もう、二度とは戻ってこない日々。


「ぁ……」


桜の動きが止まった。

彼女の胸元に、冬夜の正拳突きが打ち込まれていた。

信じられないといったような顔で、彼女はゆっくりと視線を落としていく。

打ち込まれた右拳、その中に小さな刃物が握りこまれていた。


「ひゅッ」


鋭い呼気と共に拳が戻された。根元まで胸に埋まっていた刃が引き抜かれ、吹き出した血が冬夜の顔に斑点を作った。

冬夜の手の中に輝くそれは、最初に京花が投げてよこした手裏剣だった。


「な、んで……?」


糸の切れた操り人形のように、桜の体が崩れおちていく。

冬夜の打ち込んだ刃は、桜の心臓を捉えていた。

不死者を滅ぼすのは、明確な死のイメージ。かつて京花が実践して見せたことだった。


「な、んで……ねぇ、冬夜、くん」


倒れ伏したまま、胸に空いた穴を震える手で押さえ、彼女は冬夜に問いかけた。


「なんで、私……なんで、また死ななきゃならないの? 冬夜……くん?」


冬夜は答えない。代わりに決して彼女から目を背けることはなかった。


「死にたく、ないよ……死にたく、」


「……オレだって死にたくない」


絞り出すような、聞き取りづらい声だった。

それは彼女への答えなのか、独白なのか。彼自身にも分からなかった。


「生きていたいよ」


「オレだって生きていたい」


それがどちらでも関係はなかった。

桜が答えだと思えばそれは彼女にとっての答えになる。冬夜が独白だと思い込めばそれは彼にとっての独白になる。


「なんで、」


何故殺すのか。何故自分を殺すのかと、少女は少年に問うた。少年は何故彼女を殺さなければならなかったのかと自分に問うた。


「オレが生きるためだ」


人外を滅ぼすことでしか生きられない。それ以外に生き方を知らない。

だから滅ぼす。

それは人のあり方ではなかった。

人間を喰らわなければ存在できない化物と、化物を殺さなければ生きていけない人間。

一体何が違うのか。

少女と少年は、所詮は同じ闇に生きる者でしかなかった。夜を行く者は決して相いれることはないのだ。


「とうや、くん……」


残った力を振り絞るように顔を上げ、一色桜はそこで事切れた。

彼女は最後に何を言おうとしたのか。

別れの挨拶か、恨み言か。それを知る者はこの世にはもういない。

死者は生者に何をすることも出来ない。

間もなく灰とも土ともつかないものの山になっていく彼女を見届けながら、冬夜は顔を伏せた。

弔いの言葉も、別れの挨拶もなかった。

今はその時ではなかった。


「冬夜か?」


声がかかった。すっかり暗くなった周囲に目を凝らすと、歩み寄ってくる人の輪郭がぼんやりと目に映った。

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