第17話 そして彼らは動き出す
日付も変わろうかという頃、津川冬夜は一人、真っ黒に染まった街を進んでいた。
時折思い出したように吹く風がまとったコートをたなびかせる。昼間の暖かさが夢か幻のように冷え切っていた。
夜に染まった道に硬い靴音を響かせて進みながら、彼はふと思い出したかのようにポケットから取り出した携帯電話を片手で操作した。最近、電話をしたばかりの相手へのリダイアル。呼び出し音が十回を超えてもなお、冬夜は携帯電話から耳を離さずなかった。
『……はい。もしもし冬夜君? 今、何時だと思ってるのかな? それとも、君、時差がそんなにひどい所に出張してたっけ?』
「時刻は深夜二十三時五十三分……いや、今五十四分になったな。オレの腕時計が間違っていないことが前提だが」
電話口の向こうから聞こえて来る寝起きのような声に、冬夜は律儀に腕時計を確認しながら答える。その行為にさしたる意味はない。言うならばただの嫌がらせだった。
『そうだね。時間はあってるよ。君の時計を疑う余地はなさそうだ。疑うべきは君の良識かな。……僕、今、寝てたんだけど』
「良いご身分だな、課長。こっちが睡眠時間削って働いている時に鼻提灯とは」
『それも上司の特権だと思って納得してもらえないかな? この位の特権がないとみんな出世にモチベーションもてないだろ?』
「ヒラを代表して言わせてもらう。お前は地獄に落ちる」
『こら、術者が安易に地獄とか口に出さないように。……で、僕に何の用?』
「この間言った、資材の注文の件だ。まだ届いてないぞ」
『―――ッ』
電話口の向こうで、相手が息を呑むのが聞こえた。
『…………まさかとは思うけど、そのためだけに僕を叩き起こしたわけじゃないよね?』
上司が談話口の向こうで絶句している姿を想像して、冬夜は内心でほくそ笑んだ。惜しむべくはその姿を実際に見られなかった事ではあるが、それでも幾分気が晴れたので良しとする事にした。
「そのまさかだ。……と言いたいが、本題は別にある。今日、お前宛に荷物を速達で送った。明日の昼にはつくはずだ」
『荷物?』
「あぁ。この件に関係がある……かもしれないサンプルだ。届いたらすぐに研究室に回せ。出来れば、薬草学に詳しい奴に見せるのが望ましい」
『薬草……ってことは植物サンプル? 別に良いけど、それならこんな夜中に電話してこなくても明日電話してくれれば』
彼の言う通りである。むしろ、荷物を送ったすぐ後にでも一報を入れれば良かったのだが、あえてそうしなかったのは、嫌がらせも兼ねての事であった。無論、そんな私情は声にも表情にも出さず、冬夜は淡々と要件を伝える。
「注文した物をロクに送らない奴を信用しろと? いいか? くどい様だが、すぐに分析にかけろ。何とか明日中に結果が欲しい」
『……事は急を要するようだね。分かった、研究室には受け入れ体勢をとらせとく』
「頼む。……もし対応が遅れたら、この一件の不備の事で営業部に、担当者が泣いて謝るまでクレームの電話をいれ続けてやるから、そのつもりでいやがれ」
『や、やめてくれ。他部署と揉めるのだけは……』
上司のうろたえる声を最後に、冬夜は通話を一方的に終了して足を止める。
話している間にも、目的地の手前にたどり着いていた。
『カフェ・プランタン』。
クローズの札がかかってはいるが、閉じられたカーテンの向こうには明かりが見えている。
鍵はかかっていなかった。ノックもなしにそっと扉を開く。
「お、とーやくんやん。こないな時間にどないしたん?」
オレンジ色の証明に照らされた店内、カウンターの向こう側から声がかかる。
琥珀色の液体が満ちたグラス片手に足を組む京花の頬は普段に比べ、心なし朱が差しているようだった。
「須田京花。お前に聞きたい事がある」
その名を体現したかのような底冷えする声音と共に、少年は硬い靴音を立てて店内に踏み込む。対する京花はそれに動じる事もなく座ったままグラスの中身を飲み干す。
「ふーん? えぇよ。まぁ、立ち話もなんやし、まぁ座り」
進められるままに、冬夜はカウンター席につく。丁度、京花の正面に陣取る形で、彼女の顔を睨みつける。
「んで、聞きたいことってなんや? もしかしてあたしのスリーサイズとか?」
「ふざけるな」
胸の中で渦巻く苛立ちを隠して、一言で切り捨てる。
からかうような、いつも通りの京花の調子。それが今は煩わしくてたまらなかった。
「冗談や」
彼女は組んでいた脚をほどくと立ち上がり、冬夜の前に灰皿と新しいグラスを置いた。彼女の顔からは、笑みは消えていた。
「タバコでも吸って少し落ち着き。飲み物はウイスキーでえぇ?」
「……未成年に酒をすすめるのか、この店は」
きょとんとした顔で冬夜を見つめると、ようやく彼の言った言葉が理解出来たのか、彼女は肩をすくめる。
「桜ちゃんとこでは成人済みとか言っとるんやろ? それにあんだけタバコぱかぱかふかしといて、今更何言うとるんや」
「ふん」
灰皿を手元に引き寄せ、タバコに火を点ける。先端から噴き上がった紫煙が、天井で渦巻くようにゆっくりと流れるのを見届けてから、彼は苦い顔で肺を満たす煙を吐きだした。
グラスに注がれた酒の水面に目をやってから、彼は徐に本題を切り出す。
「何故黙っていた?」
「何の事や?」
「しらばっくれるな。この町の伝説の事だ」
「あぁ、あれのことかいな」
ぽん、と。わざとらしく手を打ってみせ、彼女は新たに注いだ自分の酒に口をつけた。
それに習って少年も同じように手元にある琥珀色の液体を飲む。
舌と喉、そして胃の腑が焼けるような感覚。思った以上に度数が高く、むせそうになるのを堪えながら、冬夜はもう一度彼女に問いかける。
「どういうつもりだ?」
「どうってねぇ……」
はぐらかすような様子を見せた京花を再び睨みつける。
その視線には、明らかな殺気がこもっていた。
「ふざけるな。根付きの咒い師が、地方の伝説を把握していないなんて事、滅多にあるもんじゃない。ましてやそれが、禁忌ともなればなおさらだ」
「そやね。あたしとしたことがど忘れしてもうた。堪忍してな」
「忘れただと?」
冬夜の拳がテーブルを叩いた。
「うおっ! とーやくん、酒乱の気があるん? あかんなー、お酒は正しく楽しまにゃならんで?」
衝撃で倒れそうになった酒瓶とグラスを慌てて持ち上げる。京花の様子は、ふざけながらも冬夜を落ち着かせようとしているようだった。だが、対する冬夜はそんな事には構いもせずに詰問を続ける。
「忘れただと?」
その一言に一拍置いて、場の空気が張り詰めた。
「あの伝説は、この一件に関わりがありそうだと、少し聞きかじっただけのオレでも分かる。それを、お前が分からないはずがない」
「買いかぶりすぎや。ほんまに忘れとっただけやよ」
困ったように肩をすくめながら、何気なく京花は立ち上がる。冬夜も同じくゆっくりと椅子から腰を上げる。その目は鋭く、京花を睨みつけている。
何かがあればすぐにでも彼女に仕掛けられるよう、既に冬夜は身構えていた。
それに関しても京花も同じらしい。自然体を装ってはいるが、すぐにでも相手のアクションに対応できるように全身に神経がまわされていた。
「信じられんな」
カウンターを挟んで目と目をしっかり合わせる。二人の皮膚の下には、すさまじいまでの緊張が張り詰めていた。僅かな切欠一つで、薄皮一枚下で畝ねる殺気は相手の喉元に食らいつくだろう。
京花の右腕が上がった。弾かれたように冬夜が拳を構える。だが、彼女の反応は黒衣の少年の思っていたものとはあまりにも違った。
「参った。降参降参。いやー、やってられへんわー」
手の平を冬夜に向けてひらひらと力なく振ったかと思うとその手で頭を掻き始める。その様子に、流石の冬夜も毒気を抜かれ、張り詰めていた緊張の糸が切れてしまう。
呆気にとられる彼の前で、京花は再び椅子にどっかりと腰掛け直して、
「あたしらが争ったってつまらんわ。お互い無事ではすまんし、元請けさんボコして干されちゃかなわんからなぁ」
「懸命な判断だ。ボコボコになるのが逆だって事はさておき、な」
京花にならって冬夜も座りなおす。チビたタバコを一口吸い込むと、途端に消えかけていた火が息を吹き返し、白い煙を噴き上げ始めた。
「黙ってた事についてはすまん思うとる。堪忍してや」
「なら、何故黙っていたのか教えてもらおう。それを聞かない事には納得も出来ない」
京花は黙って目を閉じて頷くと、大きく溜息をついた。そして冬夜に向けて手を伸ばし、
「タバコ」
「何?」
「タバコ一本恵んでくれたら話す。酒飲んでタバコ吸わにゃやっとられへん」
舌打ちを一つ、渋々冬夜はタバコを一本京花の手に渡した。パッケージに残った中身はこれで三本、補給がまともに受けられない以上、早目に仕事を終わらせないと禁煙生活に突入する事になりそうだった。
京花は嬉々として受け取ったタバコを咥えると、マッチをこすって火を灯す。楽しそうに一口煙を吸い込んで、途端に嫌そうに表情を歪めた。
「おい」
「やっぱマズイな、これ。よくこんなもん吸えるわ、ほんま」
「文句言うなら返せ」
「いやいや。せっかくやし貰っとく。……で、黙ってた理由やけどな」
煙で輪っかを作って天井に吐き出す。苦々しい顔は何もタバコが不味かったからだけではなさそうだった。
「どーにも、嫌な予感がしてな。とーやくんに会った時……あのバケモンを始めて見かけた時からかな? 何か、あんまし深入りしたらロクでもない事になるんやないかっていう、そんな予感。まぁ、そないな事言ってもこうして深入りしてもうたんやけど」
「予感、か」
理由としては納得できるものではない。だが、否定することなく少年は先を促す。
「伝説の事は勿論知っとったけどな。つい、つい嫌な感じに負けて、無意識に考えんように、触れんようにしてしまったんや。それが理由。納得してもらえるとは思わんし、信じてもらえるとも思えんけど、これがホントのところや」
再び、京花はタバコに口をつける。今度は普通に、溜息をつくように煙を吐きだした。
「拍子抜けだ。残り少ないタバコの代金には見合わんな」
自分のタバコを灰皿に押し付けて火を消すと、冬夜はグラスの中身を飲み干した。流れ込んだアルコールが胃を焼くのを感じながら、彼はそっと椅子から立ち上がる。
「あれ?」
「何だ?」
「いや、もうちょい疑われるもんかと思って身構えとったんやけど。これで納得してくれるん?」
冬夜は眉間に皺を寄せて、
「しょうもなさ過ぎて疑う気も失せた。嘘をつくならもうちょいマシな嘘をつくだろう」
「そりゃそうやな」
「別にお前の疑いが晴れたわけでもないがな。一先ず、共同戦線は続行だ」
こつり、と。冬夜が床を踏みしめる音が店内に響く。
「そら、まぁ安心したわ。ここで契約打ち切られて一銭も貰えへんってのは笑えんからな。……さて、ここまで来てしもうたら、予感がどうのとか言うとる場合でもないんやろな。いまいち気は乗らんけど、その線で少し調べ物してみるわ」
「オレの方でも気になる事があって、今調査中だ。こっちの結果は明日の昼間には出る……はずだ。そっちはどうだ?」
「こっちも明日の午前中いっぱい調べてみる。一先ず夕方くらいにもっぺんここで落ち合うってのでどうや? 何か分かったら、そっから二人で夜の町に繰り出す方向で」
「承知した。十七時半頃にここに来る」
コートの裾を翻して冬夜は出口に向かい、扉に手をかけた。しかし、そこで思い出したかのように、
「酒、ご馳走になった。不味かったがな」
「えぇよ、別に。うちが勧めただけやしな……って不味いは余計やろ」
少年の声の調子が変わった事に気がついて、京花は口の端を釣り上げる。
「しみったれた顔付き合わせて飲む酒程不味いものはねぇからな。次は美味い酒が飲める事を願ってるよ」
それは先ほどまでの冷淡なものではなかった。血の通った人間の、等身大の言葉だった。
「そやね。それじゃ、また」
―明日
そう言った時には既に冬夜は店を出た後だった。閉まりかけた戸の隙間から流れ込んできた寒風が、室内の温度を下げたような気がして、京花は思わずその身を強ばらせた。
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