第12話 心痛
「とーやくんは何でこんな因業な事しとるん?」
別れ際の一言が、まだ耳に残っていた。
京花の意図するところは実のところは別にあったらしい。仕事だから、と答えにならない答えを返した彼に満足していた。
冬夜にしてみれば何のことはない、答えに窮しただけの事であった。
―何でこんな因業な事しとるん?
頭の中、暗闇の奥から問いかける声が聞こえる。
何故、このような仕事をしているのか。
今回の仕事にあたって二十代と偽ってはいるが、彼は今年で十七になったばかりである。
もっとも、正確な生年月日など彼自身も知らないため、それが本当の年齢なのかさえも疑問は残るところではあった。否、それどころか、名前さえも本当のものではない。彼を構成し、形作る情報の一つ一つを改めていったならば、最後には本当の事など一つとして残らないのだろう。
ともかくとして、十七歳の少年が就く職としては払い屋などといういかがわしい物は甚だ不適切な事だった。
それは世間一般から見ての事だけでなく、この業界においてさえも珍しい事であった。
本来、この手の職……魔術に携わるものは家や一族単位で関わる事が多い。一色家もそうであったように、おそらくは京花でさえも何かしらの系譜にあるはずである。確かに、そういった家に生まれたものであるならば、彼と同じ年齢からこの職に就くことは珍しくはない。
何かの契機で一般の生活から足を踏み外し、魔道に足を踏み入れてしまう者もいるにはいるが、十代半ば程度で踏みいる者は極めて稀である。
冬夜の場合は、その極めて稀な部類だった。
彼の生まれは、ごく普通の一般家庭だったと、本人はそう聞いている。およそ、魔とは何の関係もない平凡な出自だったらしい。
彼は自分を生んだ男女の事を覚えてはいない。思い出そうにも、暗闇の中で一人泣いていた事が唯一の記憶である。だが、それはある意味では、生まれた時の記憶で間違いはないのかもしれないと、常々思っていた。
暗闇で生まれ、暗闇を糧に育ってきた。ならばこの身は暗闇の中で息付き、朽ち果てる……それが自然なことのようで、しかし―
「むっ……」
息苦しさを感じ、彼の意識は覚醒した。けれど瞼を開けてもそこに一切の光はなかった。
喉が無性に乾いていた。体中が火照っている。頭が痛い。沸騰寸前の血が頭に回っているかのような気分だった。
額に張り付く前髪をかきあげようと右腕を動かすと、ざぶり、と重い水の音が聞こえた。肩までつかる湯船の中に彼はいた。
どうやら入浴中に意識を失い眠り込んでしまっていたらしい。
普段ならばシャワーで済ませているのだが、今日は連日の仕事で疲れた体を癒すため、湯船に浸かったのだった。熱い湯に体が包まれると同時に、体が疲れと共に湯に溶けていった感覚は覚えている。それを最後にそのまま湯の中で深いまどろみに落ちたらしい。
湯船を脱し、シャワーを捻る。裸身を打つ冷たい水が、火照った体に心地良かった。
明かりのない暗がりの中にあって、驚くべき事に、彼は蛇口の位置はおろか、降り注ぐシャワーの水の一本一本さえその目に捉えていた。長年の訓練が、常人ばなれした暗視を可能としているのだった。
入浴時は明かりをなるべく消して、暗い中で済ませるのが習慣だった。
闇は幼い頃から慣れ親しんだ世界である。我ながら趣味の悪い事ではあると思うが、それでもその方が落ち着くのだから、こればかりはどうしようもない。誰かに迷惑をかけているわけではないのだから辞める道理はないと思っている。
冷水を浴びて、煮えていた血が冷めていくのと同時に、霞がかかったようにぼんやりしていた思考が平静を取り戻していく。考えるべき事、やらねばならぬ事は山積みであった。
この一件の根が深いとは、京花の談であり、それには冬夜もおおむね同じ意見だった。
彼女から渡されたノートは既に一読し、大体のところは頭に入っている。とはいえ、まだ情報の取捨選択は出来ていないため、もう一度吟味する必要はある。それに、そもそも彼女のもたらした情報を鵜呑みにするのは危険であった。彼女が何らかの意思を持って冬夜を誤った方向に導こうとしている可能性も否定は出来ないのだから。
そう、彼はまだ須田京花とう女の事を完全に信用したわけではない。
近辺に住む咒い師であり、一色桜、笹部彬と幼なじみで、この一件に興味関心を持っていた。さらにそこで一色家の変事を解決に訪れた冬夜と出会った……些か、話として出来すぎな気がしないでもない。単なる偶然と言われてしまえばそれまでだろう。だが、それが必然であったとしたならば。仮に彼女が一件の黒幕かそれに近しい者であるのならば、筋は通ってしまうのだ。
読めない女だった。飄々としてつかみ所がなく、どこまでが本気なのかが分からない。加えて実力も侮れない。今回は互いに小手調べ感覚だったから無傷ですんだようなものだ。もし真っ向からぶつかることがあるならば、いかに冬夜とて無傷で勝てる自信はない。
恐ろしい相手だった。
「……関係ないことだ」
シャワーを止めて、彼は小さく呟いた。
黒髪から冷たい雫を滴らせて、彼は目の前の鏡を見つめる。暗闇のなか、うすらぼんやりと浮かぶのは自身の姿。
鏡の向こうの自分は、感情の欠片もない瞳でこちらを睨みつけていた。
―それで良い。
仕事に私的な感情は必要ない。相手が誰であろうと関係はない。相手が何を考えていようと知ったことではない。自分はただ淡々と、与えられた事をこなすのみ。
冷淡に、機械的に。自身の有り様に迷いがないことを確認し、冬夜は浴室を後にした。
脱衣所との温度差に体が震え上がる。体を伝う水滴を拭き取って、下着を身に付けて黒いデニムパンツを履くと、もう一度、今度は脱衣所の鏡に未だ半裸の自分の体を写した。
鍛え抜かれ肉体だった。普段まとっているコートの上からでは分からないが、細身で小柄な彼の体躯に対して不自然な程に筋肉がついている。
そこに浮かぶ大小様様な引き攣れがある。それは傷跡だった。皮膚の変色であったり、肉が抉れた痕だったり、切り傷と思しきものから刺し傷、果てには銃創にしか見えないものまで、その数は数え切れない。凡そ、普通の十代の少年の体ではなかった。
魑魅魍魎と相対するためだけに十歳にも満たない頃から鍛え、そして今日この日まで戦い抜いてきた結果だった。
不意に、鏡越しに背後の扉が横にスライドするのが目に入った。驚いて振り返ると同時に、消したままだった照明が灯された。飛び込んできた光に目を細める。
脱衣所の入り口に桜と夢見の姉妹が立ったまま、冬夜の裸身を見つめて硬直していた。対する冬夜もまた彼女達を見たまま固まっていた。
僅か数秒にも満たない、彼らにとっては長すぎる凍りついた時間を経て、
「きゃっ! ご、ごめんなさい! 入ってないと思ってました」
「すまない。電気を消していた」
悲鳴を上げて桜が閉めた扉に、冬夜はいつも通りの冷静な声をかける。台詞はともかく、彼もまた心中穏やかではなかった。その証拠に、声が僅かに震え上ずっている。扉越しでなければ桜たちもそれに気がつくことが出来ただろう。
「間もなく出る。少し待ってくれ」
「はい!」
返事が返ってくるのと同じくしてぱたぱたと遠ざかっていく足音が聞こえた。
扉の向こうに誰の気配もなくなった事を感じて、冬夜は深く溜息をついた。
ここ最近、慣れない事の連続でどうも調子が出ない。折角風呂で疲れをとったばかりだと言うのに、何故だか妙に疲れが両肩にのしかかってくる気がした。
白いボタンダウンのシャツを着て、タオルを首から下げたままリビングに向かう。
バラエティ番組の映るテレビからはタレントの笑い声が響いていた。部屋の片隅に設置されたソファには桜が座り、その膝に顔を埋めるようにして夢見がうずくまっている。
「すまない。今風呂を……」
桜たちに声をかけようとして、冬夜は最後まで言うことなく眉をひそめた。
二人の様子がおかしかった。桜は夢見を困ったような表情で見つめ、その頭を撫で、夢見は姉の膝に伏せたまま、小刻みに震えていた。
泣いているのか?
そう思い、冬夜は足を止める。耳をすませば確かに嗚咽をこらえるような小さな声が聞こえて来る。
「……どうした?」
訝しみながら冬夜はおずおずと前に一歩踏み出して、夢見に声をかける。
どこか怪我でもしたのだろうか。それとも何か悲しいことでもあったのだろうか。
「りょーりちょー!」
「ぬッ!?」
冬夜の問いかけに返事はなく、代わりに夢見は桜のもとから立ち上がるなり彼の体に思い切り体当たりをしてきた。
驚きながらも、冬夜はとっさに夢見の体を受け止めた。身長の差があるため、勢い余った夢見の額が彼の腹に思い切りぶち当たって、変な声がでた。
「ど、どうした?」
腰に手を回して抱きついてくる夢見を引き剥がそうとして、しかしいくらなんでもそれは出来ず冬夜は両手を軽く持ち上げたまま目を白黒させるしかなかった。
―これはどういう状況だ?
助けを求めるように桜に視線を向けて、冬夜は自分のシャツを濡らす冷たい感触に気がついた。
夢見は、冬夜に抱きついたまま泣いていた。
ぐすぐすと、鼻をすすり上げ、冬夜の体に顔をこすりつけるようにして、まるでそうしなければ彼がどこかに行ってしまうとでも思っているようだった。
彼女を引き剥がそうと上げた手をそっと下ろす。
彼は夢見の小さな頭を恐る恐る撫でた。黒くさらさらとした髪の感触が指に心地良かった。幼い彼女の体温を手のひらに感じながら、少年は優しい声で問いかける。
「どうした?」
すぐに返事はなかった。
そのまま落ち着くまでと、数回頭を撫でたところで、震えながら夢見は恐る恐る冬夜の顔を見上げる。
「りょーりちょー、大丈夫? 痛くない? 平気?」
「え?」
夢見が何を言っているのか理解が出来ず、思わず聞き返してしまう。
大丈夫も痛くないも、冬夜が彼女に尋ねたい事だった。
再び、桜に視線を送ると、彼女は困ったように微笑んで、
「ごめんなさい、冬夜くん。さっきお風呂で、夢が冬夜くんの、その……体を見て」
「……あぁ、なるほど」
先程冬夜の半裸を見てしまった事に余程驚いたのか、桜は少し頬を赤らめながらに言う。全てを言わなくとも、体、という一言で何となく夢見が何を言わんとしているのか想像がついた。
「大丈夫。もう治ってるから……」
体中に刻まれた傷跡の数々は、大人が見ても眉を潜める程に生々しくおぞましい。まして幼子には衝撃的なものだっただろう。そのほとんどは既に完治しており、別段痛みも何もないが、そんな事を知らない者であれば心配にもなるだろう。
「りょーりちょー、けがしてる! いっぱい、けがして……」
夢見はなおも、くしゃくしゃの顔で訴え掛ける。
それを見て冬夜は困り果てた顔で、
「大丈夫だ。オレは、その、強いから」
「つよい?」
「そう。オレは凄く強いんだ。このくらい、へっちゃらだ」
言って、にこりと微笑んだ。不器用な笑みだった。自分でもちゃんと笑えているのかは分からない、そんな笑みだった。
夢見はなおも心配そうだったが、何も言わずに彼の腹に顔を押し付ける。冬夜が彼女の暖かさを感じるのと同じく、彼女もまた冬夜の体温を感じているかのようだった。そこに冬夜が生きている事を確かめているかのように。
「りょーりちょー……」
「ん?」
「いなくなっちゃ、いやだよ?」
シャツに顔を押し当てたままのくぐもった声にはっとして、冬夜は再び彼女の頭を撫でた。
「大丈夫。オレはいなくならない」
ちくり、と。胸の奥が痛んだ。
夢見や桜、それに門司や彬、京花に至るまで冬夜にとっては所詮この場限りの関係に過ぎない。仕事が終われば彼はこの地を離れるのだ。
今までの仕事にしたってそうやってきた。そしてこれからも同じように生きていく。
故に、仕事で出会った人間に特別な感情などありはしない。
仕事に私情は持ち込まない。
そう決めているはずだった。
それなのに、どうして胸が痛むのだろうか。
まだしゃくりあげる夢見をあやしながら、冬夜は心の中で深いため息をついた。
無性にタバコが吸いたい気分だった。
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