第18話 花を折る

薄暗い路地を冬夜は一人歩いていた。

昨晩、京花と別れた後も一通り、最初に仕事をした墓地から、化物と二度目の交戦を行った墓地、廃ビルまで趣いて調査を続けたが、実入りは何もない。

京花とともにあの化物を滅ぼして以来、いくら探せども、存在を疑っていた化物を操っていた黒幕の気配は感じ取れない。それはおろか、新たな化物の気配さえもない。


―この辺が切り上げ時か


そうも思う。黒幕の存在など最初からなく、依頼人の杞憂に過ぎなかった。冬夜と京花が勘ぐりすぎただけの事。化物が一色家に現れた理由は偶発的なものに過ぎず、現れていた化物は滅ぼした。

そういう事で話をまとめてしまって問題はないのではないかと。

だが、一方ではまだ自分はこの地を離れるべきではないという予感もあった。予感、というよりも不安に近い。何か明確な理由があってというよりも、払い屋としての経験からくる勘に近しいものだ。

そんな理由で仕事の期間を伸ばす事のはあまり褒められた事ではない。

そして、冬夜としても、早目にこの仕事には決着をつけたいのは山々なのだ。

これ以上この地にとどまって一色姉妹や彬達と関わり続けるのは危険な事だ。いかにプロとは言えど、冬夜も人間である。長く関われば情が沸く。情が沸けば決断が鈍る。そうして間違いを起こせば、それは払い屋としての冬夜の人生にも影を落とすことになりかねない。否、もしかすると、今もまだ仕事を続けている事自体もう既に情にほだされて切り上げ時を見失っての事なのではないか。


「ちっ」


舌打ちを一つ。タバコに火を点けた。煙と共に悶々とした考えを吐き出してドツボにはまりかけていた思考をリセット、考えを更新しまとめなおす。

切り上げ時はまさに今だ。

昨日頼んだサンプルの分析結果はまだ連絡が来ないが、その結果いかんによってはすぐにでも仕事は終わりに出来る。それでも依頼主が気にするようであれば、後の事は京花に任せてしまえば良い。所詮はよそ者に過ぎない自分が関わり続けるよりも、彼女が取り仕切った方が上手くやるだろう。

そこまで考えて腕に巻いた時計に視線を移す。

彼女と約束していた時間はもう間もなくだった。彼女の方でも調べ物の成果がなければ、仕事を引き継いでもらえないか打診をしてみるつもりだった。

十七時二十九分。カフェ・プランタンの店先に立つ冬夜の片手には風呂敷包が握られていた。中に入っているものは、夜食用に持ってきたおにぎりである。

今晩の仕事は長丁場になるかもしれないと考えて、冬夜が握ってきたものだ。簡単に作れて片手で食べられるおにぎりは、屋外での作業にはうってつけの食料である。具材には、先日の彬との会話の中であがった京花の好物が詰まっている。

京花への意趣返しも兼ねての事だった。

いつもからかってくる彼女が、これを見たらどんな顔をするか、少しだけ楽しみだった。


「ふん……」


そんな自分の事を鼻で笑った。柄にもないことをしているとは、彼自身も思ってはいた。

気を取り直して、店の戸に手をかける。


「おい」


扉には鍵がかかっていた。見れば店内の照明も消えている。

時間を間違えたかと思ってもう一度腕時計を確認するが、針は約束の時間ぴったりを示していた。この時計が狂っていない事は昨晩実証済みだ。と、すれば考えられるのは、京花が時間を間違えている事。あるいは、調べ物とやらが長引いている事。

何にせよ、冬夜に出来る事はこの場で待つことだけだ。京花の携帯の番号を聞いておかなかった自分を呪いながら扉に背を預けて、小さくなったタバコをふかす。

中途半端に吐き出された煙は彼の顔の周りでしばらく揺蕩っていた。そんな折に、急に風が吹いた。煙がしみて思わず目を閉じると、視界が効かなくなった分、他の四感が幾分鋭くなった。

嗅ぎなれたタバコの匂いに混じって、別の匂いが不意に鼻腔を刺激した。

鉄のような、鈍く嫌な匂い。それは常人ならば気がつくことすらできないような微かなものではあったが、彼にとって間違いようのないものだった。

深呼吸を一つ、体内の魔力を活性化させ五感の強化に回す。通常の倍近くにまで高められた感覚を頼りに、彼は考えるよりも早く動き出していた。

路地裏の狭い道に入り込み、邪魔な物を蹴散らしながら走る。

嫌な予感がした。

それを裏付けるように、進むにつれて匂いはどんどん強くなってくる。物心ついた頃から今に至るまで彼の人生に付きまとい、そして取れなくなった匂い。


―間に合え!


どこをどう進んだのか分からなかった。気がつけば彼の足はそこで止まっていた。

ビルの間、薄暗く湿ったその場所。少年が呆然と見やる先には、赤黒く濁った水溜りが広がっていた。その端に塊がある。それは丁度人の形をしていた。


「京花っ!」


ビルに背を預けて力なく項垂れる彼女の元に駆け寄り、その横に膝をつく。どれほど彼女はここでこうしていたのだろうか、血の気が引いて真っ白になった顔をそっと上げると、眠たそうな瞳に冬夜を写した。


「んー……? あぁ、とーやくんか。待ちくたびれたで。てっきり気づいて貰えへんのかと思ってひやひやしとったんやけど……やっぱあたしは、最後の最後まで運がえぇんやな」


「何言ってやがる! こんな時に笑えねぇ冗談言ってんじゃねぇ! 待ってろ、すぐに……」


すぐに、何だ?

続く言葉が見つからなかった。

左脇腹についた荒々しい傷は、恐らく内臓までも達している。押さえつける手の、指の間からは真っ赤な肉が見え隠れしていた。

加えて血を流しすぎている。

もしここに医者がいたとしても、彼女は最早助からない。一介の払い屋に過ぎない冬夜が見ても、ひと目で分かるくらいに手遅れだった。


「ふふっ……」


「何笑ってんだ、こんな時に!」


蝋の如く白くなった顔に京花は儚く、それでいていつも通りの悪戯っぽい笑みを浮かべていた。


「何や、とーやくん。今、君凄い顔しとるで? ……いっつも、仏頂面しとったから、思ってもみぃひんかったけど……そんな顔も出来るんやね。いや、イイもん見れた」


「ふざけてる場合か! もう喋るな」


「それこそ冗談やない。ふざけるし……喋るで? 最後まで、な。どうせ何したって、もうあたしは助からん……とーやくんが来てくれるまで保ったんも、っ、奇跡みたいなもんやもん。……なんて、無駄話、しとる暇ももう、なさそうや」


冬夜は頭に登っていた血が急速に冷たくなっていくのを感じていた。

彼女は、死ぬ。助からない。

どうしようもない事実が、彼を戻りたくもない現実に引き戻していく。


「聞こう」


無理矢理に、冷静を装った。

冷酷に、機械的に。仕事には無用な感情を奥に押し込める。


「それでこそ、とー……やくんや。えぇーと、どっから話したもんかな。色々ありすぎて……あかん、時間が足らんな」


冬夜の顔を見つめながら彼女は微苦笑を浮かべる。

京花の瞳に映る冬夜。その顔を覆い隠す、被りなれたはずの仮面は、しかし欠けていた。引きつった無表情では、彼の情は隠しきれてはいなかった。


「簡潔に要点だけまとめろ。手短にな」


「まぁ……そやな。いっちゃん大事なところだけ言うと……あの子が、騒動の原因やった。町の化物も含めてな。………ははッ、嫌な予感的中や。下手げに関わらん方が良かったで、ほんま」


「そうか」


冬夜の表情に、沈痛なものが浮かんだ―ように見えた。だが、それも刹那に満たない間の出来事。瞬く間に仮面の裏側に引っ込んだそれの正体は誰にも分からない。

くつくつと、京花の喉から漏れる笑い声に湿っぽい音が混じった。口の端から赤黒い血を滴らせ、彼女は手を傷口から離す。最早、流れ出る血さえ残っていなかった。

彼女は震える手で胸ポケットから取り出した小さなメモ帳を冬夜に差し出す。


「これ、な。実はメモ、もう一つあったんやけど。これ読めば、大体のとこは分かると思う。とーやくんに譲ったる」


「あぁ」


「そんで、料金代わりに、一つ、頼まれて欲しいんやけどな……」


ぼそぼそと、聞き取る事も難しくなってきた小さな声を、一字一句聞き逃すまいと冬夜は目を閉じて彼女の話に集中する。

彼女の頼みを聴き終えた時、冬夜の顔に浮かんだ感情は果たして何だったのか。


「津川、冬夜くん。お願いや。……後生やから、あの子を、」


最後まで言い切ることなく、京花の腕から力が抜けた。途端に地面に落ちる手はしかし、血だまりに沈むことなく空中でそのまま止まっていた。

冬夜の手が、彼女の手首をしっかりと、しかし優しく掴んでいた。ところどころが赤く湿ったメモを、冬夜はそっと彼女の手から受け取る。

彼の手が、空っぽになった京花の手を握り締めた。それは、冷たくなった彼女の手に、少しでも温もりを与えようとしているかのようだった。


「ほんじゃ、伝える事は、伝えたで。……後は、勝手にこのまま野垂れ死ぬから、ほっといてくれてえぇよ」


言って、京花は微苦笑を浮かべる。

冬夜は無表情のまま、彼女の手をいつまでも離そうとはしなかった。


「看取ってくれるん? もの好きやね」


冬夜は黙ったまま答えない。

それが自分に出来る精一杯だと言わんばかりに、ただ静かに彼女の手を握り続けていた。


「なぁ、とーやくん? 死ぬってどんな感じなんかな?」


「……知らねぇよ。オレも、死んだ事はないから」


今度はぶっきらぼうに答えた。その口調は、退治屋としての彼の物ではなくなっていた。


「そやろな。やっぱ最後まで苦しいもんなんかな?」


かたかた、と。そんな音が冬夜の耳に聞こえた。

京花の体が震える音だった。歯が鳴る音だった。


「急に寒く……なってきたんちゃう?」


誤魔化すように彼女は笑ってみせる。だがそれは、ただただ痛々しいまでの偽りの笑みだった。黙って見ていられない、悲愴な笑みだった

彼女を震えさせているのは、紛れもなく、近づきつつある死への恐怖だった。

血の絡んだ咳を一つ。苦しげに目を閉じた彼女が、再び瞼をあげた時に目にしたのは、自らの首元に伸びる冬夜の右手だった。

せめて彼女の恐怖を拭ってやりたかった。震える時間を少しでも短くしてやりたかった。

その為に冬夜に出来る事は、今この場において一つしかなかった。


「何や……やっぱ、とーやくん、優しいなぁ」


京花の喉に五指がそっと触れる。不器用で、しかしどこまでも優しい触れ方だった。

微笑んで、目を閉じる。既に震えはなくなっていた。

ぽきり、と。

花を手折るのに似た音が響いた。

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