第14話 死食鬼の餌場

そしてまた時間は流れる。

昨晩は彬も交えて、いつもよりも賑やかな夕食となった。彬と桜、夢見に冬夜、そこに門司まで加わって、何気ない話をするのは思いのほか楽しく、時間が流れるのがひどく速く感じられた。気がついた時には午後九時を回っていた。

翌日が学校でなければ泊まっていきたかったのにとは、彬の談である。

彬を見送り、夢見、桜、門司と、それぞれが就寝した後に、冬夜は日課となった家の周囲の警戒を行ったのだが、その結果はまたしても空振りに終わった。

夜の間に近づいてくる気配はなく、張り巡らせてある結界に何かがかかった形跡もない。

これには冬夜も首をひねるばかりであった。

いくら散々に叩きのめされたとはいえ、滅びてはいない以上、次の襲撃は間違いなく近日中にあると考えていた。

相手が一色家に仇なすものであるのなら、諦めたという線は薄い。知能が高い、高位の化物であるのならば、冬夜の実力を恐れて様子見に徹しているとも考えられる。だが、今回の相手は、見た限りではそこまで知能が高い存在とは思えなかった。

相手が何者なのかよりも、今はその動きが一切読めないことが不気味だった。。


「ふあッ……」


噛み殺しきれずにあくびを一つ。思えば前回街に出た時も欠伸が止まらなかったな、などととりとめもない事を考えながら、冬夜は人ごみの中、ゆったりと足を進める。

時刻は午後三時を過ぎた頃。街を行く今日の彼の目的は買い物ではない。京花から預かったノートの情報を自分なりに整理し、目星を点けた事象の調査である。

春を感じさせる陽気に耐え兼ねてか、前を開けたコートをひらひらと揺らめかせながら、彼は人ごみに逆行するかのように街の中心を離れていく。そのまま十五分は歩いた頃だろうか、やがて彼は町外れの廃ビルにたどり着いた。

周囲にはいくつかの建物が見受けられるが、いずれも寂れて人が住んでいる様子がない。どころか、この周辺に人の気配が感じられない。少し離れただけだというのに、街の中心と離れとでこんなにも差があるものなのかと、少し面食らってしまった。

周囲を見渡して人の目がないことを確認すると、彼はビルの裏口に回ってドアノブに手をかけた。鍵が空いているなどと期待はしていなかった。力づくでこじ開けて入るつもりでいたが、予想に反して扉はあっけなく開いた。

建物の中は当然の事ながら暗く、長らく放置されていたのか足元には埃が積もっている。ゴミがあちこちに散らばり、おまけにカビ臭い。中に踏み入ると、彼はコートのポケットから取り出した懐中電灯のスイッチを入れる。小型ではあるが強力なライトである。白い光で照らしながら、彼は慎重に進み始めた。仮に建物の中に何者かがいた場合、こちらに感づかれるのではと、一瞬、ライトを点ける事を戸惑ったが、それよりも足元の安全を優先することにした。いくら夜目が利くとは言っても、こうも足元の状態が悪いと、なまじ中途半端に見える分、いざという時には逆に危ない。

一階の部屋という部屋を開けて中の状況を確認していく中で、彼は肌にピリピリとした物を感じていた。カビに混じって嫌な匂いがする。

それは霊的なものだけではなく、実際に嗅覚に訴えかけてくるものも含まれていた。

その匂いには覚えがある。何度経験しても慣れることのない、嫌な匂いだった。

一階フロアの探索を終えた彼は、匂いを負って地下へと続く階段を降りていく。窓から差し込む僅かな光さえもなくなって、一歩進む事に深い闇が体を包んでいく。ライトの光で闇を切り裂きながら進むうちに、彼は一際頑丈そうな鉄の扉の前に立った。

ためらいなく取っ手に手をかけると、軋む音をたててそれは開いた。


「くっ……」


息が詰まった。先ほどから感じていた腐臭がひどく立ち込めていた。

ここはかつての機械室なのか、いくつものポンプが見て取れる。光条をスライドさせていくうちに、冬夜は匂いの元であろうそれを光で照らし出して、思わず顔をしかめた。

吐き気がした。

口の中に粘っこい唾液が広がってくる。思わず踵を返したくなるような光景だった。

それでも彼はあえて腐臭の中にありながら深呼吸をし、唾を無理矢理に飲み込むと、それに向かっていった。

それは、無数の動物の死骸だった。

犬や猫、ネズミまで、大小様々な動物の死骸が、無数に積み上げられていた。

何が何やら分からなくなったそれに近づいて調べてみれば、それらはどれもこれも大きな傷を受けているのが分かる。どうやら彼らの命を奪ったらしいそれをじっくり見つめて冬夜は鋭い目をさらに釣り上げた。

どれもこれも、その体を食われていた。脇腹から臓物を食い尽くされているもの、頭蓋が割られ、中身が貪られているもの、首筋を一口かじられただけのもの……被害はそれぞれだったが、確かにこれは何者かが食事をした痕だった。

季節がもう少し進んでいれば、ビルの外まで匂いが漏れ出てもおかしくないような量、しかし驚くべきはそれらが比較的最近になって積み上げられたものであるという事実だった。腐敗の度合いはそこまで進んではいない。いくつかはまだ腐敗が起きておらず、つい数日の間にここに持ち込まれたものであると知れた。


「ひどいな……」


掛けられた声に驚いた様子もなく、冬夜はそっと振り返る。

気配を消した何者かが階段を降りてくるのを、彼の五感は既に感知していた。


「京花」


短く、確認するように彼は彼女の名前を呼んだ。

ライトの光に、眩しそうにしながら彼女は口元を吊り上げて、


「や、とーやくん。こんなとこで会うなんて奇遇やね。……年頃の男女が逢引するにはちっと不向きなようやけどね」


茶化すような調子で彼女は言うが、その顔は蒼白で、引き攣った表情では笑みを浮かべることも出来ていなかった。口元をハンカチで抑えながら、それでも目をそらすことなく死骸の山を直視しているあたりは大したものだ。


「化物の餌場ってとこ? それにしても……ぎょーさん食い散らかしてくれたなぁ……」


霊的な物は基本的に摂食を必要とはしないが、今回の相手のような実体を持つ者の中には何かを食べる、吸収するなどしなければ体を保てない物が少なからずいる。

例をあげるとするならば、吸血鬼の吸血や死食鬼の死体食いの習性などがあるだろう。


「情報を総合した結果、ここにたどり着いた」


依頼を受けた際に門司も言っていた。

一色家の変事に伴い、飼い犬や飼い猫が突然失踪を遂げる事件が相次いだと。そしてそれは京花のノートにも新聞のスクラップと共に書き込まれていた情報だった。

恐らくは転売を狙った輩による事件だろうとは、警察の見解である。だが実際のところ、その答えは今彼らの眼前に広がる光景であった。


「うちも、似たようなもんやな……もっとも、ここに来たのはさっき外でたまたまとーやくんの姿見かけたから追っかけてみただけなんやけど」


京花のノートには犬猫が消えた場所や日付までが克明に記されていた。その場所を辿るうちに、死骸がこれまで一匹も見つかってはいない事を疑問に思った冬夜は、何者かがそれらを攫ったものと仮定を立てたのだ。そして、被害の起きた場所からそう遠くない位置にある、人気のない建物を探るうちに、ここにたどり着いたのだった。


「これを見てみろ」


冬夜はそう言って手近な市街の傷跡にライトの光を向けた。

京花は嫌そうな顔を隠そうともせず、それでもその傷を覗き込んで、目の色を変えた。


「人間の、歯型……ッ!」


動物達の死骸には、どれもこれも人間のものにしか見えない歯型が残されていた。


「死食鬼の類かいな?」


嫌な汗を流しながら、京花は尋ねる。それに小さく冬夜は頷いて、


「可能性は、高い。そもそも、オレがこの地に来たのは墓を荒らす正体不明の化物を滅ぼすためだった」


死食鬼。すなわちグールの事である。ゾンビと混同される事もある化物で、地方によってその習性はおろか名前さえも違って伝えられているが、それはすなわち似たような存在が亜種の如く存在することを示していた。様々な差異はあれど、それらは主に死体を好んで喰らい、時には人間を襲うともされている。


「だが……」


「何や、ひっかかるとこでもあるんかいな?」


「あの化物、明らかに素体は人間だ」


「そりゃ、見りゃ分かるやろ? それが……」


京花は首を傾げ、やがてはっと気がついたように死骸の山に目を向けた。


「所詮、例外だらけの化物共の事だ。これも例外の一つだと言われてしまえばそこまでだろう。だが、基本的に奴らが肉を喰う訳は」


それ以上先を、冬夜は敢えて口にしなかった。

ごくり、と。京花が唾を飲み込む音が聞こえたような気がした。

死を拒絶し生にしがみつく。道理に反したそのあり方は、いくつもの歪みを生み出す。

その最たるものには肉体の崩壊が挙げられる。

本来ならば彼岸に属するはずのモノが此岸に存在する。生命を偽ったとて所詮は紛い物の命なれば、肉体は絶えず腐れ落ちる危機にさらされ続ける。死食鬼が他者の肉を喰らうのは、仮初の命を僅かでもこの世に留めようとするためであった。

身体を支えるためには代替の肉が必要なのだ。二人の前に広がる惨状はその為である。

そして、体の維持に必要な肉は別の生き物のものよりも、自分と同じ物であるのならば都合が良いのだ。


「死食鬼は、生前の同族を喰らう」


死臭に満ちた闇の中、冬夜の錆びた声が響いた。


「だが、ここには人間の死体はない」


「……そんなん、ここにないだけで、別んとこにあるんとちゃうんか?」


「無論、ありえる話だ。……しかし、どこか腑に落ちない」


頷いて、冬夜は小さく息をついて瞳を閉じた。まとまらない思考をまとめようとしての事か、しばらくそうしていたかと思うと、徐に彼はポケットからタバコを取り出した。


「何するん?」


京花の問いかけには答えずに、冬夜はタバコに火を付けて死骸の山に向けて放り投げた。

間もなく消えるかと思われたそれは、しかし彼の手を離れた後も変わらず、彼の手にあった時よりも勢いよく煙を吹き上げた。

腐臭の中に燻したような匂いが混ざり、やがてそれは部屋の禍々しく重苦しい空気を塗りつぶしていく。


「こいつらを弔ってやりたいが今は……時間がない。せめて、場を清めてやりたい」


聞こえるか聞こえないか、そんな小さな声で呟いて、再び彼は瞳を閉じ、項垂れた。

それは物言わぬ屍達に黙祷を捧げているのだった。


「……随分、殊勝やな」


そんな少年を見つめながら、京花も小さく呟く。

冬夜の見せたそれは、思いやりなのだろう。だがそれはこの業界では、甘さに他ならない。敵に見られればすぐにでもつけ込まれる類のもので、決して人前で、ましてや敵地で見せるべきものではない。

だが、彼女の言葉は呆れたようではあったが、しかし嘲るような調子ではなかった。

その甘さを嘲笑うには、京花もまだ甘すぎた。


「こんなもの、ただの自己満足だ。生者が死者にしてやれることなんて何も無い」


だから、こんなものは無意味だ。

そう言わんばかりに吐き捨てた冬夜の言葉は重く、冷たく、乾いていた。

無意味だと分かっていながらも、彼がそうしたのは何故なのか。それを彼女は問う事はしなかった。

二人はそのまま黙り込む。気がつけば京花も目を閉じて頭を垂れていた。弔いというにはあまりにお粗末で、しかし、自己満足と言って捨てられる光景ではなかった。

やがて、二人はどちらからともなく頭を上げる。いつまでも死者のために時間を割くわけにはいかなかった。


「むッ!?」


その時だった。僅かな衣擦れの音が部屋の奥から聞こえたのは。

懐中電灯をそちらに向けるが、それよりも相手の行動の方が早かった。一抱えもありそうな塊が冬夜めがけて飛んできた。それを打ち払うべく咄嗟に手を振った事で光条はあらぬ方向に向かってしまう。

水気を含んだ、ぐにゃりとした嫌な感触が腕に伝わる。投げつけられた物は部屋に無数にある生き物の死骸の一つだった。

薄明かりの中、それが猛スピードで駆けるのが目の端に移った。両腕を必死に振りながら、それは二人の横をすり抜けて、扉をくぐり、階段を駆け上がっていく。

電灯を使ったのが災いした。闇に慣れていない目ではその姿を明確に捉えきれなかった。


「京花!」


「分かっとる!」


名を呼んだ時、既に彼女は動き出していた。

相手の影を負って走り出した彼女に、半拍遅れて冬夜も追いすがる。1階に上がり、外に逃げ出すかと思われたそれは、しかし二人の予想を裏切って更に上の階へと上っていく。

次々に階を超えて行き、ついに相手は五階で階段を飛び出し、手近な部屋に飛び込んだ。

かつてはオフィスだったのだろう。埃まみれになったカーペットに、取り残されたいくつかの机が置かれたままの開けた部屋の中、それは窓を背にして立っていた。


「ついに観念したってとこかいな?」


「ここで決着をつけるつもりだろうな」


京花に続き、冬夜も部屋に駆け込み、身構える。

窓から差し込む逆光の中、それは赤黒い瞳で二人を睨みつけ、獣の唸り声をあげていた。

人の形をした、人では有り得ないモノ。

ズタズタの体は先日墓場で対峙した時に比べいくらかはマシになっている。骨と皮ばかりで、向こう側が透けて見えそうだった体には薄ピンクの肉がむき出しのままついている。

人体模型を想像させる、不気味な怪物がそこにいた。

化物に片腕はない。前回の戦いで冬夜に吹き飛ばされ、まだ再生が間に合っていないのだった。

無言のまま構える冬夜を、しかし京花が手で制して半歩前に出る。


「おい」


「まぁ待ちや。この前のお詫びや。ここはおねーさんに任してもらえん?」


言いながら、京花は冬夜に目を向けることもなく化物に歩み寄っていく。

構えるでもなく、ごく自然な、無防備にさえ見える足取りだった。


「前の時はあたしがちゃちゃ入れてもうた所為で逃げられた訳やし。ちょっとは責任感じ取るんよ? だから、」


場の空気が張り詰めた。京花の体から放たれた殺気がこの部屋を満たしたのだった。

ゆらり、と。彼女の体が僅かに揺れる。


「任せた」


冬夜が一言、許可を出すよりも先に彼女は動いた。だらりと垂らしていた腕が閃いて、銀光が放たれた。そう思った瞬間には、化物の胸の真ん中に小さな刃物が生えていた。

手裏剣の直撃によるダメージか、それとも不意の一撃に反応が遅れたのか、化物が一瞬硬直する。その隙を見逃さず、彼女は一息で距離を詰めていた。

右足が跳ね上がる。

つま先が化物の顎を蹴り上げた。冬夜との戦いで見せた前蹴り……しかし、あの時は加減をしていたのだろう、今の彼女の技は、あの時と比べ物にならない程に鋭く、速い。

常人ならば顎の骨を蹴り砕かれていてもおかしくない、そんな一撃だった。

細身で、一見して華奢にさえ見える彼女だが、女性にしては身長がある。冬夜よりも五センチは高いだろう。まるでモデルのような均整のとれたプロポーションの持ち主だった。

その分、脚も長い。蹴りのリーチは冬夜を遥かに上回っている。そして、何より、彼女の持つ女性特有の柔軟性は冬夜にはないものだった。長い脚を自在に振るって放たれる蹴りは、とても真似出来そうになかった。


「よっと!」


突き抜ける衝撃に体を仰け反らせながら、化物は苦し紛れに腕を振るった。

片方しかない腕では、幾分攻撃にキレがない。だが、万全の状態において墓石を抉る怪力をもつそれである。片腕であっても、人一人を屠るには十分すぎる威力を持っている。

目にも止まらぬ速さで薙ぎ払われた腕を、蹴り脚が地面に戻るとすぐに、京花は危なげもなくバックステップで躱してみせた。

彼女の顔にはうっすらと笑みすら浮かんでいる。この状況を楽しんでいるのだ。

顔の前を爪の先が通過するのを見終えると、再び彼女は踏み込んだ。

先ほどよりも深い。彼女の脚技が逆に不利にさえ思える距離だ。


「ほぅ……」


冬夜は思わず感嘆の声を上げずにはいられなかった。

懐に踏み込んだ彼女は、今度は膝を相手の鳩尾のあたりにぶちこんだのだ。

間合いの取り方が絶妙だった。次の相手の動きを完全に把握し、利用し、己の術中にはめていく。

見事な連携技だった。

体をくの字に曲げて、化物がよろめいた。生じた大きな隙を、彼女は見逃さなかった。

京花の口元が吊り上がるのが見えた。決めにいくつもりなのだろう。彼女の顔に浮かぶのは、凄惨な笑みだった。己の全力を出す事を、技を思うままに振るう事を楽しんでいるのがひと目で分かる、獣の笑みだった。


「ひゅッ!」


彼女の息吹が、木枯らしに似た音を立てる。その瞬間に目にも止まらぬ速さで彼女の右足が跳ねあがった。

上段前回し蹴り。

冬夜をもってしても目で追うのがやっとだった。右足で繰り出された右のつま先の先端が、化物の側頭部を捕らえた。そう思った時には京花の体がその場で旋回し、左の踵が寸分違わずに先の一撃と同じ場所を蹴り抜いていた。

何が起こったのか、気がつくことが出来たのは化物が首を不自然な方向に曲げて床に倒れ伏した時だった。

最初の回し蹴りから、後ろ回し蹴りへの接続。一撃目から相手がよろめく間すら与えずに二撃目を見舞う、疾さと正確性を備えた蹴り。さながら芸術と呼べる程に洗練された技。

ぞわり、と。身の内から湧き出す物があった。全身が総毛立つ、凄まじい感覚だった。

それは、京花の技への感動と、恐怖が入り混じったものだった。


「ふぅ。まぁ、こんなもんかな?」


両手をぱんぱんと叩いて、京花は一息をつく。先程までの獣の笑みはそこにはなかった。


「見事だ」


それしか言う事は出来なかった。

それほどまでに見事な体術だった。


「もうちょい褒めてくれてもええんやない?」


彼女は不服そうに頬を膨らませるが、冬夜はそれ以上何も言わず、化物に近づく。


「滅ぼしたのか?」


「さぁ? 首の骨折ったから、人間なら即死やろうけど、この手の化物は不死性高いからなぁ」


用心深く化物を覗き込む。

まだ息があるのか、それは小刻みに震えていた。首が右側に不自然な角度で曲がっている。彼女言うとおり、骨がへし折れていた。


「前に見たときよりも、人間に近づいているな」


以前に比べ明らかに肉のついた体を観察して、冬夜が眉を潜めた。

最初に滅ぼした個体も、先日取り逃がした際のこの個体も、かろうじて人の形をしているだけの何かだったが、今目の前にいるモノはそれらに比べれば遥かに人間に近い。

どうやらこの化物は成長をしているらしかった。


「このまま放っといたらどこまで人間に近くなるんか、ちと興味でてくるなぁ?」


「笑えない冗談だ」


からかうような京花の台詞に、冬夜は吐き捨てるように答えた。

本当に、冗談では済まされない事だった。

口では面白そうにしているが、京花も既に笑ってはいない。事態の深刻さに彼女も気づいているのだ。

人を襲う獰猛性は最初の戦いで確認している。とても一般人では対処が出来ない。

それでも、今はまだ良い。闇に潜んで獣の肉を喰っている今のうちならばまだ、少なくとも人への危険性は少ないだろう。

だが、このまま行けば人の肉の味を覚えるのは時間の問題だ。

今の時点でも獲物を隠すだけの知能があるのも非常に厄介なところだった。人を喰らう化物が、街の中に人の姿で隠れ潜む……想像するのも嫌になる展開が脳裏をちらついた。


「こいつどうするん?」


京花は、まだ痙攣を続けている化物を軽く蹴飛ばして仰向けにしてみせた。

折れ曲がった首のまま、化物は双眸に赤黒い光を湛えたまま二人を睨みつける。

かたかたと、歯がなる音がする。今にも食いつかんばかりの凶相だった。

内にある憎悪が、そのまま形になったような顔だった。


「……滅ぼす。今、この場で」


僅かな沈黙の後、冬夜はそう判断を下して、自らを睨みつけるそれと目を合わせた。

化物に劣らず、深く重い、殺意のこもった目だった。


「ええの? 折角生け捕りにしたんやし、調べれば色々分かるんとちゃう?」


「調べるにしても時間がかかる。術を自力で振りほどいて逃げる奴だ。今の装備では縛り付けておくにもリスクの方が大きすぎる」


呪符を一枚、指に挟んで取り出す。先日注文したにも関わらず、一向に届く気配のない呪具は残りわずかとなっていた。呼吸と共に練り上げた魔力を紙きれに流し込もうとしたその時、京花が何も言わずに、横たわったままの化物の胸のあたりを踏みつけた。


「何を……」


何をするのかと、そう問いかけようとして冬夜は目を見開いた。

化物が口を大きく広げていた。真っ赤な口内が光の下にさらけ出される。喉はおろか、その奥までをもさらけ出さんばかりに開かれたそこから、半拍遅れて絶叫が迸った。

断末魔と、そう呼ぶ以外にない、目を背けたくなるような叫び声だった。

バタバタと、片方しかない腕で虚空を掻く。溢れ落ちんばかりに、目が見開かれている。

どこに手を伸ばしているのか。どこを見ているのか。何を掴もうとし、何を見ようとするのか。それは未来では決してありえない。その証左と言うように、その手は地に落ちた。それでも必死に床を這う指先が、カーペットを掻きむしって嫌な音を立て、やがて手の動きは止まった。その骨ばった手の中には何も握られてはいなかった。

ごろり、と。

冬夜達の見ている前で、化物の片方の眼球が眼窩から落ちた。転がる中で瞳は規則的に天井と床を往復して止まった。濁りきったその目が最後に写したものがなんであったのか、それは誰にも分からない。


「……後味、最悪や」


ぺっ、と唾を吐き捨てて、苦々しげに京花は化物に乗せた足を下ろす。途端、支えを失ったかのように化物の体が崩れ始めた。

それは肉が腐り溶けていくようにも、砂山が潰れていくようにも見えた。

二人の見ている前で、化物だったそれは、間もなく灰とヘドロの混じったような、どろりとした水溜りへと姿を変えていた。

むせ返りそうな、耐え難い匂いに閉口しながら冬夜は京花に向き直る。


「何をした?」


「別にたいした事はしとらんで」


そう言って、彼女は嫌そうに汚泥の中に突き立っていたそれを指先で拾い上げた。

一本の手裏剣だった。


「最初に心臓の真上くらいに打ち込んだんやけど、刺さりが甘かったようやからな。きちんと心臓まで食い込ませてやったんよ」


「心臓だと?」


「そや。アンデッド系の化物の殺し方は知っとるよな? ドタマかち割る、喉元掻っ切る。それから心の臓に一撃。それを試したんや」


「それはそうだが……」


彼女の言うのは不死者を倒す代表的な手法だった。

だが、心臓を……胸を貫いても滅ぼしきれない事は前の個体で実証済みである。それを冬夜の微妙な様子から察したのか、


「ん? もしかしてもう試してたん?」


「あぁ。胸を思い切りブチ抜いてやったが、滅ぼしきれなかった」


「乱暴やな。まぁその話は置いといて、こっから先は個人的な見解なんやけど」


そう前置いて、


「不死系に限らず、人がベースになってる化物には明確な“死”を与えてやるんが有効らしいんよ」


「明確な、“死”?」


「そや。頭といい、首といい、心臓といい、どれもこれもやられたら基本的に一発即死やろ? ここをやられたらあかん死ぬ……っていうポイントやな。そういう所をピンポイントで狙ってやるのが効果的なようやね」


「なら、首の骨をへし折ったのも有効なはずだが?」


「んー……認識の問題のようや。首の骨折れた、っていうよりも心臓に穴空いたって方が致命傷感あるやん? 実際はともかく」


「それは……」


いささか強引な理論だったが、冬夜は頷いた。


「人ベースの化物っていうのは、どうしても人間の頃の常識? 認識? なんかそんな感じなのに引っ張られるらしくてな。人間の頃の、致命的な弱点だって認識出来てる場所つかれると弱いんよ。特に、自分が人間だって……人間だったって認識が強い相手は」


「待て。言いたい事は分かった。だが、答えになっていない。オレが聞きたいのは、この間胸を貫いても無事だったこの化物が、何で今になってそんな刃物で滅んだのかだ」


京花は溜息をついて、一瞬汚泥に目をやると、冬夜に向かって淡く微笑む。


「前に見たときよりも、人間に近づいている……そう言ったのはとーやくんやで」


息を飲む音が、静かな部屋の中でやけに響いた。

冬夜が言ったのはあくまで見かけの話に過ぎなかった。だが、彼女の見解が正しいとするのであれば、それはつまり認識が―内面までもが成長し、人に近づいている事の証明。

内面の成長とは即ち、知性さえも上がっていく可能性を示唆していた。


「ねぇ、とーやくん?」


淡い笑顔のまま、彼女は妙に穏やかな声を少年にかけた。


「何だ?」


「あたし、今、もっと怖い事気づいたんやけど、言ってええかな?」


「……何だ?」


「ほんまに言ってええ?」


「いいから早く言え」


歯に物が挟まったかのような、やけにまどろっこしい彼女の様子に、冬夜は首を傾げながらも、次の言葉を促した。


「地下室で見かけた人影、両腕、あらへんかった?」


「な……っ!?」


驚愕に身を強ばらせたのは、一瞬。

コートの裾を翻して、扉を蹴るように開けて階段を駆け下りる。もう手遅れであるとは知っていたが、それでも落ち着いているわけにはいかなかった。

ビルを飛び出し、左右に注意深く目を走らせる。いつの間にか傾いていた日の光が、街を赤く照らしていた。


「くそ……ッ」


目を閉じて、呼吸を整える。

神経を限界まで張り詰めさせ、周囲の気配を探ろうと試みるが、焦る気持ちが先行する今の精神状態ではそれさえも上手くいかなかった。

よしんば出来たところで、相手が索敵範囲外に逃れてしまっていては効果をなさない事は知っていたが、それでも何かをせずにはいられなかった。


「やめとき。時間と労力の無駄や」


ぽん、と。冬夜の肩に軽く手が乗せられた。


「さっき地下室におった時も、敵さんの気配感じ取れへんやったやろ?ただでさえ隠れんのが得意な奴や、もう、出来る事はあらへんよ」


「……ちッ」


彼女の言うとおりだった。

地下室で見た敵影は、確かに両腕がついていたが、今しがた滅ぼした敵は隻腕。追跡の途中で入れ替わった可能性が高い。おそらくそれは意図的なもので、仲間なのか、それともただの使い魔なのかは知らないが、先程の化物を囮に自身は逃走の一手を打ったのだ。

それほどの頭を持つ相手が、今更この辺りをうろうろしているとは考えにくかった。

何故、敵が一体だけと錯覚していたのか。己の迂闊さを心の底から呪いながら、大きく舌打ちを一つ。残り少なくなったタバコを咥え、火を点けた。


「おい」


「ん?」


と、一服しようとした彼の口元から、京花の伸ばした手がタバコを奪い取った。

にやにやと悪戯っ子のような笑みを浮かべて、彼女はそれを自分の口に持っていく。


「それはオレのだ」


「一本くらいえぇやん? たまにはおねーさんだって吸いたくなんねん」


そう言って彼女がタバコを咥えたのを見て、冬夜はまだ何か言いたそうだったが、諦めたのか新たな一本を取り出して火を点けた。


「んー……ッ! げほっ、げほッ!」


冬夜から奪い取ったタバコの煙を大きく一口吸いこむと、途端に京花は盛大にむせた。


「なんやねん、これ!?」


「何って……タバコだが?」


「こんな重いのどこで売ってん!? ……ってか臭ッ! おえっ」


余程不味かったのか涙さえ浮かべながら、彼女は恨みがましい目で睨みつけた。


「特注品だ」


答えて、冬夜は美味そうに紫煙を吐きだした。

その様子を若干引き気味に見ながら、京花はそれでも冬夜に配慮したのかもう一度煙を上げ続けるそれを口にした。


「で、どうする? 多分、」


「分かっている。恐らく奴はもうこの餌場には戻ってこないだろう」


タバコを指に挟んで、冬夜は天を仰ぎ見る。

二筋の煙が暖かな春夕焼けの空に浮かび上がっていくのが見えて、思わず手を伸ばしていた。だが煙は指先をすり抜けて霞んでいくのみ。何も掴む事は出来なかった。


「まずいな……」


「どうしたん?」


「飯の準備しなきゃならん」


既に夕食の準備をしなければならない時間になっている事に、空の赤さで気がついた。


「飯って……急に家庭的な話やな」


まだもくもくと煙を上げるタバコを踏み潰して、


「オレにとっては目下の大問題だ」


「そりゃそうや」


彼と同じようにタバコの始末をつけて、京花は一歩を踏み出す。奇しくもそれは冬夜が歩みだすのとタイミングを同じくしていた。


「どうせなら途中まで一緒に帰らへん?」


「……好きにしろ」


答えを了承ととったのか、京花は彼の横について歩き出す。

もっとも、冬夜としても無碍に断る理由はなかったのか特に嫌がる様子もない。しかし、悲しいかな二人が共に歩くには、歩幅に差があった。京花の方が背が高く、脚もその分長いため、並ぶには冬夜がいくぶん大股で歩くか忙しなく足を動かす必要があった。

間もなくしてそれに気がついた京花が彼に歩幅を合わせて歩くという、何とも情けない構図が出来上がる。


「とーやくんって料理上手いんやろ?」


「さぁな」


そっけなく不機嫌そうに返す。歩幅の事もあって本当に不機嫌なのかもしれなかったが、それが余計に情けない。本人も自覚があるのか眉間にこれ以上ないくらいに深いシワを寄せ、京花とは目も合わせようとしなかった。

そんな少年の様子を微笑ましげに見ながら、


「またまた。上手くなかったら料理人の真似事なんてやっとらんやろ? 桜ちゃんと彬が自慢しとったよ」


「桜はともかく、彬が?」


ふと、冬夜が足を止めて不思議そうに京花の顔を見る。


「そや。とーやくんと合流するちょい前に彬にあってな? 昨晩ご馳走になったそうやん」


「あぁ……いや、何で彬がそんな時間に? 学校はどうした?」


「ん? 桜ちゃんから聞いてへん? 今日学校終わるの早いらしいよ?」


「……初耳だ」


なおさら早く家に帰らなければならない理由が増えた。こんな時間まで家を出て歩いている事が分かってしまえば、彼女にいらない疑いを持たせる事になりかねない。別に悪いことをしている訳ではないが、彼女たちには内密に、というのが依頼人の意向なのだ。

門司が上手く取り直してくれているとは思うが、これまでの事を考えるとそれもあまり期待は出来そうになかった。


「ちょ、何で急に早足になんねん……そんでな、彬と話したんやけど、今度みんなでピクニックでもいかへん?」


「ピクニックだと?」


「そうそう。最近あったかくなってきたし、そろそろ桜……桜ちゃんやないで? 花の方や。桜の花も咲く頃やから、とーやくんの料理持ってみんなでわいわいしたら楽しいんちゃうかと思ってな。花見にいい場所があるんよ」


「花見、ね」


―果たして自分はその頃までこの地にいるのだろうか。

ふとそんな風に思った。

無論、その頃には桜や夢見、彬、そして京花と別れ、次の仕事に向かっている事が望ましい。今回この地に訪れたのは、永住するためでもなければ休暇でもなく、あくまで仕事なのだ。仕事はできる限り早く終わらせなければならない。

単に、業務上の問題だけではない。早く終わらせなければ、その先には要らない物を生じる事になる。それは、人の道を外れて生きる彼らには、致命的にさえなりかねない危険なものだった。

それが分かっているはずなのに、皆と花見をする景色を幻視して憧れにも似た感情を浮かべてしまった事がたまらなく悔しかった。


「考えておく」


長い沈黙の後に彼は短くそれだけを口にした。

気がつけば二人は既に街の中心部にまでたどり着いていた。通りの向こうには京花の経営する『カフェ・プランタン』の看板が人ごみ越しに見えていた。


「そんじゃ、あたしはこの辺で」


「あぁ」


「気ぃつけてな……なんて、とーやくんにはいらん心配やな」

手を振りながら通りを渡っていく京花を見ながら、冬夜もふと思いついたように小さく手を振ってみせた。彼にしては珍しいことだった。

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