第15話 花見

朝がきた。太陽は既に高く上り、カーテン越しに部屋に差し込む日光が暖かい。

まだ微睡みから脱し切れないまま、薄目を開ければ、枕元では舞う埃が光を浴びてきらきらと踊っていた。

寝ぼけ眼のまま時計を確認すれば、時刻は朝八時半を示していた。


「マジかよ……」


朝食の準備は冬夜の仕事である。この時間ともなれば、桜は学校に向かっている筈だ。さらには夢見さえも準備を終えて、門司に幼稚園に送られていく頃だろう。

完全に寝過ごした。そう思って思い切り上体を起こしたところで意識が完全に覚醒した。すっきりした頭は、ある事実を彼に告げていた。


「今日は休みだったか」


腕時計に表示される曜日は土曜日。今日は桜の学校も夢見の幼稚園もない。門司によれば土曜日はいつも二人とも朝は九時過ぎまで眠っているとの事で、この日に限っては朝は早く起きる必要はないと、予め言われていた。

ため息を盛大について、彼は再び布団に潜り込む。彼はありがたく門司に貰った寝坊の権利を使わせてもらう事にした。払い屋としての調査に家事と、ここのところまともに眠れていない。連続して仕事に就いている現状、僅かな時間の睡眠でも貴重なものなのだ。

余程疲労が溜まっているのか、布団のぬくもりにくるまれた途端、再びまどろみの中に意識が沈んでいくのが感じられた。

意識を完全に失う寸前で、扉の向こうでチャイムの音が聞こえた気がした。こんな時間に来客だろうか。対応する男の声は門司のものだ。

やがてその声は静かになり、代わりに、自分の部屋に近づいてくる足音が聞こえてくる。


「津川さん、お客様です」


「……む」


唸り声を一つ。急な来客はどうやら自分に関係のあるものだったらしい。せっかく二度寝をきめようとした所を起こされて若干不機嫌になりながらも、門司に返事をしようと布団をどけて、


「とーやくん、おはようさん!」


扉の向こうから聞こえてきた、特徴のある声のイントネーションに、思わず布団を頭からかぶった。


「ふむ、津川さんはまだ寝ておられるようですね……」


「さっき声聞こえたような気がしたんやけどな? おーい、とーやくん? 起きてる?」


この声は間違いなく須田京花のものだった。

だが、何故彼女がこの屋敷にいるのか。実は今、自分は夢を見ているのではないかと頬を抓ってみるが、それは覚醒を促しただけで京花の声が消える事はなかった。

どうしたものかと、いっそこのまま寝たふりを続けてお引き取り願おうかと、半ば本気で考えてしまった。だが、よくよく考えて見れば、彼女がこの屋敷をこんな時間に尋ねて来たということは何か急用があっての事の可能性が高いと、そう考えて渋々上体を起こす。その時だった。


「きょーかおねえちゃん!」


ぱたぱたと、廊下を走ってくる足音が聞こえてきた。


「おー、夢ちゃんやん! 久しぶりやなー、元気しとったか?」


「うん! でも、どうしたの、きょーかおねえちゃん?」


「あぁ、とーやくんにちょっと用事あってな。部屋まで来てみたんやけど、まだ寝てるみたいなんよ」


「そーなんだ。おーい、りょーりちょー!」


とんとんと、部屋の扉が小さな手で叩かれる音が聞こえて来る。

仕方なしに冬夜はベッドから体を下ろし、


「あぁ、少し待て、今着が、」


着替えると、そう言い切るよりも早く扉が開いた。

元より鍵などかけていた訳ではないから、開けようと思えば開けられるはずなのだが、そうしなかったのは門司の良識によるところだろう。しかし、あいにくと夢見の無邪気さの前に、鍵のかかっていない扉など無意味もいいところだった。


「りょーりちょー!」


「ぶッ!?」


立ち上がったばかりの腹に、夢見の全体重をかけたタックルが入った。


「おはよう、りょーりちょー!」


「お、おはよう……」


太陽のように眩しい夢見の笑顔に、流石の冬夜も苦言を呈する事を忘れて苦笑いを浮かべる事しか出来なかった。


「おはよー、とーやくん。ぐっすり寝とったようやな?」


「……何の用だ?」


へらへらしながら部屋に入ってきた京花に、冷たい一瞥を投げかけて尋ねると、彼女はおどけた仕草で肩をすくめてみせた。


「挨拶くらい返してくれたかてええんとちがう? 夢ちゃんとえらい対応が違うやん。おねーさん泣いちゃうで?」


「……勝手に泣いてろ」


まだしがみついたままの夢見をそっと引き剥がし、冬夜はあくびを一つ、


「で、何か用か?」


「用がなかったら遊びきちゃいけんの? そもそもここ、桜ちゃん、夢ちゃんの家やろ?」


「……」


にやにやとしながら挑発するように言ってのける京花の顔が、無性にムカついた。ただでさえ寝起きで機嫌が良くないのだ。その横っ面を張り倒してやろうかと思いながらも、夢見と門司の手前、そんな事をするわけにもいかず、彼は拳を握り締める。


「冗談冗談。そんな怖い顔せんといて? 今日は桜ちゃんと夢ちゃん、それにとーやくんにも用があって来たんよ」


「オレにも?」


「そうそう。昨日言ったやろ? 花見や」


「花見? は?」


「忘れたん? つれへんなぁ。暖かくなってきたし、花も咲き始める頃やから、みんなでワイワイしよう、言うたやろ?」


「……あぁ、そう言えば。いや、待て。まさかとは思うが……まさか、今からか?」


「そうや。善は急げ、ってな」


「ふざけるな」


呻くように冬夜は吐き捨てた。

昨日、花見について言われた事は、話半分ではあるが確かに聞いていた。だが、冗談か何かだと、自分には関係のない話だと思っていた。

それに何よりも昨日の今日の事である。


「急すぎる。花なんてまだ咲いていないだろう」


「まぁまぁ、固い事言わんといてや。桜ちゃん、夢ちゃん、彬には昨日の夜、もう話つけてあるさかい、お弁当よろしく! てなわけで、さっさと着替えた着替えた! さ、夢ちゃん、リビングでおねーさんと遊んで待ってような」


「待て。おい!」


言いたいことを言うだけ言うと、冬夜を残して京花は彼の部屋を後にした。






京花達に起こされてからおよそ二時間後、彼らは屋敷の前に立っていた。

楽しげな様子の夢見と京花。それとは対照的に不機嫌そうな冬夜と、それを困ったような、申し訳なさそうな顔で見つめる桜。何ともよく分からない集団だった。


「お待たせ! 悪い、寝坊した!」


やがて、大慌てで彬が走りより、その集団に合流する。


「遅いで、彬。何やっとるん」


「ごめんて。って、何だよ冬夜?」


寝坊、の一言が疳に触ったのか、冬夜が鋭い視線を彼に向けていた。惰眠を貪ろうとしていた所を訳も分からずたたき起こされた彼からしてみれば当然の事である。


「……何でもない」


とはいえその怒りを彬にぶつけたところで、それはただの八つ当たりでしか無いことは彼も弁えていたので、それ以上は何も言わなかった。

そんな冬夜の様子に気味悪そうにしながら、彬は全員の顔を見回すと、


「これで全員揃ったか? それじゃ、さっそく行こうぜ」


「うん!」


「待て。行くってどこにだ?」


彬はきょとんとして、若干首をかしげながら、


「あれ? 聞いてないか? 花見なんだけど」


「花見、ってのはさっき京花から聞いてるが、どこに行くのかは聞いてない」


「あぁ、そういうことか。この近くに山……いや、丘か? そんな感じの所があってさ。毎年そこで山桜が綺麗に咲いて、花見をするのに絶好の場所なんだ」


「花見、ねぇ……しかしまだ開花には早いんじゃねぇか? 行っても見れてせいぜい蕾くらいのもんだろ?」


「そりゃそうなんだがな」


彬は何故か照れくさそうに頭を掻きながら、冬夜に意味ありげに笑いかけた。


「まぁ、ちょっとしたピクニックみたいなもんだと考えてくれよ」


残念ながら彬の笑みの意味は冬夜には分からなかった。仏頂面に疑問符を浮かべた彼の背中をばしばしと叩いて、


「まぁ、良いだろ。それより弁当作ってくれたんだって? 期待してるぜ」


「……期待して貰ってるところ悪いが、ありあわせで作った即席だ。もっと早く言ってくれれば、準備出来たんだがな」


「悪い悪い、何せ急な思いつきだったからさ。だけど、話聞いたの買い物前だったんだろ? 丁度良かったじゃん、色々準備出来て」


「は?」


思わず怪訝そうに見つめる冬夜に、彬も彼と同じ表情を返した。


「え? 昨日京花ねえさんと会った時、話聞いてないの?」


「オレがこのピクニックとやらの話を聞いたのは今朝だ」


彼女から花見の話は確かに聞いた覚えがある。

だが、それはいつかそのうちに……といった話のはずだった。今朝この誘いを受けた時点では、急遽その予定が早まってピクニックという形になったのかと呆れたものだ。

だが、彬の話を聞く限りではどうも様子が違っているように思えてならない。

意見の食い違いから、お互いに不思議そうに見つめ合う事数瞬の後、彼らは揃って、先行している京花に視線を移した。


「ん?」


「ん、じゃなくて! 京花姉さん、冬夜に説明してなかったのかよ?」


「少なくともオレは説明なんざしてもらってないんだがな。どういうことだ?」


「あれ? 明日花見やるから用意しとくように言わんかった?」


逆に彼らに尋ね、首を傾げる京花だったが、首を傾げたいのは冬夜の方だった


「聞いてねぇよ」


「あー、言い忘れとったか。花見の話したから伝えたつもりやったんけど」


「嘘つけ。確信犯で伝えなかっただろ」


半ばカマかけのつもりで言ってみた。が、残念なことに帰って来た答えは、


「あ、バレた?」


「この、アマ……!」


理性が止める間もなく、握り締めた拳を振り上げていた。

急な話で満足な準備が出来なかった事もある。惰眠を貪る予定をダメにされたのも大きい。だが、一番の原因は昨日の会話だった。あの時、柄にもなく心揺らされ、考え込んでしまった自分がなんとも愚かしくて怒りが湧いてくる。あの時間を返して欲しかった。


「ストップ!」


「と、冬夜君、落ち着いて!」


今にも京花に殴りかかりそうな様子を見せた彼を、彬と桜が止めにかかった。

二人の手前、京花を張り倒すわけにもいかずに渋々彼は矛を収めるが、怒りは冷めやらない。代わりに、恨みも混じって鋭さ倍増しの目で睨みつけてやった。が、そんな事で堪える京花でないのは既に知れたことだった。


「あはは、堪忍してな。それにここまで来てもうたんやし、今更怒ったところで時間が戻る訳でもないやろ? 楽しまにゃ損、やで?」


「お前が言う台詞じゃねぇ」


吐き捨てるように言って、彼はポケットに手を伸ばす。それはタバコを吸うためであったが、桜と夢見の姿を視界の隅に写してすぐにそれを辞めた。女子供の前で堂々とタバコを燻らせるのは些か抵抗があるのだった。

タバコに逃げる訳にもいかず、結果としてイライラは彼の胃を苛む事となった。

揉めている間にも彼らの歩は進む。屋敷を出てから十数分、平坦な道を進む内に山の手前までたどり着いていた。

彬の言うとおり、それは山というよりは丘に近いものだった。子供の足でも十分も登れば一番高いところに着きそうな、小高い丘である。上には神社でもあるのか、彼らの前には石段が続いている。見たところ苔むしていて、頻繁に人が上り下りしている様子はない。


「昔はここで彬くんや京花さんとよく遊んだんだ。懐かしいな……」


丘を見上げて、桜が感慨深げに呟いた。

きっと彼女は今と同じで大人しめの少女だったのだろう。彬はどちらかというと活発で、引っ込み思案の桜を連れて遊びに連れ回していたのだろうか。そんな二人を引き連れて、時には二人をからかって笑うガキ大将のように、時には二人を優しく見守る良き姉貴分として、桜と彬の面倒を見てきたのがきっと京花なのだ。

勿論、これは冬夜の妄想に過ぎない。

彼女達三人の目に写っているものが何なのか、かつての彼女たちがどんな風だったのかなど冬夜には分からない。彼女たちが見る景色の中に、冬夜は存在しないのだ。


「まだ、やっぱ花は咲いてないな」

石段に足をかけて、彬が呟いた。

近くにあった山桜の木はまだ寒々しく、枝の隙間からは空が覗いていた。


「さすがに早いだろう」


「最近暖かくなってきたからもしかしたら、と思ったんやけどな……」

石段を上がりながら木々を見回して残念そうに言う。その様子が少し意外だった。


「あ、でも見て! 蕾がある!」


桜が指差す先、彼らの頭上にあった枝にはぽつりぽつりと、小さな蕾がついていた。


「どれ、どれー?」


蕾が見つからないのか石段の上でぴょんぴょんと飛び跳ねる夢見を桜が慌てて止めた。妹の横にしゃがみ込むと、幼子の目線になって花の蕾を指差してみせる。


「ほら。もうすぐ咲きそうだよ」


「ほんとーだ! つぼみだ!」


桜の言うとおり、蕾は大分膨らんでいて、早ければ一週間後には花が開くかもしれない。

緑の殻の先端はり淡く色づいていて、間もなく訪れる春を表しているかのようだった。

木々の間を風が吹き抜ける。土の匂いと木々の香りの色づけられた風だった。力強い生命の力を感じさせる暖かさを感じさせた。

今ここでは有り得ない桜吹雪を幻視して、冬夜はその目を細めていた。瞼の裏に描いたその景色は、今までに見た何物よりも美しいもののように思えた。


「さて、そろそろ行こうぜ。目当てはこの上だ」


「そやな」


先行する彬に従い、四人はその後ろを歩く。石段は元からそれほど広くないため、列になって上っていくしかない。彬、京花の二人の後に続く桜が時折振り返っては自身の後ろを歩く夢見を確かめる。冬夜達にはたいしたことのない階段でも、まだ幼い夢見には登るのも一苦労なのだろう。

転びそうになる妹を心配そうに見て、そして桜の目は、夢見の後ろに立つ冬夜を捉えた。

気だるげな少年の視線は、彼女と同じく夢見に注がれていた。さりげなく最後尾に陣取った彼だったが、夢見を見守るためにそうしたのだと、桜はすぐに気がついた。


「ふふっ」


「どうした?」


口元からこぼれた笑い声に冬夜がすかさず反応するが、桜は何でもないと目で言って、


「お願いね、冬夜君」


「むっ……」


幼い妹の事を冬夜に頼んで桜は再び前を向く。恐らく気がつかれていないつもりであったのであろう。桜の言葉の真意に気づいて、見抜かれたと知った彼が言葉に詰まって呻くのを背中で聞いた。見なくても分かってしまう。彼が気まずそうに眉間に皺を寄せ、不機嫌そうにそっぽを向いた事が。彼のそんな子供っぽい仕草が、不思議と彼女には好ましかった。


「今度こそ到着だ」


最後尾にいた冬夜が最後の一段を超えた時、彬がそう宣言した。

思ったよりも長かった石段を登りきった先は、森が開けて、ちょっとした広場のようになった場所だった。日当たりも良く、今日の陽気もあって暖かい。ここにそのまま転がったらさぞ気持ちが良さそうだ。


「それじゃ冬夜、京花姉さん、手伝ってくれ」


「あいよー」


「え?」


彬に呼ばれてそちらに向かうと、彼は背負っていた大きなリュックサックの中から取り出したレジャーシートの端を掴んで伸ばすように二人に支持を出した。

全員が入ってなお余裕のある大きなシートを広げ終わると、誰からともなくその上に腰を下ろしていく。

一番後におずおずと座って、冬夜は空を仰いだ。広場の上には不思議と周りの木々の枝も伸びてはいない。誰かが手入れをしているのかもしれなかった。

青い空に、筆で引いたようなしらす雲が真っ白なラインをいくつも描いていた。見上げる陽光は眩しくて、思わず手で目を覆って視線を空から逸らす。


「いいとこだな」


「やろ?」


ぼそりと感想を呟くと、京花が自慢げに胸を張る。彼女にとってもここはお気に入りなのだろう。そんな場所を褒められて彼女も嬉しいようだった。

そっと周囲を見渡す。広場の周りに植わっている木々は、カエデにモミジといくつか種類が見て取れるが、何といっても桜の木が多い。出来過ぎなくらいに、花見にはぴったりの場所だった。


「ほいじゃ、まぁ、落ち着いたところでご飯にしよか。朝ごはんには遅いし、昼ごはんには早いから……ブランチなんて洒落こもか」


「そうそう! 冬夜が何か作ってきたみたいだし、さっそく飯にしようぜ。朝飯食べられなかったからもう腹ペコ!」


「良いだろう……オレも、いきなりたたき起こされて何も食べてない」


恨みを込めて呟くと、冬夜は片手にずっと下げていたバスケットを開いて中身を取り出していく。

りょーりちょー! きょうのごはんはなに?」


「サンドイッチだ。時間も材料も十分じゃなかったから手抜きで悪いがな」


そう言って取り出したサンドイッチの数々。挟み込まれた具材は卵、ポテトサラダ、レタスとハム、チーズ、それにフルーツ。パンは両面がこんがり焼かれ、バターが薄く塗られていた。一つ一つのサイズは凡そ食パンの四分の一、少しずつ全ての味を楽しめるようにという配慮なのだろう。具材こそありあわせではあるものの、時間がなかったという割にはどれもこれも丁寧に作りこまれていた。

サンドイッチに続いてバスケットから魔法瓶を取り出して、人数分の紙コップに注いでいくと、湯気と共にオレンジペコの香りが立ち上った。


「おー! これが噂のとーやくんの料理かいな。さっそくいただきます!」


一番初めに京花がサンドイッチに手を伸ばして、一口で半分を頬張った。


「ん! 美味い、ってか上手いなぁ。表面サクサク、レタスはシャキシャキ。やけど、バター塗ってるおかげで水気がパンに染みとらへん!」


「あ、フライング! ……美味っ!」


京花と彬が次から次へとサンドイッチに手を伸ばす様に冬夜は呆れたような目を向ける。

そんな二人を見て、危機感を感じたのか慌てて夢見もサンドイッチに手を伸ばす。小さめに作ったつもりだったが、幼い夢見には丁度良いサイズのようだった。


「お前ら落ち着いて食えよ……桜も食べないと食い尽くされるぞ?」


「そうみたいだね……そういう冬夜君こそ」


三人の姿に苦笑を浮かべながら、桜は紅茶を一口飲んでほっと息をつく。

冬夜もそれを真似て、紅茶を口に含む。自分で淹れた紅茶である。普段と変わらない味のはずなのに、何故だかいつもよりも美味しく感じられた。山の中というシチュエーションによるものか。それもあるのだろうが、きっと一番の理由は桜達の存在なのだろう。


「とーやくん、もういっそ本職捨ててこっちで食ってけば?」


「な、おまっ!」


何気なく京花が口にした一言に、背筋に冷たいものが走った“本職の事は桜も夢見も、もちろん彬も知らないのだ。

冬夜が思わず目を見開いた冬夜の様に、京花はすぐに自分の失敗に気がついたのか、思わず口を押さえてしまう。


「本職?冬夜の本職って……」


「ダメだよ、京花さん。冬夜君はうちの料理長さんなんだから」


首を傾げる彬だったが、桜が都合良く勘違いをしてくれたおかげですぐに納得したように頷いた。


「あぁ、なるほど。だけど、桜んちの専属かー。せっかくだしどっかで店とか出して欲しいよな。そしたらいつでも食べに行けるのに」


内心、胸をなでおろしながら冬夜は口元を軽く歪めて、


「それもありかもな」


勿論冗談だった。

冗談の、つもりだった。

だが、言ってから想像して、少しだけ心が弾むのを彼は感じてしまった。


「ほんならうちで働かへん? この腕ならすぐに正社員として雇ってもええでー?」


「冗談。こき使われるのが目に見えてる」


失態を上手く誤魔化すためか京花が悪戯っぽくかけてきた誘いを、にべもなく断ると、冬夜は手元の紅茶を飲み干した。


「そんな事言わんと、なぁ? 夢見ちゃんからも何か言ったって」


「や! りょーりちょーは、うちのりょーりちょーだよ!」


話を向けられた夢見はしかしきっぱりと断ると、冬夜の腕にしがみついた。


「おー! 愛されとるな、りょーりちょーさん? あだっ!?」


京花にデコピンを一発くれて黙らせる。何となくムカついての事だった。

額を押さえて仰反る彼女の姿に、日頃の溜飲が下がった気がして少しだけ気が晴れた。

京花に一発かましている間も、夢見はにこにこと笑いながら腕にしがみついたままである。このまま引っ付かれるのは邪魔な事この上ないが、かといってあまりに楽しそうに笑う彼女を無理に引き離すのも気が引けて、どうしたものかと黙っていると、


「そういや、冬夜はいつまでこの町にいるんだ?」


その一言に、息が詰まった。

冬夜は所詮、雇われ者である。いつまでこの地にいるのかは定かではないが、一件にかたがつき次第、それこそ明日にでも彼らの目の前から姿を消す存在である。

それは彼自身が十分に理解しているはずの事だった。


「あー、いや、それは……」


返答に困って口ごもり、次の瞬間戦慄が身を震わせた。

本当ならばここは適当な事を言って誤魔化すべきところである。それが何故かとっさに出来なかった。さっきの一瞬も、息を飲む必要などどこにもなかった。

桜や夢見、彬との関係は相手がどう思おうとも冬夜にとってはビジネス上の付き合いでしかないはずなのに、受け流す事が出来なかった。

あくまで仕事。私情を交えればそれは目を曇らせるだけ。そう分かっているのに、この仕事の中にいつの間にか私情を持ち込んでいる自分の存在があった。昨日の京花との会話でも感じ、一瞬の油断と恥じるに留めたそれは、いよいよ恥などという生易しい物ではなくなっていた。それがたまらなく恐ろしかった。


「そういえば、門司さんも期間の事は言ってなかったね。その辺はどうなってるの?」


「それは、まぁ、微妙なところなんだよな。次の職場が決まるまで、ってところか」


気を取り直して、彼はさらりと嘘をつく。否、完全に嘘という訳ではない

上の判断にもよるが、今の冬夜には手に負えないとなればこの一件から冬夜が外され、別の適任者が派遣される事も十分に考えられる事だった。それはプロとして恥ずべき事なのかもしれないし、冬夜個人としてもやりかけの仕事を投げ出すのは好ましくはないが、それはそれで有りだとも考えていた。

あいにくとこの職に誇りを持っている訳ではないのだ。

それに個人の好悪で出来ない事を続けるのは決して良い事ではない。出来ない事を延々と悩み続けてもそれは非効率である。それならば、出来ないと分かった時点で適任の者に任せて手早く解決をした方がこちらにも依頼人にも都合が良い。


「そっか……じゃあ、次にいい仕事が決まらなかったら、うちでずっと雇ってあげるね」


「え?」


桜がそういって向けた笑顔に冬夜は目を丸く見開いた。野に咲く春の花を思わせる、優しく暖かな笑みだった。思わず目を奪われてしまうくらい、美しい微笑みだった。


「もし、冬夜くんが嫌じゃなければなんだけどね。夢も私も、冬夜くんの事気に入ってるから。門司さんには私から言っておくよ?」


「お、それ良いな。折角仲良くなれたんだ、ここでお別れっていうのも寂しいじゃんか」


「……」


冬夜は何か言おうとして、しかし適当な言葉が見つからずに黙り込んでしまう。

曖昧な言葉や嘘で流すのは容易い事のはずだった。今までもそうしてきたし、そしてこれからもそうやって生きていくものだと思っていた。

彼らの言葉は、ずっと影に闇に生きてきた彼には眩しすぎて、今までのようにする事が出来なかった。


「ちょい待ち! 先に粉かけたんはあたしや。とーや君はうちの店で共同経営者としてばりばり働いてもらうんや」


「お前のとこで働くのだけはゴメンだな」


「即答? 酷ない!?」


ショックを受けたように騒ぎ出す京花を鼻で笑って、冬夜はふと自分たちの周りを囲む森に目を向けた。

思ったよりも森は濃い。冬の寒さに乾ききった木が多い一方で、芽吹きが始まった木々からは生まれたばかりの暖かな生命力が溢れてくるようだ。これから先それはもっと強くなるのだろう。これから花が咲き、緑が一面を覆い尽くす。そして山は赤く色づいて、やがてまた静寂が支配する。想像してみても、なかなか見ごたえのありそうな景色だった。

生まれ、栄え、老い、絶え、そして再び生まれる。それは当たり前のサイクルであり、自然なあり方のはずだ。だが、そんなありふれた流れに人は何故感動を覚えるのだろうか。


「ん?」


らしくもない考えを巡らしていた時、冬夜は木立の間に奇妙な物を見つけて声をあげた。


「どうしたの?」


「いや……何だ、あれ?」


彼の目線の先にあったのは、古びた碑のようなものだった。

ずいぶんと手入れされていないのか、周りには草や細木が生えている。碑自体も苔むしており、山と一体化していた。苔が剥がれたところから石の部分が見えていなければ、なんの変哲もない風景の一部として見逃してしまいそうだった。


「ん? あぁ、あれか。何か昔ここにえらいお坊さんが来たとか来なかったとかで、記念に建てたらしいな」


「えらい坊さん? その割には対して手入れもされてないし、荒れてるようだが」


「ただの伝説だよ。大した建物がある訳でもないから観光地化が出来るわけでもないし、俺が子供の頃からこんな感じだったみたいだぜ」


「へぇ……」


頷いてはみせたが、どこか引っかかる物を感じて内心首を捻る。

何もなしに、わざわざ碑など作るものだろうか?

それに訪れた坊主というのも妙な胸騒ぎを感じる要因だった。旅の僧侶、あるいは修験者によって調伏された魔の伝説というものは数多く存在する。そしてそれらが既に伝える者が絶えて今の世に伝わっていない事も事例としては少なくないのだ。

もし仮にこの地に何かそういった伝説があったとしたら?

そういった考えが、一瞬の内に彼の脳内を駆け巡った。


「逸話とかも、残ってないのか?」


「まぁな……少なくとも俺は知らないな」


「あ、待って。私知ってるよ?」


首を傾げる彬に代わって、桜が問に答えた。


「さっき彬くんも言ってたけど、昔、ここに旅のお坊さんが来たの。それで、ある魔法を使ったんだって」


「魔法?」


「うん。魔法……っていうのかな? お坊さんだから、本当は違うのかもしれないけど。それで、お坊さんは、人を生き返らせようとしたんだって」


「何!?」


思わず声を荒げていた。

あまりの声量に京花も含めた全員が体をびくりと震わせて驚きの視線を冬夜に向けた。


「いや、すまん。何でもない。続けてくれ」


わざとらしく咳払いを一つ、話の先を促す。

大して期待していなかった分、桜の話は出だしから衝撃的だった。魔に携わる者として、決して聞き逃せない単語がその短い話の中には含まれていた。


「うん。で、そのお坊さんは秘密の薬を使って、死んじゃった人を生き返らせたんだって。その相手はお付きの人だとか、お坊さんになる前に片思いしてた相手とか、色々言われてるけど詳しいことはもう分かんない。……でも、それは失敗しちゃったんだって」


「失敗?」


「そう。結局その人は生き返らなくて、人の儚さを知ったお坊さんはその人を、荒れ果てて草一本生えていない岩山に埋めたの。その時に建てたのが、あの碑」


「碑じゃなくて墓だろう、それは」


「そうなんだけど……そのお坊さんが、自分の行いを悔いてお墓じゃなくて碑にしたんだって。この後悔を忘れないように、って」


桜はそこでひと呼吸いれて、


「そのお墓の周りからは色んな草や木が生えてきて、不毛だった岩山は瞬く間に緑豊かになって、いつしか春には綺麗な花が咲き誇る里山に変わりました。……っていうお話」


そう彼女は話を締めくくった。


「つまりその岩山っていうのが……」


「うん。この山の事」


再び、冬夜は周囲の様子を伺った。とてもではないが、この地が、元は岩山であったようには見えなかった。伝説はあくまで伝説に過ぎないという事なのか。それとも……


「へぇ、そんな伝説があったのか」


彬が目を丸くするが、そんな彼を睨むように見て、


「もう! 彬くん、この町の人でしょ? 何で知らないの?」


「いや、そういうのあんまり興味なくてな」


からからと笑って、彬はおどけて頭を掻いた。

冬夜は彼らのそんな様子に構わずに、そっと夢見を引き離すと、一人立ち上がって森の中に足を踏み入れる。

かさり、と。乾いた落ち葉を踏みしめる音がする。落ち葉の下にある土は柔らかく、足が僅かに沈み込んだ。ゆっくりと地面を踏みしめ、細枝をかいくぐり、彼は碑に近づく。

指先でそっと表面を覆う苔をはがすと、彼は表面に目を走らせた。だが、長年風雨にさらされ続けたであろうそれは、掠れていて、かろうじて表面に何かしらの文字が掘られていた事が分かるだけだった。

桜の語った情報以上の物は得られず、小さく舌打ちを一つ。汚れた手をコートで拭おうとして、冬夜ははっとしたようにその指先を見つめた。


「―まさか、」


「おーい、どうした、冬夜?」


彬が冬夜を呼ぶ声が聞こえた。

振り返って見れば、彬と桜、夢見までもがきょとんとした顔で冬夜の事を見つめていた。


「どうしたんだ?」


「いや、何でもない。すまない」


彼らに答えると、冬夜はそっと指先についた泥と苔をハンカチに包んでポケットに押し込む。そしてそのまま、何事もなかったかの如く皆のところに戻っていく。だが、彼の心の内には黒い雲がかかっていた。

嫌な予感が、拭いきれない不安が、彼の心にカビのようにこびりついていた。

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