第2話・第二問

 梨花は勉強を特段苦痛に思ったことはない。学習意欲が旺盛というほどではないが、新しいことを吸収することは楽しい。知らなかった世界が開ける。けれど、学校の集団生活には馴染めなかった。梨花が学校生活の中で孤立しだしたのは小学校中学年くらいからだった。友達だと思っていた誰と話をしていても、どこからか話が食い違う。そんなことを繰り返すうちに、梨花は孤立していった。

 孤立は子供が不登校になるには十分な理由だ。

 課外学習の班。修学旅行のグループ行動。些細なところでは授業中に組む相手。

 そんなものが全て苦痛になる。

 孤立は簡単にいじめに繋がる。暴力や嫌がらせなどわかりやすいいじめではなくとも、話しかけてもすげなくされる、無視される。そんな些細なことが積もり積もって、不登校になったまま中学三年の時に高校進学をどうするのかと問題になった時に通信制の高校をすすめられた。

 梨花が通信制高校の学生である理由はごく簡単だった。そして、ありふれているともいう。

 午後の授業が終われば各自好きなタイミングで部活のルームに入る。部活であるのだから出席も自由だが、昨日、一花と明日もおしゃべりしようと約束して梨花自身それを楽しみにも感じていたからすぐにルームを移動した。

 まだ部活ルームの人数は少なく五人ほどしかいない。普段の梨花ならば授業が終わった後、ひと休憩入れて部活ルームに入るのでこんなに人数の少ないところを見たことがない。オープンチャットも動きが緩やかで入室の挨拶が散見されるだけでまだのんびりしている。普段は入室数が多く、挨拶すらしない梨花だが人数が少ないと自然と目立つ。簡単な挨拶でもした方がいいだろうかと迷っているうちに、通知音が鳴って「ひゃっ」と声が上がった。

 プライベートチャットの通知音は一花からの通知で、梨花はほっと胸を撫で下ろしてかたかたとキーボードを叩いた。

「こんにちは、辻井さん」と表示されている画面に同じく挨拶を返した。

「こんにちは。今日はなんのおしゃべりをしますか?」

 キーボードを叩きながら、梨花はほんのりと笑っていた。さっきまで人数の少ないチャットルームに緊張していたのに、一花からのメッセージで途端に安心している。親しくない、ろくに知らない人の集団に一人で目立たないようにしているよりも、気分はかなり楽になる。普段は誰かと話す目的もないから画面を無視して読書に耽っているのだが、一花を待っている間は画面を無視する訳にもいかず、梨花は孤立に似た気持ちを感じていた。

「私たち、共通の話題もまだないから昨日の質問ゲームの続きをしましょう。質問はたくさんあるのよ」

「はい。ところでそのゲームの質問って全部でいくつあるんですか?」

「三十六あるの。全部の質問にお互いに答えたらきっと私たち、少しは共通の話題ができるんじゃないかしら」

 かたかたとキーボードを打って、画面の文字上で会話を交わす。一花は梨花と親しくしたようだが、どこかで嫌だと感じてしまえば簡単になかったことにできる希薄な関係。本当に親しくなってしまったらまた話に食い違いが出てきて、一花も梨花のことをなかったことにするかもしれない。だから、梨花は自分からアカウントの友人申請のことも話に出さない。

「そうだといいですね」

 当たり障りのない返答を梨花は打ち込む。

 けれど梨花には一花の言葉を素直に受け取れない部分もある。散々、そうやって新しい交友関係を模索しようと学年が上がってクラス替えがある度に、小学校から中学校に上がる時に期待したが、何が悪いのか結局梨花はいつも孤立した。全く努力しなかったわけではない。何度も失敗して諦めて、不登校になったのだ。しかし、一花には梨花の事情など関係ない。

「じゃあ、今日も私が質問を出して私から答えていくのでいいかしら」

「いいですよ」

 梨花はまだ一花との距離を取りかねて、淡々と返事をする。

 楽しみにも思っていたのにいざチャット上とはいえ会話を始めるとまだ緊張してしまう。知り合って二度目の会話で、何度も交友関係に失敗している梨花には致し方ないことだった。

「二つ目の質問。有名になりたいですか? またどのようにして有名になりたいですか? ふふ。有名になりたいですかですって。私は有名になんてならなくていいわ。ていう事はどのようにして有名になりたいですかの質問が成立しなくなってしまうから、どうして有名になりたくないかを言おうかしら。私はごく普通の幸せが欲しいだけだわ。とてもお金持ちになるとか、有名人になるとかそんな凄いことはいいの。有名だからって幸せかどうかはわからないし、お金持ちかもわからないもの。よくない事で有名になんでなりたくないしね。辻井さんは?」

 画面上の文字を読みながら梨花はしばらく考えた。

 有名になりたいか。一花の言う「よくない意味での有名」に梨花は当て嵌まっていたかもしれない。そんな有名はもちろんいらない。だからと言って無暗に何かの功績を上げて自分が有名になることも想像できない。そもそもどうのようにして有名になりたいのかまでがセットの質問なのだから、梨花にはまだそんなビジョンはない。

「私も有名になりたくないです。どうやったら有名になれるのかとか、考えてもみなかったので想像できません。有名だからって幸せとは限らないっていうのは、私も同じ気持ちです」

 一花は饒舌だが、梨花は彼女ほど常設にはなれずに短い返事をした。

「そうよね。だって有名人にはゴシップが付きものだったり、何かと小さなことでバッシングされたりするでしょう。私、ああいうのも嫌なのよ」

「有名人だったら私生活を暴露されたり、なにかと批判にあったりするのはどうしてですか」

「んー……有名税とはよく言うみたいだけれど、そんなのじゃ納得できないわよね。なりたくて有名になったならまだしも、そうじゃない人だっているでしょう? きっと、有名でアイコニックされた人を攻撃することでストレスの捌け口にしているのよ。だって、有名人って身近な人ではないでしょう。例えばクラスメイトを簡単に攻撃できないけど、有名人……アイドルでも俳優でもなんでもいいわ、そういう人のちょっとしたミスならがっかりした、幻滅したって言うのは比較的簡単じゃない」

「そこまで有名じゃなくても、少し目立っている子とかもですか」

「そうかもしれないわね」

 梨花の問いに一花は言葉を濁した。梨花も自分で問いかけておきながら、少し気分が落ち込んだ。

 チャット画面がしばらく動かなく、入力中の表示もない。明らかな沈黙。

 もしかしたら一花の機嫌を損ねてしまったかと梨花はふと思い立った。

「白井先輩。好きな有名人っていますか?」

 唐突に何でもいいからと入力した文字列はその前の会話から飛躍しすぎていて、梨花は「あ」と声を出した。またたぶん、失敗した。沈黙が苦手なのだ。だからそれまでの会話の要素から梨花は適当に会話を発生させようとしてしまう。

「突然ね。私、マニアックなのよ。それでもいい? 古い役者で歌手なんだけど、ジェーン・バーキンっていうの。歌声が素敵なのよ」

 チャット画面の下の入力中の表示を見る余裕もなかった梨花は、一花の特段変わった様子のない返事にほっとした。

「今度聞いてみますね。配信ありますか?」

「あるわよ。ねえ、辻井さんの好きな有名人も教えて?」

 質問に互いに答え合うゲームなのだから、少し逸脱して梨花が出した質問にも返答しなければならないのはルールだ。

 一花に聞き返されて、梨花は頭を悩ませた。彼女の好きなアーティストを梨花は知らない。古いと言っていたから一花は流行りものにはあまり興味がないのかもしれない。梨花もそんなに流行に敏感ではない。読書は好きだが、やはりベストセラーよりも図書館の隅に眠って埃をかぶっている様な本が好きだ。

 それでも梨花が知らないだろうと前置きして自分の好きなアーティストを教えてくれた一花は素直な人なんだろうと思う。

「有名人ではないですけど、好きな本なら『チャーリーとチョコレート工場』です」

「映画になったやつね」

「映画になるずっと前から好きで」

 子供の頃に母の本棚にあったのを読んでから、ずっと心に残っていて今でもページをめくる度にわくわくする本のタイトルを伝えると、梨花は緊張した。役者で歌手と本のタイトルではまるで興味の方向性が違う。しかも梨花は話を振っておきながら、自分は的確な返答ができていないことに気付いている。そういうことを繰り返してしまう。

「映画でしか見たことがないから、今度読んでみるわね」

「無理しないでください。読んで欲しいとか、そういうんじゃないです」

 慌てて梨花が返事を返すと、画面の下に入力中の表示が点滅した。

「私が読んでみたいからよ。辻井さんがさっき聞いてみるって言ったのは社交辞令だったの?」

「ちがいます。ごめんなさい」

「謝らないで。ねえ、私とおしゃべりするのはつまらない?」

 画面の文字に梨花はどきりとした。一花の言葉は柔らかいけれど、一歩引いた気配がした。文章のやり取りは言葉のやり取りよりも誤解が発生しやすい。文字は無機質で何も伝えない。

「そんなことないです。楽しいです。私がしゃべるの苦手なだけで」

 梨花は咄嗟に取り繕う言葉を叩いた。

 高校に入ってから初めて個人的に話をするようになったのが一花で、関係を終わらせることは簡単だけれど柔らかさが感じられる彼女に梨花はまだ諦めたくないと思った。何度も交友関係をうまく築けずに失敗しているのに、それでも細やかな望みを持ってしまう。

「一花先輩って呼んでいいですか」

「じゃあ、梨花ちゃんって呼んでもいい?」

「はい」

 またも唐突にそんなやり取りをしてから、梨花はひとつ深呼吸をした。

 慌ててしまうから支離滅裂になっていく。ならば、まず落ち着かなければならない。

「私、一花先輩が高校に入ってから初めておしゃべりした人なんです。授業は聞いて課題を出すだけでいいし、部活でもオープンチャットでも挨拶とかしないし、友達もいないし。一花先輩が話しかけてくれた時、すごくびっくりしたけど、話し終わったらとても楽しかったんです」

 できるだけ誤解を招くようなことと余計な情報は排除して梨花はメッセージを送った。画面がしばらく動かずに、後ろのオープンチャットのログだけがせわしなく流れた。少しの沈黙。梨花が苦手なものだが、じっと衝動を抑えて一花の返事を待った。

 入力中の表示が点滅して、一花の返事が表示される。

「私が梨花ちゃんの高校生活で初めてのお友達になっていいのかしら」

「先輩なのにお友達なんて!」

「いいじゃない。学年なんてただ整理するために便利だから分けてるだけよ。ねえ、それでも嫌?」

「嬉しいです!!」

 チャット上のやり取りだから、感情が文字だけでは伝えきれなくて淡々としてしまう。だから小説の中では感嘆符を使うのかと、梨花は滅多に使わない記号を使った。

「私も嬉しい!」

 一花からも同じ返事が返ってきて、梨花はほんのり興奮した。丁寧で柔らかな言葉遣いをする人のように勝手に感じていた一花が、画面の向こうで笑っているかもしれないと勝手に想像した。

「一花先輩。明日もおしゃべりしてください」

「もちろん。放課後の楽しみができたわ」

「私もです」

 梨花から明日の放課後の約束を持ち出すと、一花は快諾してくれた。その返事に梨花の口元にふわりと笑みが浮かぶ。部室のルームにいながらプライベートチャットで会話をすることなど珍しくないのだろうが、梨花には初めての経験で部室の隅で内緒話をしているような感じがしてその感覚も心地よかった。

「質問のゲーム、全部で三十六あるんですよね。終わるまで毎日楽しみです」

「あら。ゲームが終わってしまうまでしかお友達でいてくれないの?」

「え?」

「そんなことないです! 毎日の楽しみがまだたくさんあるって例えです」

「そうね。仲良くなっていきましょうね」

 揶揄われた気がしないではないが、梨花は気分が悪くなった訳ではない。肯定の言葉を返されれば、ほんの少しの悪戯のような揶揄いなど気にならない。気付いたら画面の下の時間表示がもう一時間ほど経過していた。普段はもう学校のシステムからはログアウトしている時間だ。

「一花先輩、明日も楽しみにしています。また明日」

「私も。梨花ちゃん、また明日」

 時間を気にして梨花は会話を終わらせると、システムからログアウトして大きく伸びをした。頬がほんのりと色付いている。高校に入って初めての友達ができた。先輩であるけれど、友達でいいと言ってくれた。

 今度こそ間違わないように、と梨花は願う。

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