ゆっくり秘密の恋をしましょう

御景那智

第1話・第一問

 午後の授業が終わった後、部活の時間。部活の参加は任意で強制ではないが、暇を持て余すことと、母の心配を紛らわせる為に梨花は映画研究会に所属していた。といっても、通信制高校での部活はもっぱら学校内ネットワークを使用したチャットと音声通話でのやり取りがメインで、部活専用ルームにインしていれば発言をしなくても誰も気にしない。

 ノートパソコンに流れていくチャットのログを放置して文庫本のページに視線を落としていると、ぴこん、と通知音が鳴って梨花は顔を上げた。個人宛に送られるメッセージ以外の通知は切っていて、普段は鳴ることがない。なんだろうと梨花は首を傾げて文庫本に栞を挟んで画面に向き直った。

 ディスプレイの端に知らない名前と共にプライベートチャットの通知がポップアップされている。人違いではないだろうかと思いながら、梨花はそのウィンドウを開いた。チャットウィンドウには「はじめまして。もし暇だったらおしゃべりしない?」と表示されていた。どうやら人違いではないようだった。

 どうしようかと少し考えた末に梨花はキーボードで返信を打ち込んだ。

「はじめまして。私なんかと話してもつまらないですよ」

 きっとそうすれば相手は諦めると思ったのだ。けれど、チャットウィンドウの下には『白井一花が入力中』と表示されていた。しばらくすると返事が返ってきた。

「話してみないとわからないわ。嫌だったら断ってね。無理に付き合わせたいんじゃないの。私は三年の白井一花。よろしくね」

 話してみないとわからないとは確かにその通りだ。しかも彼女は一年の梨花にとっては一言もしゃべったことがなくても先輩にあたる。

「私は辻井梨花です。一年です。はじめまして」

「私ね、あまり大勢とおしゃべりするのが苦手なの。辻井さんはいつも部活のルームにいるのに見る専っぽかったから話しかけちゃったの。びっくりさせちゃったかしら」

「びっくりは……しました。白井先輩はよく見ているんですね」

「だって私も見る専だもの」

 そんなありきたりなやり取りをして、梨花はくすりと笑った。

 文字だけのやり取りならば、過度に緊張しない。相手の顔も知らないのだから、嫌だと思ったなら話を打ち切ればいいと、そのまま画面上の会話を続けた。それまで高校の誰ともプライベートチャットで会話をしたことなどない。授業を受けて部活に出席してさえいればよかった。一花との出会いは突然だった。

「それで、どんなおしゃべりをするんですか?」

「そうね。ねえ、質問にお互い答え合うっていうのはどう? 辻井さんが楽しいと思ったら、また明日もやりましょう」

「いいですよ」

 流れる文字列は清楚でしとやかな少女を連想させる言葉使いで、梨花に無理を強いる雰囲気もなく好感が持てた。

 部活ルームのオープンチャットでは高校生らしいフランクな言葉が飛び交っている中で、一花の言葉はどこか落ち着いていて気を張らなくて済む。通信制の高校で、オンライン授業と部活動でも一つのコミュニティに参加していることには変わりない。梨花は慎重に目立たないようにと注意を払っていたのだが、一花は梨花を緊張させることなく突然現れた。

「じゃあ質問よ。この世界の誰でもディナーに呼べるとしたら、誰を誘いますか? 私から答えるわね」

「白井先輩からですか?」

 少し驚いて梨花が返すと、しばらく沈黙があった。画面には『入力中』の文字が点滅している。

「だって、私が誘ったんだもの。私から答えるのが筋じゃない? じゃあ答えていくわね。そうね……このディナーって普通のディナーかしら。それとも特別なディナー? 最後の晩餐? どんなディナーかにもよるんだけど、もし、普通の日常的なディナーに世界の誰でも好きな相手を呼べるのだとしたら、好意を寄せている相手を呼びたいかしら。特別じゃない、毎日の日常的なディナーを好きな人と一緒に囲めるなら幸せね。でも困ったわ。私、いま好きな人っていないの」

 ぴろん、と通知音が鳴って返事を読むと梨花はくすりと笑った。悪い人ではないかもしれないと一花のことを認識する。好きな相手もいないのにディナーの相手に好きな相手を指名するのは夢見がちのようにも梨花には思えた。

「じゃあ、白井先輩に好きな人ができた時は相手をディナーに誘えますね。私なら……そうだ、誰でもいいんですよね。なら、二年前に亡くなった祖母と一緒に食事をしたいです」

「辻井さんはおばあちゃんっ子なのかしら」

「大好きでした。祖母も祖母の家も。山の中で緑が多くて縁側のある家で、祖母とおしゃべりするのが大好きだったんです。祖母は亡くなった祖父をとても大切にしていて、昔話をよく聞かせてくれました」

 普段ならこんなに饒舌になることはないのに不思議だなと感じながら梨花は昔話をした。驚きはしたが、一花の第一印象が梨花にとって良かったからだろう。差し障りのない雑談が気楽だ。

「辻井さんのおばあさまはおじいさまをとても愛していたのね。素敵」

「そうだと思います。たぶん、惚気ていたんだと思います」

 くすくすと笑いながら梨花は返事を打つ。

「白井先輩はどんな人がタイプなんですか」

 好きな人はいないという一花に梨花は疑問を投げてみた。自分のことばかり話しているようで一花のことも聞いてみたくなった。

「どういう人がタイプって好きな人のことよね。難しいわ。だって、外見は内面を隠してしまうもの。とても魅力的な人でも乱暴だったり横暴なのは嫌よ。穏やかな人がいいわ。ゆっくりお互いのことを知って、ゆっくりたくさんその人のことを好きになれたら素敵ね」

「具体的なタイプはないってことですか」

「そうなってしまうわ。でもね、恋ってきっとそうなのよ。恰好いい人が好きって言っておきながら、突然恋に落ちた相手は冴えない人なんてよく言うじゃない」

「確かにそうですね」

「辻井さんは好きな人はいる?」

 それまで珍しく笑いながらチャットウインドウの文字列を眺めていた梨花は一花の質問に「え!?」と声を上げて驚いて動揺した。これが対面だったらもっと慌てていたかと思うと、文字のやり取りがいかに楽か思い知らされる。

「いません」

「一緒ね」

 一花は短い返事を返してきた。

「誰かを好きになりたいと思う?」

「わかりません」

 さっきまでの気分が消し飛んで、梨花は淡々と文字を入力して返した。

 誰かに恋をするよりも先に、梨花は人と上手に関わることができない。恋などそのもっと先の話なのだ。今、一花とチャットで会話しているのでさえ梨花にとっては珍しいことなのだ。

 このまま話を打ち切ってルームから退室してしまおうかと梨花は迷う。一花とのチャットにストレスはなかったが、それでも会話を断ち切るような返事をしてしまったことが気になる。不快な思いをさせていないかと不安になる。

 たまたま話しかけられただけで、同じ学年でもなければアカウントの繋がりもない。このまま遮断しても問題ない。

「私もわからないわ」

 マウスのカーソルをウインドウを閉じるボタンに移動させた時に、一花からの返事が来た。

「好きな人がいたら素敵だと思うわ。だから、好きな人ができたら一緒に食事したいと思うけれど、誰かを好きになれるかって言われたらわからないの。だから、一緒ね」

 画面の文字を見て梨花は深い溜息を吐いた。なぜか一花の言葉に安心した。

「白井先輩は優しいですね」

「そんなことないわ。だって今日初めて辻井さんとおしゃべりしたんだもの。まだそんなことわからないわよ」

 画面の向こうの一花は笑っているかもしれないと梨花は想像した。一花の言うとおりだ。

「明日も、お話してくれますか」

「もちろんよ。明日も部室ルームにいるかしら」

「はい」

「今日はありがとう。楽しかったわ。また明日ね」

「はい。また明日」

 無意識に明日の約束をして、プライベートチャットのウインドウを閉じると梨花は椅子の背もたれに深くもたれてぼんやりと天井を見上げた。

 白井一花。三年生。それしか知らない。

 一年生の梨花が入学して三か月と少し、初めてふたりだけで会話をした相手。普段は授業や部活に参加するだけで、発言などしたことないのに。

 楽しかったな、と思う。

 梨花が人との会話で楽しいと感じたのは祖母と話している時が最後の記憶だ。その時以来の気持ちがふんわりと残っている。画面の文字列だけのやり取りで、顔も声も知らないのに明日の部活の時間を苦痛に感じない。ただ、パソコンをオンラインにして流れるチャットをよそに本に没頭している時間だったが、明日は違う。

 もたれていた体を上げて、「んっ」と梨花は伸びをする。

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