一人暮らし+α

さくさくサンバ

+いもうと――1

 ぱんぱんと手を打ち鳴らす。拍手ではなく手の平同士を払うようにしてなんとなく綺麗になった気分だけは醸し出す。ついでに一言。


「こんなもんか」


 と呟けばなんだか一仕事終えた感慨が出てくるものだ。


 染み一つない壁と床に真新しい家具一式が眩い。俺はにんまりと口端に弧を描いた。


「やー……一人暮らし、かぁー……いいね! 最高!」


 四月から通うことになる大学のほど近くに借りた俺の城である。



 なお一か月持たなかった模様。



 四月の下旬、ゴールデンウィークも間近に見え始めると講義後の教室には秒で雑談があふれだす。一日の最後の講義の後であれば猶の事。


 先ほどまでの講義に対する感想みたいなものから内容に関する少しばかり真面目な語り合い。


 もちろん多くは講義なんか全然関係のない雑話であって、今日この後の予定からGWでの小旅行計画まで。


「倉田はGWはどうなんだ? やっぱバイトか?」


 俺はといえば誰よりも早く教室を出て行こうとしている。


 声を掛けてくれた丹坂の方に振り返る。


「そ、バイト。今日このあとも。じゃお先」


 丹坂とついでにその周囲にも適当な言葉を投げて教室を後にした。


 日々結構な頻度で声を掛けてくれる丹坂一成は知り合いゼロのこの大学で最初に出来た友人かつ最も親しい間柄であって、彼にとっては十中八九そうではない。


 駐輪場に向かう道すがら、バイトに力入れすぎたかもなと心中ごちた。



 さりとてお金は本当に大事であって必須であって幾らでも欲しいものなのだから仕方ない。


 三時間ほどをバイトという労働に費やした後に休憩室に常備の麦茶を一杯いただいてからお暇するのがそろそろいつもの流れになってきた今日この頃。


 我が城ことアパートのほど近くまで来た俺はもう一つの『いつものこと』に一つため息を吐き出した。アパートの全ての部屋のカーテンから光が漏れ出しているのである。


 一人暮らしの俺がまだ帰り着いていないというのに。



 玄関ドアを開ければ部屋は明るく、おまけにいい匂いが奥から漂ってくる。


 靴を脱ぎ、廊下を歩き進めるごく短い間に匂いの正体を推察した俺は急激に腹が減った。生姜焼きは好物の一つだ。ちなみに靴は脱いだままにしておくと叱られるのできちんと仕舞った。


 ダイニングテーブルで我が物顔で食事をしている相手は俺を見て一言。


「おかえりなさい」


 当然とばかりに一切の緊張も不慣れな感じもない声だった。一番はじめのはじめ、まだギリギリ年度が変わる前の時点でも同じだったから図太いというか自然体というか。


「ただいま」


 一応、定型は返しておく。親しき中にも礼儀ありというし。ただし続く言葉を毎度の如く投げかけるのは忘れない。


「なんでまたいるんだおまえは」


 茶色のショートを涼やかに揺らした少女は数瞬、返す言葉を探しているようだった。黙して椅子に座す姿は牡丹というには慎ましいが、一たび目を留めてしまえば離れることは難しい。本当に怖い毒は無味無臭だと誰かが言っていた。


「兄さんのおうちだからです」


「そうそう俺の家。よくわかってるじゃあないか。実家の方に帰れっていつも言ってるだろ実家の方に、ちゃんと、帰れ、実家に」


「週四は帰ってます」


「週三は?」


「帰ってません。それより兄さん、はやく手を洗ってきてください。料理が冷めてしまいます」


「たしかに」


 家主の同意なしに上がり込むのは全く全然褒められたことじゃないとして、食べ物に罪はない。俺は急ぎ洗面所に行って戻って、途中で荷物も下ろしてくる。


「いただきます。それで美咲、いくら学校に近いからってな、平日半分以上家に帰らないのはな」


 制服姿のままであることからもわかるとおり、この不同意侵入少女はまだ高校生である。そして実家よりも高校に近い位置にこの家はある。そのせいで生来の涼し気な顔立ちに涼し気な表情を乗せてふらふらっとやって来ては泊っていくから困りものなのだ。


 高校も三年生になったとはいえ高校生には違いなく、だから例えばすっかり夜のこの時間から帰らせるなら送り届ける必要があるわけなのである。そしてそれは少々、俺の負担が大きい。


「兄さん。生姜焼きはどうですか?」


「ん、いやまだ食べてないから」


「今日のは自信作です」


「そうか」


 一口食べてみたが、なるほど確かに二週間前よりも上達している。


「前よりもっと旨くなってるな。ただ母さんのよりは少し……焼きすぎてる感じか? これは」


「そうですか、わかりました。レシピ通りに作っているつもりなのですが、難しいですね」


「ま、多少なり環境や道具が違うしな。もう一回、母さんに聞いてみたらいいんじゃないか焼き時間」


「またうまくいかないようだったらそうしてみます」


 俺は頷いて食事を再開する。テレビではバラエティ番組が流れている。なんとも平和な飼い犬特集だった。我が城は残念ながらペット禁止である。


 視線を感じたので首を横に振っておいた。



 夕食の後には風呂の時間だ。遠慮か律儀か知らないが一番風呂だけはこの一か月間、越されたことはない。ゆっくりと浸からせてもらって風呂上りにダイニングに顔を出す。


「上がったぞぉ」


「はい。入ってきますね」


 短い会話が過ぎれば四、五十分は顔を合わせることがない。俺のゆっくりの更に倍ほどゆっくりなのは性差なのか個人差なのかどちらだろうか。


「兄さん」


「おはッ!?」


 タオルで頭を拭きつつテレビのニュースを見るともなしに立ち見していた俺はすぐ背後からの呼びかけに少々驚いてしまった。すっかり油断していた。


「これ」


 広げられたのは俺のシャツだった。そうされる心当たりも見つけた。シャツの右側の横っ腹あたりに染みがある。今日の昼にちょっとしたアクシデントで出来た汚れだ。


「手洗いが必要な時は洗面器に入れておいてくださいと言いました」


「あ、はい、すみません。……次から気を付けます」


「はいお願いします」


 それだけ言ってすぐに風呂場に戻っていくわけだが、俺からも言いたいことがある。というか後でちゃんと言うわけだけど。


 下着で脱衣所を出てくるなと。



「だって、すぐ戻るつもりでしたし実際廊下に出たのはちょっとだけです」


 就寝前の最後の時間には温かい飲み物をちびりちびりと喉に通す。テレビは消しているしスマホを弄ることもない。ほんの二分かそこらの完全に静かな一時。


 ソファの上に膝立てて唇を尖らせても駄目なものは駄目です。


「次やったら一か月間出禁な」


「……なにが出来ないんですかぁー?」


「はっはっはっ、出禁な。唸っても駄目」


 しばらく頬を膨らませた後に一気にコップを傾け、お気に入りだという寝間着の袖を不満に揺らして寝室に向かう。そんな背中を俺は苦笑しながら眺めていた。


 ゆったりと着丈に余裕のある見慣れた寝間着姿は布団に潜り込みぽんぽん、いや、ボンボンといった調子に力強く隣の布団を叩いている。


「寝ますよ、兄さん。はやく。夜更かしは駄目なんですからね」


 放っておくと布団を叩き続けそうだったから、俺はコップ二つを流し台に運んでから同じ短い距離を慌てず歩いた。


「はやくって言いました。……おやすみなさい兄さん」


「あぁ、おやすみ」


 まだ互いの目は閉じられない。


「……おやすみ、美咲」


「はい、おやすみなさい……兄さん」

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