第19話 告

「……っ」


ゆっくりと、手を離す。

頭を垂れる彼女の表情は、まるでうたた寝をしているかのように落ち着いたものだった。

須田京花のその目が、再び開かれる事はなかった。

右の手を握り締める。拳の中には、まだ彼女の温もりが残っているような気がした。

奪ったばかりの命の残滓が、まだそこにあるような気がした。

そんなものは錯覚だと分かっている。今更、自分は何を考えているのか。何故こうも心がざわつくのか。押し込めた感情が胸の奥で燃えていた。じりじりと、音を立てて身を焼くようだった。


「   」


表情は変わらない。涙の一粒流すことはない。

それでも、こらえきれなくなったそれは、冬夜の口から飛び出した。

慟哭。人間の言葉では表せない、獣の咆哮じみた叫び声が、路地裏に木霊する。

口を裂けんばかりに開いて、吠える。喉が枯れんばかりに叫ぶ。

やがて身を焦がすそれを吐き出しつくして、冬夜はゆっくりと立ち上がる。

纏ったコートが濡れていた。夜を煮詰めた色のそれは、他の何色にも染まることはない。

彼女が残したメモを素早くめくって目を通す。そこに書かれていた内容は、彼の予測を裏付け、そして最悪の結末を導き出すのに十分過ぎるものだった。

少年の口から何事か小さく言葉が紡がれると、メモは彼の手の中で燃え上がる。わずか数秒で灰になったそれを風に流すと、ポケットの中で何かが動いているのを感じた。


「オレだ」


緩慢な動きで携帯電話を取り出し、感情を押し殺した声で応答する。


『お疲れ様。昨日のサンプルの結果が出たんで報告なんだけど、今大丈夫?』


「手短に頼む」


『君の送ってくれたサンプルだけどね。君の予想していた通りの物だったよ』


冬夜は目を閉じて黙りこくった。


砒霜ひそう……このご時勢に、こんな物まだ残ってたんだね。信じられないくらい環境の変化に弱いから、もうよっぽど山奥にでもいかない限り自生はしてないと思ってたよ』


「オレも半信半疑だった。まさかとは思ったが……」


『断言は出来ないけど、この間のお寺さんの化物はこれ絡みだと思う。とんでもない代物が出てきて、研究室の連中も大慌てだよ。まさか、反魂の法絡みの事件に会うなんてね』


「禁忌、か」


唸るように、冬夜は呟く。状況はこれ以上無いくらいに詰んでいた。


『それで、一色家だっけ? その件もこれに関係が、』


「あぁ」


問いかけが終わる前に、彼は短く肯定の返事を返した。それは有無を言わせない重さを持った一言だった。

今度は電話の向こう側が沈黙する番だった。


『なるほど。知ってるとは思うけど、反魂の法は……死者蘇生の術は禁忌中の禁忌。道理を捻じ曲げ世を乱す許されざる行為。その痕跡は跡形もなく滅さなきゃならない。その理由は』


「知っている。今、術者が死んだ。オレが、殺した。もう間もなく仕事は終わる」


『……仕事が早いね。いい事だ』


「後始末を頼みたい。術者の遺体の回収と、情報操作を頼む。……言っておくが、今回は迅速な対応を求める。さもないと被害が広がる可能性がある」


『了解した。バックアップは任せておいて。今から……そうだね、三時間以内にはそっちに人員が到着するようにする』


「頼んだ。こっちはこっちで最後の始末をしておく」


それを最後に、冬夜は携帯の通話を終了した。

支給品の携帯電話を仕舞って、別のポケットから個人用の携帯電話を取り出す。

使い慣れたフィーチャーフォンを開いてキーを操作、この町に来て最初に登録した電話番号を画面に表示する。

最早、迷っている時間はなかった。

“組織”の者が到着するまでに三時間。恐らく、残された時間はそれよりもずっと短い。

その間にこの一件の全てに決着をつける必要があった。





十八時三十分。

すっかり日も暮れて、夜の闇が忍び寄ってきている。

誰ぞ、彼。転じて黄昏。人ならざるモノと人の境界が曖昧になるその時間帯を、人は逢魔が時とも呼んだ。

京花の死から凡そ一時間後、冬夜は学校の敷地内に佇んでいた。桜達が通う学校の、体育館の裏である。体育館の中は、都合の良い事に人の気配はおろか、明かり一つない。


「来たか」


両手をコートのポケットにいれたまま、外壁に預けていた背中をそっと離し、近づいてくる気配の方向に目を向ける。


「冬夜くん?」


気配の主も気がついたのか、視線を彼に定めてぱたぱたと走りよる。

既に薄闇に慣れた少年の瞳は、近づいてくる少女の顔貌を明確に捉えていた。


「一色、桜……」


少女の名を呟く。


「冬夜くん? どうしたの、こんな所に呼び出して」


先程の電話の相手は桜だった。


「いや、な……」


歯切れ悪く呟く。言わなければならない事があるのに、それが言葉にならなかった。


「どうしたの?」


小首を傾げて、桜は冬夜が初めて見せる様子に心配そうに一歩近寄った。

途端に冬夜は体ごと彼女から顔を背けた。彼女の顔を、見ることが出来なかった。


「いや、その、な。ここが、お前や彬の通ってる学校か」


「え?」


自分でも何を言っているのかが分からなかった。

こんな事を話すつもりなどなかったというのに。


「うん。それに、京花さんも昔、通っていたんだよ」


「京花も……」


その名前に、ぴくりと、冬夜の体が反応した。思わず見つめてしまった桜の顔は、薄く微笑んでいた。その笑みの中に、一抹の寂しさが見て取れたのは冬夜の勘違いだろうか。


「そっか。じゃあ、京花はお前らの先輩でもあるわけか」


「ふふ、小学校も中学校もおんなじ。年がちょっと離れてたから、小学校は一緒に通えたけど、中学校と高校は入れ違いになっちゃったんだよね」


桜が笑い声を漏らした。昔の事を思い出してのことなのだろう。三人で過ごした日々は桜にとっても楽しいものだったに違いない。

そう考えて、冬夜は自分の中に馴染みのない感情が生じている事に気がついた。


「幼馴染だっけか? 結構長い付き合いなんだな」


「そうだね。思えば小さい時から三人一緒だったかな……夢が大きくなってきてからは四人一緒。京花さんってば彬の事よくからかってたっけ。学校に行く時とか帰る時、いっつも彬に意地悪して、困ってる彬を見ては笑ってた。それで泣き出しちゃった彬を慰めるのは私の役。そしたら京花さんも困った顔で謝り出すの」


その感情の正体は、羨望だった。冬夜にとって、桜たちの通った道はどこまでも眩しかった。そんな日々に憧れた事がないと言えば嘘になる。

羨ましくて堪らなかった。


「楽しそうだな」


「うーん……?」


「違うのか?」


黒衣の少年の問いかけに、桜は何か悩むように、


「そうだね。楽しかった……んだね。普通の事だから、気がつかなかったけど、きっと楽しくて、幸せな事だったんだね」


普通に学校に行って、普通に友達と遊んで、普通に……

冬夜が願っても手にする事が出来なかった日々を、桜たちは何の苦労もなく送っている。

それが堪らなかった。

その感情の正体は、嫉妬だった。桜が、彬が、そして京花が嫉ましくて、妬ましくて、堪らなかった。


「オレは、さ……」


だが、羨望の何が悪い。嫉妬の何が悪い。

自分にないものに憧れて、何が悪い。

それこそが人間のあり方だ。少なくとも冬夜はそう思う。

一人の人間として、彼女たちに向き合っている。湧き上がる感情は、その証左だ。

感情に整理をつけてから言葉を紡ぐ。彼が自分の事を桜に話すのはこれが二回目だった。


「オレには、親がいないんだ。……これ、前も言ったけか」


「うん、私たちとおんなじだねって……」


桜の返事に、冬夜は頭を振った。


「違うんだ、本当は。オレのは、死んだとかじゃなくて……いないんだ、文字通り」


「え?」


「どういう事情だったのかはオレも詳しく知らないし、知ろうって気もないけどな」


何故、自分はこんな事を言っているのか。

冬夜は自分が分からなかった。言うべきことは他にあるはずなのに、一度開いた口は関を切ったかのように止まらずに言葉を吐き出していく。

津川冬夜という少年は、所謂捨て子だった。

捨てられた時のことも、それ以前の事も今となっては思い出せないが、唯一残っているのは暗い森の中を一人で歩いていたという記憶だけだった。

そこは酷く寒かった。空腹で今にも倒れそうだった。その時の彼は今よりも幼く、小さく、力もない。生き残る術など何一つとして持っていなかった。

真冬の夜闇の中、いずれ力尽きて土に還るだけの存在だった。


「自分を産んだ女の事も、仕込んだ男の事も覚えてない。だが、そいつらは決してオレの親なんかじゃない。そんなんが、親であってたまるか」


吐き捨てるように言う。だが、言葉とは裏腹に彼の中に、その男女への恨みや憎しみはない。だが、それ以外の感情もない。

ともかく、津川冬夜……否、当時はそんな名前さえなかった。何も持たない、死ぬのを待つばかりの幼い子供を救ったのは、通りすがりの者だった。

出会いはただの偶然。子供を拾ったのも何かの気まぐれに過ぎない。

だが、そんな偶然と気まぐれが、これ以上ないくらいに彼の人生を決めた。


「その人達は良くしてくれたよ。何の関わりもないオレに、生きるために必要な術を与えて、飯を食ってく方法を教えてくれた」


家族として迎え、津川冬夜という名を与えてくれた彼らには感謝してもしきれない。

ただ、悲しい事に、その人間たちは、普通の者ではなかった。常識の埒外を常識とし、闇を糧とする人々。そんな彼らに子供を普通に育てる事なんてできはしなかった

そんな彼らに育てられた冬夜に、普通に生きていく方法なんて分かるはずがなかった。


「……だから、オレは今、こんな稼業に身をやつしてるわけだ」


使命感や誇りがあるわけではない。ただ、他の生き方を知らないだけ。

それが、津川冬夜という少年が、魔道を進む理由だった。


「冬夜、くん?」


少年の自分語りを聴き終えて、桜は怪訝な表情を浮かべていた。

当然だろう。急にこんな話をされれば誰だって同じ反応をする。それが普通の反応だ。


「普通の生き方ってやつに憧れた事だってあるし、今だってそれが出来るならそうしたいって思ってる。だけど、それは無理なんだ」


「そんな事、ないよ?」


困惑したままに、しかし桜は首を横に振る。


「そんな事ない。冬夜くんが、何を抱えてるのかはよく分からないけど……やり直したいって事、なんだよね? それならここから始めようよ? 私たちと一緒に、」


「ダメなんだ」


力強く、首を振った。冬夜は今度こそ桜に正面から向き合い、肩幅ほどに両足を開いて、どっしりと身構える。既に両手はポケットから出されている。

冬夜が先ほどから言わんとしていた事。言わなければならなかった事。

ようやくそれを、口にしようとしていた。


「何で、京花を殺そうとした?」


桜が息を飲むのが分かった。


「京花は、何で死ななきゃならなかった?」


問いかけに答えは返ってこない。

桜は驚いたように目を見開いて、何度か口元を戦慄かせた。


「京花さんが、死……殺さ……?」


「下手な演技はよせ」


今にも倒れそうな桜の呟きを、冬夜は容赦なく切り捨てる。


「もう、うんざりだ。これ以上時間を無駄にする必要はない。さっさと観念しろ」


唸るように言う。ここまで来るのに時間がかかりすぎた。それが原因でいらない犠牲が増えた。最早、一刻の猶予も許されないところまできてしまっていた。


「京花とオレとで調べてみた。……オレは、まず手始めにこの学校に問い合わせてみたけどな。お前も、彬も、この学校には在籍してない事になっていた」


「冬夜、くん?」


桜の顔に浮かんだ表情が、冬夜には分からなかった。視覚情報として捉えることはできても、そこに潜む感情は、彼には分からない。観念したようにも、諦観を浮かべているようにも、泣いているようにも怒っているようにも見えた。


「いや、正確には……」


「冬夜くん!」


「もう、除籍されてる」


「そんな、嘘だよ! だって、私も彬も今日だって……朝、学校に行くところ、冬夜くんだって見たでしょ?」


「あぁ。家を出てくところまではな。そっから学校に行ったかどうかなんて分からない」


冷静に、冷酷に。言葉から感情が消えていくのを感じながら、冬夜は深いため息をつくと、ゆっくりと一歩一歩桜に歩み寄っていった。


「根拠なら、まだある。お前が言っていた、事故についても調べてみた。これは京花が調べた事だ。わざわざ救急隊員にも連絡とったりしたらしい。その結果、大怪我をおった人間がいたって証言があった」


二人の間が詰まった。


「一人は女。臓器の半分がやられて、生きていることも、ましてや意識があることさえも不思議な重症を負ってたらしい。もう、何をしても助からないような、な」


二メートルに満たない至近距離から目を見つめて、


「お前は、もう死んでるんだ」

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