第9話 カフェ・プランタン

翌日、冬夜は街に出ていた。

昼をとっくに過ぎ、太陽は西に傾きかけている。

昨晩はその後一色家に戻って、再度化物が襲来してくることもあるのではないかと考え、結局一睡も出来なかった。

我ながら酷く儚い希望にすがりついたものだと、今になってみて思う。

不本意ながら朝食を全員分作り、洗い物を終えて、姉妹を学校と幼稚園に送り出した後、ようやく出来た時間を使って睡眠をとったは良いものの、何分日も高くなってからのことで満足な睡眠をとれるはずもなく、三時間もしない内に目が冴えてしまったのだ。

退治屋としての仕事をなそうにも手がかりはなく、家の周りにも不可解な気配は感じられない。そうなってしまうとやることがなかった。


「ふあ……」


あくびを一つ。涙の滲んだ目を拭う。寝不足で痛む頭を押さえつつ何かすべきことはないかと散々悩みぬいた挙句、どうしようもなくなった彼は家を出ることを決めたのだった。

一色家に仕掛けた探知用の結界はまだ生きている。もし何かがあったらすぐに術者である冬夜には分かるようになっている。それに万が一の事態があったとしても一色家の姉妹は今家にはおらず、門司がただ一人いるのみだ。今回の仕事の護衛範囲に門司自身は入ってはおらず、冷たいようではあるが彼の身の安全の優先度は低い。

以上の事を踏まえた上で、冬夜は家令に一言いれて街に繰り出した。

その目的は、夕食の食材の調達である。


「ふむ……」


商店街を歩き夕食の食材に丁度いい物はないかと物色しながら、同時に彼は頭の中で別のことに思いを巡らせていた。

それは、もちろん昨晩のことである。

みすみす取り逃がしてしまった事は悔しくて仕方がない。こんな事ならば捕獲など考えずにさっさと始末しておけばと思い、自分の見通しの甘さに怒りが沸々と湧いてくる。

しかし、今彼の一番の気がかりとなっているのは化物のことではない。あの時現れた第三者の存在であった。

コートの上からそっとポケットを触ると、硬い感触がある。そこにはその謎の人物が投げつけてきた手裏剣が収められていた。いくら戦闘中とはいえ、否、戦闘中の気が張り詰めた状態にありながらも、あそこまで接近を許したのはこれまで数える程しかない。見事としか言い様のない隠行の技だった。

加えて闇夜の中で正確に冬夜の頭を狙ってきた技量も侮れない。こちらが気配に気づく前であったならば、手傷は避けられなかっただろう。


「妙だ……」


周囲には聞こえない程度の声量で、白菜を手に取りながら呟く。あれが化物の仲間であるならば、攻撃するタイミングはあそこでなくてもよかったはずだ。それこそ戦闘中、回避が間に合わないタイミングを狙えば良いだけのことだというのに、そうはしなかった。

もちろん化物と冬夜の戦いを観察し力量を測った上で、いざ仲間が危なくなったから助けに入った、とも考えられる。

もし化物と気配の主が仲間同士であったのならば、実は問題はそれほどない。まとめて潰せばいいだけだ。

だが、そうでなかった場合。化物、気配の主、冬夜。陣営は三つに分かれる事になる。昨晩の対応を見るからに、現時点では乱入者は少なくとも味方ではないとみなすべきだろう。そうなると、彼が注意を払うべき対象は二つ。


「……まぁ、なるようになるか」


ため息混じりに呟いて、彼は考えるのをそこで切り上げた。

状況が未だ掴めていないというのに、無闇に考えだけ先走らせるのは危険である。

ひとまず彼は白菜の会計を済ませ、八百屋を後にする。今晩の夕飯のメニューに思いを馳せる中、ふと腹の虫が微かなうめき声を上げていることに気がついた。

―そういえば朝から何も食べていなかった

徹夜明けでどうにも食欲が湧かず、口にしたのはたった一杯のコーヒーのみ。今更になって空腹が襲いかかってきたのだった。腕時計を確認すれば、針は午後三時を過ぎた頃を示している。昼食を取るにはいくらか遅い。だが、夕食まではまだ時間がある。

ひとまず何か腹にいれようと、彼は周囲を見渡して、目に付いた喫茶店へと足を運んだ。

『カフェ・プランタン』。看板に書かれた名をちらりと見て、足を踏み入れる。店内

には冬夜以外に客はいなかった。


「いらっしゃいませー」


閉店中かと思ったが、カウンターの奥から返ってきた声がその考えを否定した。

冬夜はゆっくりと店内奥、窓際のテーブル席につくとメニューを一瞥するなり、カウンターの向こうへオーダーを投げかけると、徐に買い物袋から新聞を取り出してテーブルいっぱいに広げ始めた。街に出てすぐに買った地方紙である。別に娯楽を求めてのことではない。その証拠に彼は大きな見出しには目もくれず、何かを探すかの如く忙しくページをめくって進めていく。

やがて目当ての見出しを見つけたのか手を止めて小さな記事に鋭く目を走らせた。

それは、この県内、付近の市町村で起きたローカルな記事である。おおよそ全国紙にはのらない小さな事件や事故が書かれていた。

冬夜は記事から目を離さないままにポケットから取り出したタバコを咥え、火を点けた。両切りタバコのフィルターを通さない濃い煙で肺を満たして、細かい文字に目を走らせているうちに、心地いい香りが彼の鼻腔をくすぐった。


「お待たせしました。コーヒーとスコーンです」


ことり、と優しい音を立ててテーブルの隅に湯気を立てるコーヒーと、スコーンの乗った皿が置かれた。

新聞から目を離して見上げると、先ほど、カウンターの向こうに立っていた女性店員がにっこりとほほ笑みかけてくるのが目に入った。


「ごゆっくりどうぞー」


西の方の出身なのか、冬夜にはあまり馴染みのないイントネーション混じりにそう言って、彼女はゆっくりと踵を返す。

それを横目に見て、冬夜は早速スコーンに付け合せのジャムをつけて一口かじりつく。


「……む!」


思わず、唸り声を上げてしまった。

それほどまでに、衝撃的だった。表面はさっくりと歯ざわり良く、中はふんわりした食感。見事な焼き加減だ。そして、甘すぎない味わいが何とも奥深く、砂糖の分量が何とも絶妙だった。添えられたラズベリージャムは自家製だろうか? 酸味が爽やかで、空腹時にはたまらない。

―美味い

コーヒーを一口飲んで、今度は声に出さないように気をつけながら心の中で呟いた。

スコーンは言わずもがな、店頭にディスプレイされた他の菓子類も美味しそうだった。加えてコーヒーも冬夜の好みによく合っている。

元より彼は、あまり人ごみは好まず喧騒を嫌う性質である。静かで人気の少ない店内も、決して無愛想ではなく、それでいて煩わしくない店員も彼にとって好ましいものだった。もっとも、人が少ないのは店にとっては喜ばしい事ではないのだろうが。

スコーンを平らげ、コーヒーを半分程飲んでから、彼は再び新聞に目を戻した。

暴行、強盗、殺人。物騒な単語が次々と目に飛び込んでくる。それらはあまり大きく報道される事のないものばかりだった。一般的に見れば小さな、ありふれた事件たち。

知らないところでそんな事件はいくらでも転がっている。日常なんてものは薄皮一枚剥いでしまえばすぐに崩れるものなのだ。事実、科学万能の世に暮らす人々は、暗闇に生きる冬夜たちの事を見ようともしない。

ぼんやりと、頭の片隅でとりとめもないことを考えながら文章を読みすすめていく。今現在彼が拠点を置く町に関しての情報は、思いのほか多かった。

犬猫の大量行方不明、多発する空き巣、高齢者を狙った詐欺……読んでいるだけで気が沈むような内容ばかりで、しかも今回の事件に関係のありそうな事柄は見当たらない。

それでも冬夜は一つ一つの出来事を吟味し、記憶し、手帳に書き付けていく。

どんな情報がどんな形でこの一件に絡んでくるか分からない以上、少しでも気になった事は頭に入れておきたかった。

魔が絡む事件は大事になればなるほど事前に何かしらの予兆があるものなのだ。それらは様々な形で現れ、素人はもちろんのこと、経験豊富な術者でさえも事前にそうと知ることは難しい。そうと気がついた時には手遅れになる事がままある。そして、この一件は一つ間違えば大事になりかねないと、冬夜の中の何かが告げている。もちろん何か根拠があるわけではない。ただの勘だ。だが、だからこそ漠然とした不安が胸の内で燻っていた。

険しい表情を浮かべたまま、カップを傾ける。だが、その中にさっきまであったコーヒーは既に空っぽになっていた。


「失礼、コーヒーのお代わりを……」


二杯目のコーヒーを頼もうと顔を上げた冬夜はそのまま固まった。丁度同じ店に入って来た制服姿の二人連れの、片割れに見覚えがあったためだ。


「あれ? 津川、さん?」


少女は彼の視線に気がついたのか、驚いたように目を丸くした。


「一色桜、さん……どうしてここに?」


言ってから、酷く間の抜けた質問だと思った。


「いえ、学校が終わったから少し寄り道しようかと。津川さんは?」


「オレは買い物帰りにちょっと休憩に」


冬夜はタバコを灰皿に押し付けて消すと、広げた新聞を丁寧に折りたたむ。


「桜、その人知り合いか?」


桜の横にいた人物がそう尋ねた。彼女と同じ高校なのだろうか、男女の違いこそあれ、似たような制服を着た男子である。


「うん。今度からうちで働く事になった方で、津川さん」


「ふーん?」


桜の説明を受けて、少年は冬夜の方に向き直った。年は桜や冬夜と同じくらいだろう。ただし身長は冬夜よりも高い。すらりとした細身の体躯だが、華奢という印象はない。何かスポーツでもやっていたのか、適度に日に焼けた肌をしている。

彼は冬夜を値踏みするかのように見つめ、


「あぁ、新しく来たっていう人か。料理が上手とかっていう」


既に冬夜の事は桜から聞いているのだろう、少年は得心がいったというように頷く。


「はい。一色さんの家でお世話になっています、津川冬夜です。桜さん、こちらの方は?」


「同じ学校の同級生で、彬くんです」


桜が簡単に説明をすると、それに乗る形で彼は片手を上げて、


「うっす。笹部ささべあきらだ。よろしくな」


「はい。よろしくお願いします」


冬夜が頭を下げると、彬は何か不満があるのか眉を潜めて傍まで寄ってくる。


「んー」


「え? 何か?」


「いや、多分、同い年くらいだろ? そんな畏まらなくて良いさ。まぁ、仲良くやろうぜ!」


そういって彼は、軽く冬夜の肩を叩いて微笑んだ。人好きのする、朗らかな笑みだった。


「彬くん、冬夜さんは年上だよ」


桜が言うと、彼は冬夜の手元に置かれた灰皿を見て、慌てたように一歩退いた。


「え? もしかして成人済み? マジで? その身長で?」


思わず、眉をひそめてしまう。身長の事は冬夜も意外と気にしているのだ。


「もう! 失礼だってば!」


「あ、いや、その、すみませんっ、冬夜サン!」


桜の叱責と、冬夜の表情の変化に、彬は急に縮こまって頭を下げてきた。先程から見ていて、何ともせわしない少年である。


「いえ、構いません。むしろ、そちらこそ畏まらず、砕けて接してくれて良いですよ」


「お!お! マジで? 分かった。改めてよろしくな、冬夜」


驚く程の変わり身の早さだった。呆気にとられる冬夜に、桜が困ったように微笑みかける。彼は元からこういった性分なのだろう、半ば呆れと諦めが混じったような笑みだった。

しかし冬夜も、呆れた反面、悪い気はしていなかった。


「そんじゃ、冬夜もその、変にへりくだった話し方やめてくれよ?俺だけテキトーに話すのは嫌だからさ」


「……あぁ。そうさせてもらう。よろしく頼む、彬」


彬の提案に、迷ったのは一瞬。むしろ彬の提案は魅力的だと考えることにして、ありがたく乗らせてもらうことにする。彼としてもフランクに話せる方が楽で良い。


「彬くん、ずるい」

ふと、桜がそんな事をぼそりと呟いた。

見れば彼女は冬夜と彬を羨むように、少し寂しそうな顔をして見つめていた


「津川さんとそんな仲良くお話して。私ももっとお話してみたいのに」


「話せばいいじゃん。確か冬夜、住み込みで働いてるんだろ? 機会ならいくらでも……」


「だって津川さん、そんなフレンドリーに話してくれたことないんだもん。もっと楽にしてくれて良いんですよ?」


「いや、桜さんはオレの雇い主なわけで……」


流石に立場上目上の者相手にそんな話し方をするのは気が引けると、断ろうとしたが、しかしそれ以上を口にする事は出来なかった。

桜の悲しそうな目を見て、そんな事を言うのはいくら何でもはばかられてしまう。

冷淡を気取ることは出来ても、そうはなりきれないあたり、津川冬夜という少年は案外に甘くできているのかもしれなかった。


「……分かった。外にいる時だけだが、敬語はずさせて貰うよ」


「はい! 冬夜くん!」


彬の時よりも長く悩んで、冬夜は彼女の言い分に従う事を決めた。

偽装とはいえ使用人という立場上、この対応はあまり褒められた事はないのだろう。しかし、ここで断るのも桜からの心象を悪くする可能性が考えられる。それに護衛対象と個人的に親睦を深めて置くことは、スムーズに仕事を進める上では悪くない。

―あくまで、仕事か

心のどこかで、そんな声がした。

それはこんな時であっても仕事の事しか考えられない自分に対しての憤りか、あるいは仕事という理由をつけて自分の甘さを納得させている自分への嘲りか。一瞬では判断はつかず、聞かなかったことにしてそっと胸の奥深くにしまいこんだ。


「あー、門司の爺様、その辺うるさそうだもんな」


「さすがに、お嬢様相手にこんな口の聞き方してんのバレたら怒られちまうかもな」


門司の事を想像してみる。いくらかとぼけた所はあるが、一色家に長らく仕えてきた老練の家令だ。いくらなんでも冬夜が主と、まるで友達であるかのような話し方をしていたらどんな顔をするか分かったものではない。


「じゃあ、三人の秘密って事で。あ、でも夢にも後で言っておくから四人の秘密かな?」


そう言って桜は微笑む。彼女によく似合う、春の日差しのような朗らかな笑みだった。

つられたように彬も微笑み、そして、


「っ!?」


はっとして、冬夜は自分の頬に触れる。

彼自身も気づかぬうちに顔に笑みが浮かんでいた。どうやら二人に釣られたようだった。


「こほん。えーっと、そこの少年少女達。いい加減、席についてもらえると、おねーさん嬉しいんやけどな?」


不意に、カウンターの向こうから声がかけられた。

そちらに目を向ければ、先ほど冬夜のもとに商品を持ってきた女性店員が困ったような顔で三人の事を見ていた。

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