第11話 襲撃者

喫茶店でのひと時を終え、それぞれは帰路につく。桜と彬は夢見を幼稚園に迎えに行くと言い、冬夜も誘われたが、まだ買い物の途中という事でそれは辞退した。

黒衣の少年は一人、夕暮れも間近に迫った道を歩く。商店街から外れ、路地に入り込んでいく。

大人が二人、ようやくすれ違えるくらいの薄暗く細い道は、ジメジメとしていてどこかかび臭い。恐らくは昼間であっても陽光がロクにささないのだろう。

街の喧騒から離れたそこは、彼にとっては落ち着く場所だった。

ほんの数分前までの桜や彬との会話が、昔の事のように……あるいは遠い世界での夢幻であったかのように感じられる。

彼女達のような普通の人間と接していると、つい忘れそうになってしまうが、冬夜の生きる世界は本来こちら側なのだ。

日の当たらない、人の踏み入らない世界。

生きる世界が根本的に違うのだと、自分に言い聞かせて、彼は不意に足を止めた。


「この辺で、十分だろう」


返事はない。

だが、向けられた殺気がその答えだった。

ゆっくりと、振り返る。

彼の背後、数メートルの距離で、暗い路地の中央にそれは立っていた。彼は店を出てから自分をつけてくる何者かの気配を感じ取っていた。

にやり、と。

その人物が笑うのを目にした時には既にお互いに臨戦態勢に入っていた。

相手が地面を蹴り、対する冬夜はその場から一歩も動かない。

銀光が奔り、黒翼が踊った。

打ち込まれた手裏剣を、コートの裾を翻して弾き飛ばす。

手裏剣はフェイント、相手は瞬く間に冬夜の目の前に滑り込んでくる。

お互いの間合いが詰まった。そう思った時には、相手の右足が力強く跳ね上がっていた。

顎を狙っての前蹴り。まともに喰らえばその場で昏倒するであろうそれを、冬夜は顔を後ろに仰け反らせて避けた。つま先が鼻先をかすめ、足が彼の頭上にまで昇る。凄まじい技の切れだった。


「ッ!」


天に向けどこまでも伸びるかと思われた蹴りが、突如として冬夜の頭上でぴたりと動きを止めた。呆気にとられる間もなく、踵が彼の脳天めがけて落ちてくる。

今度は冬夜も動かざるを得なかった。二、三歩退いて踵落としを避ける。彼の背中を冷たいものが走った。前蹴りさえもフェイント、本命はこちらだった。判断が遅れていれば頭に良い一撃をもらっていた。


「ぬぅッ!?」


落ちてきた足が再び地面についたかと思うと、次の瞬間には再び大地を蹴って離れる。

こめかみを狙って放たれた上段蹴りを、とっさに左腕で受けた。

前腕に鋭い衝撃がきたかと思うと、蹴りがそのままガードの上で弾けた。足が腕の上で跳ねて、二撃目の蹴りが、がら空きになっていた冬夜の脇腹に叩き込まれた。見事な二段蹴りだった。

たまらず怯んだ。その隙は相手にとって好機のはずだった。

だが、追撃はこなかった。カウンターで応じようとしていた冬夜の動きが乱れる。

バックステップを踏むように数歩、飛び跳ねて後退すると、相手は突然跳び上がった。冬夜に向けてではない。横の、ビルの外壁に向かってである。壁の僅かな凹凸を足がかりに跳躍し、さらに向かいにあった壁を蹴る。

降ってきた。

跳躍に跳躍を重ねて跳び上がった、遥か高い位置から、自由落下に任せるままに降りてきた。冬夜めがけて振り下ろされた踵がやけにスローモーションで見える。

だが、冬夜はその場を動こうとはしなかった。

しっかりと、振り下ろされる足を両目でみつめたまま、微動だにしない。

落下が終わった。強い衝撃が少年の小さな体、その肩に叩き込まれた。


「つぁッ!?」


悲鳴が上がった。その体が吹き飛ばされて、背中から地面に叩きつけられる。

冬夜の、ではない。襲撃者の体がである。

彼女の踵落としは、間違いなく冬夜の左肩に打ち込まれていた。だが、冬夜はその場に無造作に構えたまま、僅かにもその場を動いてはいなかった。

衝撃の瞬間、彼を守ったのは鍛え抜かれた肉体そのものだった。その小柄な体格からは想像も出来ない程に全身の筋肉が張り詰め、彼の体に石像にも等しい耐久を与えたのだと、果たして相手は気がつくことが出来たかどうか。


「あ痛たた……失敗してもうた」


腰をさすりながら彼女は起き上がる。今の今まで戦いを繰り広げていたとは思えない、妙に軽い調子だった。それを冷たく見下ろして、


「昨晩、乱入してきたのはお前だな? 須田京花」


彼女に問いかける。大の男でも震えあがりそうな声音だった。

今、冬夜の目の前にいるのは、先程の喫茶店の店主、須田京花に他ならなかった。ほんの数分前まで桜や彬と共に談笑をしていた相手だった。


「いやー、やっぱ強いなぁ。割かし本気で蹴りにいったのに、全然こたえてへんやん?こんなん、無茶苦茶やろ」


冬夜の冷めた声での問いかけに、答えが返ってくることはなかった。

彼女はヘラヘラと笑いながら冬夜にそっと、まるで友人かなにかのように歩み寄り、


「ってかさっきの何? 鎖骨一本くらい貰ったろ思て蹴りくれてやったのに、全然きいてないどころか、全然動かんし? 間違えて電柱かなんか蹴っ飛ばしたんかと思うたわ」


「質問に、」


答えろと、そう言いかけた時だった。冬夜の眉間をこつんと指先で小突いて、


「せっかちさんやな? ごめんごめん。うん、そうやよ。昨晩はおもろいもん見せてもろうたわ」


にへら、と無邪気に笑って彼女は深く頷いた。

思わぬ事に冬夜は眉間の皺をより深くする。あの乱入者が彼女であると予想していたことと言え、こうもあっさりと認めるとは思ってもみなかったのだ。

あまりにもあけすけな態度には毒気が抜けてしまう。

彼女は笑顔のままで冬夜の肩、胸と順番に軽く叩いて、


「パッと見、分からんかったけど、ごっつい体しとるんやな?なるほど、これなら大抵の事は耐えられるわな。てっきり符術派の術師かと思っとったけど、内丹派やったか」


「……お前、咒い師か?」


うんうんと一人頷く彼女を、しばらく黙ったまま見つめていた冬夜だったが、ふと、得心がいったとでもいうように呟く。符術、内丹、共に魔術に身を置くものか、よっぽどオカルトにかぶれている者でもなければ口には出さない単語であった。


「そそ。この辺中心に、ほそぼそと憑き物落としやら占いなんかやらせて貰っとります。そんな訳でよろしくな?」


ぺこり、と冗談めかして会釈を一つ。下手な関西弁も含めて、その仕草一つ一つがわざとらしく、どこか胡散臭い。

あるいはそれらは全て、そう相手に思わせるよう仕向けるための演技なのかも知れない。

冬夜を驚嘆させた格闘能力といい、全く底が知れない女だった。


「んで、昨日の晩のことやったっけ? 夜中に寝付けなかったんで、てきとーにブラブラ散歩しとったら、何や? 妙な気配感じるやん? 追っかけてみたらおっかない化物と、これまたおっかない顔した少年が夜の墓場で運動会しとる。つい、ちょっかいかけてもうた」


―堪忍してな?


笑顔で、そう締めくくる京花だったが、その目は決して笑ってはいなかった。どこか恐ろしいものを秘めた瞳だった。


「で、とーやくん? 君は、一体どういうつもりでこの街に来たんや?」


彼女の笑顔の下に、殺気が潜むのが感じられた。

元来、魔に属するものは他者の介入を好まない。加えてここは彼女が仕事の拠点を置く土地である。彼女から見れば、冬夜は自分の縄張りに紛れ込んだ異物なのだ。

昨夜の、そして先程の対応から見ても、彼女は“商売敵”と見た相手には容赦をしないだろう。ともすれば再び一戦を交えることになりかねない。

対応を誤れば事態は余計に面倒な方向に転がるのが目に見えていた。


「オレは……」


冬夜が口を開く。

二人の間で緊張が高まっていく。京花は既に殺気を隠そうともしていなかった。

相対する冬夜の体からもゆらりと殺気が立ち上る。それは彼女とは違って意識しての事ではない。京花の放つそれに、体が勝手に反応してしまっているのだ。

彼女の殺気と冬夜の殺気がぶつかり、只人の目には見えない火花が散る。ただでさえ狭い路地裏の一角は、尋常でない密度の空気が満ちてこの世のものではない圧迫感を生じさせていた。僅かに動いただけで爆発しそうな、危険な空気だった。


「オレは、“組織”の者だ。依頼を受けてこの土地に来ている」


本当の事を口にした。下手な嘘は逆に状況を悪くする可能性さえある。

尤も、こちらが本当の事を言ったとて相手が信じてくれない場合もありえるし、信じたところで関係なく向かってくる可能性さえある。その時は、その時だ。これでダメなら他に良い手があるわけでもない。元より腹芸は得意な方ではないのだ。


「ん? 組織? んー……えぇ!? もしかして元請けさんとこ!?」


京花が怪訝な表情を浮かべたかと思うと、すぐにそれは驚愕のそれへと変わった。


「それ、ほんまなん? 嘘やったら承知せぇへんよ?」


「元請けって……事は、お前もうちに加盟してる訳か。……今この場で身分を証明するものはない。だが、組織に問い合わせてみれば分かるはずだ」


京花は慌てた様子でポケットから携帯を取り出し、しかし思いついたかのようにすぐにそれをポケットの中に戻すと、冬夜を頭の上からつま先までしげしげと眺め始める。

幾分冷静さを取り戻したのか、その顔にはにやついた笑みが浮かんでいた。


「へぇ、なるほどな……それは失礼してもうた」


「問い合わせはいいのか?」


「そんな自信満々に言われたらなぁ。問い合わせるまでもなくホンマのことなんやって察しつくわ。いや、ほんま堪忍してな? まさか元請けさんが出張っとるとは思わなかった」


ぱん、と小気味良く両手を打ち鳴らして冬夜に拝むように謝罪の姿勢を見せた。


「いや、ホントマジで勘弁してぇな。元請けさんには色々と仕事回してもらっとってな。そこの人とトラぶったなんて知れて干されたら、たまったもんやない!」


無言、かつ無表情のまま立ち尽くす冬夜を見て、彼が機嫌を損ねたとでも思ったのか頭を下げ出す彼女だったが、しかしその口調はどこか冗談まじりに聞こえて、とても本心から謝っているようには見えなかった。


「構わん」


冬夜はため息混じりに短く答えた。

正直、戦いに横槍を入れられた挙句相手を取り逃がすハメになった事に関しては思うところがないでもない。今しがたいきなり仕掛けられた事もあまり愉快な事ではなかった。

だが、彼女を見ているうちに、怒りよりも先に呆れがきてしまっていた。

対する京花は、冬夜の返答を深読みしたのか


「でもその不景気面、絶対まだ怒っとるやん!? 後で絶対上に告げ口するんやろ? あたしの仕事干してほくそ笑む気やろ!? 許してぇな!」


「いや、別に……それより不景気面って何だ……」


冬夜が困った顔をするのに構わず、京花はまくしたてる。彼の話なんて聞いてはいなかった。


「そんなおっかない顔せんといて。不景気が移る!」


「てめッ……!」


「どうすれば許してくれるん? 袖の下? 情報? それとも……あたしの体?」


「いらん! ってかてめぇ、絶対オレの事おちょくってるだろ!?」


「あ、バレた?」


仕事用の口調を忘れて怒鳴った冬夜相手に、京花はにへら、と笑みを一つ。いたずらがバレた子供のような、あっけらかんとした笑みだった。

完全に遊ばれていた。


「うん。思い出したわ。津川、津川ね……噂に聞いたことある。ケッタイな武術だか魔術だか使う若モンがおるってな。大分色んなところを荒らしとるらしいな?」


「……ちッ」


わざと聞こえるように大きな舌打ちをして、タバコに火を点ける。肺を満たす濃い煙だけが、彼のざわつく心を鎮めてくれた。


「……まぁいい。お前の用はこれだけか?」


からかいを無視する。一服して余裕が出来たのか、彼の口調や纏う空気は仕事向きのそれを取り戻していた。


「いいや。まだあるよ? 元請けさんとこの払い屋が、こんな辺鄙な街に何の用や? もしかしてそれは、桜ちゃんちに関係あることなん?」


冬夜は黙ったまま紫煙を吐きだして、足元に落ちた灰の塊を靴のかかとで踏み潰す。


「お前が知る必要はない。もう、オレはお前に関わらん。だからお前もオレに関わるな」


小さくなったタバコを足の裏に押し付けて消すと、吸殻を投げ捨てる。

京花の足元に落ちたそれは、余韻のように白い煙を吹き上げて、やがて完全に沈黙した。


「へぇ? そいつは無理な相談やね」


吸殻を踏み付けて、京花は一歩、彼に歩み寄った。


「何故だ?」


「話聞かせてもろうたけど、とーやくん、住み込みでお仕事しとるんやってな? 身分まで隠して。そんなんどう考えても桜ちゃんち絡みやん。ほんなら、幼馴染の子ほっぽって、どこの馬の骨とも知れん男に全部丸投げ、ってのは筋が通らんやろ」


「……邪魔を、する気か?」


冬夜の小さな体から、再び殺気が立ち上った。

鋭くつり上がった目が京花を見つめる。黒く、深い瞳だった。その若さでは有り得ない冷たさを湛えていた。これまでにどんな物を見てくればここまで至れるのか、想像もつかない眼光だった。


「邪魔と取るか、手助けととるかはとーやくん次第やな。さて、どうしよっか」


彼女と冬夜の視線が真っ向からぶつかって絡み合った。

わずか数秒間、しかしそれは二人の間では数時間の事にも感じられる、長い一瞬だった。


「……筋が通らない。そう言ったのはお前だ」


「うん?」


「なら、まずはお前が筋を通してみせろ」


殺気を霧消させ、変わらない厳しい口調で投げかける。

京花はあっけにとられたようにぽかんと口を開けて何かを言いかけたが、すぐに合点がいったのか、


「なるほどなるほど。ほんじゃ、こんなんはどうや?」


京花が手をひと振りする。どこから取り出したのか、そこに一冊のノートが現れた。

これみよがしにそのページをペラペラとめくりながら、


「ここ最近、街で妙な事が続いとってな。新聞から噂から、思いつく限りの媒体全部まとめてみとったんや。見たとこ、とーやくん、情報集めに難儀しとるようやない?」


「情報交換、という訳か?」


「さてさて。あたしのカードに足り得るもんを出してくれるかどうかやな?」


「一色家の変事を解決するには役に立ちそうだな」


「もう一声」


「夜な夜な歩き回る不審者の話を、聞いているか?」


満足げに頷いて、京花はノートを少年に手渡す。

一見して脈絡のない会話のようだったが、その中には二人の駆け引きが込められていた。

協力をする気があるのならば態度で示せと暗に示唆した冬夜に、京花は情報を匂わせる形で応じて見せた。ノートと引き換えにどんな情報を渡すのか? という問いに、冬夜はこの一件が一色家に関わる変事であると、そして昨晩の襲撃者がその変事に関わりがあるという情報を開示することで応じたのだった。


「貸出期限は?」


ノートをめくり、びっしりと書き込まれた内容に目を細める。更なる情報の取捨選択には少し時間がかかりそうだった。


「この一件が片付くまで。これくらいでどうや?」

びし、とVサインを作って示した。


「高い」


「値下げには応じんで。この一件、君が思うてるより、きっと根深いよ?」


「応じて貰う。根深い事は承知している」


「ゆずれんなぁ……そんかわし、あたしも込みの値段、って事でどうや?」


ノートから顔を上げて、冬夜は冷めたような目で彼女を見つめた。

冗談が過ぎたかと京花は思ったが返ってきた答えは彼女を面食らわせるに十分なものだった。


「なら安い。せめてその三倍は提示しろ」


「は? えぇの?」


「一応、上に話を通してからになるがな。少しでも情報が欲しい。出来ることなら人手も欲しい。現地に詳しい人間ならば申し分はない」


―どうせその金を払うのは自分ではない


そう締めくくって、冬夜はわざと音を立ててノートを閉じた。

この仕事も本質は普通の人間の仕事と変わらない。相手をするものこそ超常のものではあるが、結局必要になってくるものは経験と知識、そして様々な視点だ。

彼女の実力は今しがた身をもって知った。当座の相方とする分には問題はないだろう。

それに万が一、彼女がこの一件の黒幕で、この共闘の誘いが罠であったとしても、知らないところで悪巧みをされるよりかは身近で監視を出来るようにしておいた方がまだマシであった。


「交渉成立、やね」


「あぁ。お前が味方であることを願う」


京花が握手のために差し出した手には目もくれず、冬夜は踵を返して背を彼女に見せる。

一見して失礼極まりない図ではあるが、京花は気にした様子もない。冬夜が無防備に―果たしてそれが本当に無防備であるかは別として―背を見せた事がひとまずの信頼の証と、彼女は受け取ったらしかった。


「そういや、とーやくんは何でさっき、あたしの蹴り避けなかったん? いくら頑丈いうても、ドタマに踵落としなんてくらったらただじゃすまんやろ?」


ふと思い出したかのように京花が少年の背中に尋ねる。

硬い靴音を立てながら離れていく少年の背中は、彼の実年齢とはかけ離れて見えた。


「最後の蹴りは明らかに殺気が鈍かった。それに、わざわざ肩を狙ってきているのが分かったから、あえて貰うことにした。あぁ、あとそれから……」


「それから?」


「技を見せてもらった礼だ」


何の事はないとでも言うように、少年は振り返りもせずに短く答えるとゆっくりと路地を抜けていく。

影の中から日の指す場所へ。人ならざるモノの世界から人の世界へ。

彼の体が後もう半歩で世界をまたぐところで、彼女はその背中にもう一度声をかけた。


「ねぇ! とーやくんは何でこんな因業な事しとるん?」


今度は、少年の足が止まった。

そしてゆっくりと上半身だけを振り返らせて、


「……仕事、だからだ」


京花の位置からは逆光で、冬夜の表情までは見て取れなかった。

だが、その一言で十分だったらしい。彼女は満足そうに頷いて、


「そっか。世のため人のためー、なんて嘘くさいお題目聞かされたらどないしよ思っとったわ。あたしら、上手くやれそうやな?」


今度こそ答えずに、彼は最後の半歩を踏み出して路地を抜け出た。

そして陽光にさらされた影の如く、雑踏の中にその後ろ姿は溶けて消えていった。


「恐ろしい、少年やな……」


残された京花は吐き出すように呟く。

額を手の甲で拭う。彼の姿が見えなくなって、ようやく一息をついたのも束の間、今の今まで耐えていた冷や汗が一気に吹き出てきたのだった。

京花の蹴りの連撃をまともに躱しきったものなど、数える程しかいなかった。ましてや蹴りをまともに受けた上で、手加減したとは言え必殺の踵落としを受けて身じろぎ一つしない人間など、初めての相手だった。

技を見せてもらった礼と彼は言った。その言葉は額面通りに受け取るべきものではない。

勿論、言う通り、京花の蹴りに対してその類まれな防御力を見せる事で返礼としたという意味もあったのだろうが、その真意は別のところにある。

この程度では自分には通用しない、やる気があるなら本気でかかってこい。そちらが技を隠しているようにこちらにもまだ隠している物がある……そんな牽制が多分に含まれているのだった。


「ほんまに、恐ろしい……」


額をもう一度拭い、くり返し呟く。

恐ろしいと、そう言う彼女の口元には、言葉とは裏腹に楽しそうな笑みが浮かんでいた。

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