第8話 初仕事

その日の夕食は一色家の食堂で行われた。

桜、夢見姉妹に家令の門司ら三人が席について待つ中、早くもキッチンからはおいしそうな匂いが漂ってきている。待ちきれない様子でそわそわしている夢見を桜がたしなめるが、桜自身も湧いてくる好奇心を抑えきれずにいた。


「お待たせしました」


皆の空腹度合いが最高に達した頃、見計らっていたかのようなタイミングでサービスワゴンを押しながら冬夜が食堂に姿を現す。


「本日のお食事です。ハッサクと大根、水菜のサラダ、鶏胸肉のハーブ焼き、キャベツとタマネギ、油揚げの味噌汁です」


そう言ってわざとらしく頭を下げて、冬夜はそれぞれの前に食器を置いていく。


「おいしそう! いただきます!」


配膳が終わるなり真っ先に料理に手を伸ばしたのは夢見だった。

鶏肉を食べて顔をほころばせ、続いてサラダにも手を付けて驚いたような表情を見せる。


「ハッサクのサラダ、とは珍しいですな」


サラダを口にして、門司がほぉ、と感嘆のため息を口にした。


「大根の食感にハッサクの酸味と甘さがよくあってますね……もしかして、このドレッシングも手作りですか? 夢見も水菜は苦手なはずなのに」


「うん! これならたべられる!」


桜に言われて、夢見は親指を立てて冬夜の方に見せた。


「えぇ。同じく柑橘類を使ったドレッシングです。甘さと酸味がよくあうかと思いまして」


再び冬夜は丁寧に頭を下げた。やはりその仕草はどこかわざとらしい。あるいは彼なりの冗談なのかもしれなかった。


「知りませんでした。お味噌汁にキャベツがあうなんて」


「これは、厨房の仕事は全て津川さんにとられてしまいましたな。今後ともよろしくお願い出来ますか? 料理長どの」


笑いながら、門司がそう声をかける。こちらは冬夜の様子とは違ってどうやら本気の様子だった。

冗談ではない。少年は相変わらずの仏頂面をひきつらせながら、曖昧に頷くのみ。


「りょーりちょー!」


意味が分かっているのかいないのか、夢見が真似をして声をあげた。

対する少年は丁寧に頭を下げるのみ。故に誰も気がつくことはなかった。その瞬間、彼の顔にうっすらと自然な微笑みが浮かんだ事に。

現状はともかくとして、料理をほめられるのはまんざらでもないのだ。






その夜。

一色姉妹はすでに眠り、最後まで諸々の作業を行っていた門司も部屋に戻って、屋敷の中が静まり返った頃。冬夜は宛がわれた部屋のベッドからゆっくりと体を起こした。

立ち上がり部屋の片隅に放り投げておいたコートを身にまとうと、そっと部屋の扉のノブを回した。途端に彼の視界に飛び込んできたのは黒一色の闇だった。暗がりの中に広がる空間は昼間見たそれとは全く違って、一歩踏み出せば、そのまま帰ってはこられないのではないかとさえ思わせる。まるで異界のごとき様相だった。

時刻は深夜一時過ぎ、間もなく丑三つ時が訪れる。人の時間は終わり、これより訪れるのは人外の時間。日の当たる場所では生きられぬ、闇を糧とするものが動き出す頃。

衣擦れのごく微かな音をたてて、廊下に足を踏み出す。彼がたてた音はその一回のみだった。

人の気配が消え静まり返った屋敷の中にあってなお、足音はおろか呼吸音さえも彼は完全に消し去って、今や彼は場に満ちる闇と一体となっていた。

闇の中、まだ慣れていない屋敷であるというのに冬夜の足取りはしっかりとしていた。

彼にとって物心ついたころから見慣れていたものである。彼の五感はすでに夜の闇にあってなお昼間のごとく周囲の様子を鮮明にとらえ、伝えてくるのだった。

―これではまるで自分も彼岸の住人のようだ

ふと、そんな風に思って彼は苦笑する。

何をいまさら。払い屋の仕事は魑魅魍魎を払い、滅ぼすこと。そうして日々の糧を得るのだ。すなわち化物を食らっている事と何の違いもない。それのどこが化物のあり方と違うというのか。

音もなく廊下を進み、問司の部屋、一色姉妹の部屋の前を通り過ぎていく。

昼間に比べ、屋敷の中にただよう嫌な気配は心なしか濃くなっているようだが、いかんせんその出所は未だ掴めない。気配の原因が屋敷の中にあるのか、それとも外部から送られてきているものなのかさえも分からない。元から探知は苦手ではあるが、ここまで曖昧な物は初めてと言ってもよかった。まるで何かの妨害が生じているかのような……

やがて冬夜はこの屋敷にきて最初に通された客間を訪れると歩き回るのをやめて、床に直接どっかりと腰を下ろした。そのままあぐらをかくように座り込み、目を薄く閉じる。両手の指を下腹部のあたりで重ね、親指同士が触れるか触れないかの位置でぴったりと固定する。

法界定印。

座禅において結ばれる印である。

結跏趺坐の姿勢のまま、冬夜は規則正しく呼吸を繰り返していく。

冬夜が行っているのは一見して座禅の様だった。極度の集中状態の中で神経を張りつめ、感覚、あるいは意識を闇の中に拡散させる。イメージは根。自分の肉体を中心にそこから無数の根を屋敷の中の空間に張り巡らせていく。

本来は意識と世界と一体化する、禅などで見られる修行の一つだが、それを彼は索敵の手段として応用しているのであった。

やがて感覚の根が隅々まで張り巡らされ、己の内と外の違いが曖昧となってくる。屋敷の中に舞う塵や埃の動きさえもその気になれば把握出来そうなほどに感覚が研ぎすまされた頃、突然それは訪れた。


「来たか」


半眼となっていた両目を見開いて、冬夜は弾かれたように駆けだした。

たどり着いた先は玄関。引き戸のすりガラスの向こう側に、何者かの影がちらつくのを確認するが早いか、彼は何の迷いもなく戸を開けはなった。

なだれ込んでくる冷たい夜気に閉口しながら周囲を見渡すが。すでに不審な影の姿は屋敷の近くには見えなかった。

すでに逃げた後のようだった。冬夜は屋敷の中とはまた違った外の闇に目を凝らす。

―いた

まばらに建った家屋の間、舗装された道路を駆けていく何者かの影を彼の瞳がとらえた。

次の瞬間には、冬夜は冷えきった地面を力の限りに蹴飛ばして追跡を開始していた。

相手との距離はおよそ三百メートル、冬夜が戸を開いてから十秒もたっていないというのに、恐ろしい走力だった。

コートの裾を向かい風になびかせ走る。同年代の少年とくらべても十分に速い。しかしそれでも化物の尋常ではあり得ない走力相手には分が悪すぎる。距離は広がる一方だった。

少しずつ引き離されていく中で、彼は舌打ちを一つ、息を大きく吸い込んだ。

力強く大気を吸い込み、鋭く吐き出す。走りながら、同じリズムでそれを何度となく繰り返すうちに、冬夜は己の身の内に暖かなものが生じていくのを感じていた。その生じたものを丹田に送り、圧縮し固める。

体の内に小さな太陽が現れた。そう感じた瞬間に、冬夜はそれに道筋を与えて一気に解き放った。それは気、あるいは幻力、あるいは霊力……総じて魔力と呼ばれる力であった。

送られた先は両脚。魔力の流入に、筋肉という筋肉が、骨が、血管や神経までもが躍動し、爆ぜる。その瞬間を皮切りに、冬夜の肉体は強化され、超常の加速を得た。

風となった冬夜は間もなく一色家への来訪者に追いすがり、その全体像をしっかりと両目にとらえた。全長は冬夜と同じか少し大きい。布か何か、ボロ切れを全身からたれ下げている。四つ脚で地面を蹴り走る姿はまさに獣のようだった。

冬夜は微かな月明かりに照らされたその姿を見つめ、静かに息を飲んだ。そのシルエットから伺える骨格は明らかに人のものだった

不意に、それは路地の曲がり角を、勢いを殺すことなく曲がった。一拍遅れた冬夜も逃すまいと力づくで軌道を変えて角を曲がる。

そして冬夜は広がる光景に目を見張った。

路地を抜けた先に見える、広けた空間。そこにあるのは、見渡す限りの墓標であった。

墓場である。

さすがに最初に仕事を終えた場所とは別の墓地ではあるが、それにしても妙な因縁を感じてしまう。

気を削がれたのは一瞬、しかしその一瞬で相手の姿は冬夜の視界から完全に外れてしまっていた。


「どこだ?」


ぼそり、と。自分に問いかけるように呟いて、彼は墓地の敷地内に足を踏み入れる。

周囲に警戒しつつ数歩進む。墓場の中は静まり返っていて、何者の気配も感じられはしない。季節柄、虫の鳴く音さえもなく、聞こえるのは冬夜の靴がアスファルトをこする小さな硬い音だけだった。

見失ったかと、そんな嫌な予感が胸をよぎった時、冬夜は野生の獣のようにしなやかな動きで後方に跳びずさっていた。その動きは反射的なものだった。半瞬遅れて、今の今まで冬夜が立っていた場所に墓石が飛来し、轟音と共に地面に突き刺さっていた。

直撃していようものならひとたまりもなかった。一抱えもある墓石の重量は百キロを軽く越えている。

衝撃で飛び散ったアスファルトの欠片から顔を守りながら、冬夜は墓石の飛来した方向に目をやる。

墓の台座の上、墓石の代わりに、それは月を背にして立っていた。

前のめり気味に、その姿勢の維持すらもおぼつかないのか、揺れながら。その体はぼろぼろで、後ろに浮かぶ欠けた月の光が透けて見えている。まるで子供が土くれか何かを固めて人の体を模してみたかのような姿。

その姿に冬夜は見覚えがあった。それはつい昨日の夜、彼自身が討ち滅ぼした化け物と瓜二つの姿をしていた。


「同一個体……ではないか」


驚きこそすれども、状況分析は怠らない。昨日の個体は間違いなく滅ぼした。仮に再生能力をもっていたとしても一晩でここまで再生するのはまずあり得ない。

だが、似たような化け物がニ体も、しかも一日おきで出現した。これは異常な事態であると言わざるを得ない。この一件は予想よりもさらに根深い事情があるのかもしれないと、そんな風に思った。

台座を飛び降りた化物が手近な墓石を両手で抱えあげ、冬夜に投げつけた。


「くっ!」


考え事をしていたのが災いした。その分だけ反応が遅れ、彼が臨戦体勢に入ったのは墓石が宙に舞ってからだった。それでも次の行動を決めるのに、コンマ一秒もかかりはしなかった。


「罰当たりめ!」


脚を跳ね上げる。顔よりも高い位置で横薙ぎに放たれた上段回し蹴りが、飛来した墓石をとらえた。跳んできた墓石は少年の蹴りによって軌道をずらされ、彼の真横の地面に落下する。砕けた石くれが飛び散る中、冬夜は両足を地面につけるなり跳躍した。

飛び上がった先で手近な墓石を蹴って横に加速。化け物めがけて飛びかかり、その顔面に右のストレートをぶち込んだ。

墓石を巻き込み、なぎ倒しながら化け物の体が吹き飛んでいく。


「ひゅっ」


あがる土煙をみながら、冬夜はコートのポケットから数枚の紙切れを取り出して扇のように広げた。口から笛の音に似た呼気を吐き、体の中に生じさせた魔力をありったけ紙切れにそそぎ込む。

いかなる技術か、彼が投擲した紙切れはまるで放たれた矢のように鋭く飛び、化け物が沈む先に殺到した。


「   」


声にならない咆哮と共に化物が立ち上がり、動き出す。紙切れの多くは狙いをはずれ、化け物の周りの地面に突き立っていく。その中で一枚だけが化物の右腕に当たった。紙切れが淡く発光したかと思うと、かんしゃく玉が弾けるような軽い爆発音が響く。焼け焦げたような匂いがして、化け物の右腕が千切れて吹き飛んでいた。


「術はあんまり得意じゃないんだがな」


ひとりごちて冬夜は化物に向けていた右手の二指をそっとおろす。

彼が投擲し、そして化物の片腕を奪った紙切れの正体は呪符……一般的に札と呼ばれるものだった。しかし一般的なお守りとは違い、攻撃に特化した代物である。

片腕を落とされてバランスを崩したところへ冬夜が踊りかかって左右の拳を振るった。左の拳が顎をとらえ、浮かび上がったところに続けざまに繰り出された右のボディがその体をくの字に折り曲げる。

地面に転がった化け物を無感情に見下ろして、冬夜はその後頭部を思い切り踏みつけた。

ぐしゃり、と。

嫌な音がした。アスファルトの地面と化物の頭がぶつかり、沈黙した。

だが、まだ滅びてはいない。もとよりこれを今この場で討ち取るつもりはなかった。

新たにポケットから取り出した呪符を足蹴にした相手の体に張り付ける。先ほどの攻撃用の物とは違い、拘束のための呪符である。


「どうしたものか……」


度重なるダメージと呪符によって静かになった相手にちらりと一瞥をくれて、冬夜はタバコに火を点けた。仕事はまだ終わってはいないが、無性に一服したい気分だった。

今回の一件は分からない事が多すぎる。当初の墓場での一件と一色家の変事、関係のない話だと思っていたが、今まさに足下に転がる存在が、嫌が応でも繋がりを感じさせた。

無言のまま、その場を離れ、吹き飛ばした腕まで歩き、それを拾い上げる。体から離れたそれは既に崩壊を始め、土とも灰ともつかない何かに変化を遂げている。

その中には骨の欠片と思わしき物が混じっていた。何から何まで先日と同じである。


「むッ!」


煙を吐き出した時だった。戦闘を終え、平静を取り戻した五感が何かの気配をとらえた。

それは視線。何者かがこちらを窺っていると気付いた瞬間、冬夜はその方向に殺気を飛ばしていた。

返ってきた答えは、銀の光だった。

顔の前で拳を握りしめる。その僅かな動きの間に気配は消え去っていた。

追う間がないほど見事な撤退だった。状況から見ても、気配の主と化物は無関係ではないのだろう。そう思うと、一抹の悔しさが心の中に浮かび上がる。


「手裏剣、か」


顔の前で握りしめていた拳を開き、中に捕らえたそれをしげしげと眺める。

手のひらの中に収まるサイズの、三角形の短剣状の刃物である。先ほどの銀光の正体は、気配の主が投擲してきたそれであった。反応が遅れれば眉間に突きたっていたであろう小さな刃物を手の中で転がして、冬夜は小さく舌打ちをする。

投擲の技術は勿論の事、その引き際の鮮やかさからも相当の手練れである事が伺える。

そんな相手とこの先最低でも一度は必ずぶつからなければならない事を知り、彼は疲れたため息を吐かずにはいられなかった。

そして、


「なっ!?」


手裏剣をポケットに納め、再び化物を調べようとして、彼は頓狂な叫びをあげた。

目を離したのは本当に短い間だった。それなのに、彼が今さっき拘束したばかりの化物の姿が忽然と消え去っていた。

それが転がっていた場所を見れば、焼け焦げたかのごとく黒ずみ、破れた紙切れが一枚。

呪符が破壊され、用をなさなくなっていた。彼が施した拘束では不十分だったらしい。完全に相手の力量を見誤っていた。

大慌てで周囲を見渡すが、動くものは見あたらず、気配すら感じられない。

今から夜明けまで探したところでその姿を再び捕らえる事はおそらくは不可能だろう。

飛び入りの襲撃者はおろか、本命までも取り逃がすなど、あってはならない大失態だった。


「くそが!」


普段から感情をあまり表に出さない彼にしては珍しい、憤怒と苛立ちに満ちた声だった。それだけでは収まらなかったのか、手近にあった誰の物ともしれない墓の水飲みに、まだ火のついたままのタバコを吐き捨てた。

少年の怒声だけが静まり返った夜に木霊した。

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