4  死んだはずの暗殺者との再会

 あれからどれだけ経ち、どうやって教会まで帰ったのか。

 エリュシアはまだ頭がぼんやりとしていたが、修道女たちがとうに寝静まった宿舎の廻廊かいろうを通って、血潮にそまった聖服を洗い、私室にもどった。聖女の聖服せいふくは血が落ちやすい特殊な絹で誂えられているため、しみも残らず綺麗になった。あとは刺されて破れた服の胸もとを縫っておくだけだ。


(聖女の禁を破った)


 震える指で針を持ち、暗殺されかけた痕跡を隠滅する。


(そのせいで他人ひとの命を奪ってしまった。なにがどうなったのかはわからなかったけれど、彼を死なせてしまったことだけは事実――私はなんてことを)


 縫い物を終えて、エリュシアは壁にもたれて膝を抱える。

 悔悟かいごの念が胸を締めつけた。だが、禁を破らなければ死んでいたのはエリュシアのほうだ。


 なぜ、誰からも崇拝される聖女が死を望まれているのか。

 暗殺者が差しむけられてきたということは聖女の暗殺を依頼したものがいるということだ。誰が、如何なる理由があって女神の意に背くようなことを考えるのか。あるいは女神を畏れぬエデンからの刺客か。


(わからない)


 ただ、確かなことはひとつ。


(なかったことにしないと)


 禁を破ったことも聖女でありながら死を望まれているということも、けっして知られてはならない。

 エリュシアは目蓋を塞いで、震える身をぎゅと抱き締めた。


 いつまでそうしていたのだろうか。


 朝の鐘が聴こえてきた。

 一睡もできなかったが、黄金の瞳をひらいて起きあがる。髪を梳き、乱れなく結わえて聖服を身にまとった。絹製の顔紗マスクをつけ、鏡を覗きこむ。

 聖女らしい清らかな微笑を湛えた娘が映る。


(だいじょうぶ、なかったことにできる)


 暗示をかけるように繰りかえす。


(だいじょうぶ)


 これはエリュシアが聖女候補に選ばれた時からのくせだ。

 胸のなかでだいじょうぶと繰りかえせば、どんなことだってへいきになる。傷ついたとき、疲れたときにはこうやって心に帳をおろすのだ。


 窓をひらいた。さわやかな朝の風が吹きこむ。

 ちょうど私室のドアがノックされて、鈴を転がすような声を掛けられた。


「おはようございます、お姉さま」


「まあ、はやいのですね、おはようございます」


 修道服をまとったハルモニアがにっこりと笑いかけてきた。


「ふふふ、だってお姉さまとお茶ができなかったぶん、一緒に朝ご飯を食べたかったんですもの」


「嬉しいです、ありがとう」


「えへ、いつも頑張っているお姉さまにはジャムをたっぷり乗せたスコーンにしましょうね。わたしが煮たんですよ、庭さきに木苺きいちごがいっぱい実ったので。収穫しながらついつい頬張っていたら、みんながうさぎみたいだって笑うんですよ」


「可愛らしいうさぎさんですね、ふふ」


 明るく喋りながらエリュシアは視線を鏡に投げて、ひそかに安堵する。よかった。ちゃんと笑えている。


 なにがあっても、微笑んでいないと。


(私は聖女だから)



  

        ꕥ

 



 都に滞在できたのは結局七日間で、エリュシアは北の国境にあるとりでに赴く事になった。


「聖服も顔紗マスクも身につけず、ですか?」


 予想外の命令にエリュシアはアルテミス司祭しさいに尋ねかえした。


「北の砦に駐留しているミュトス殿下から指令がありました。エデン軍からの奇襲に遭い負傷者が多数とのことです。砦まではいくつかの町を経由することになりますが、聖服を身にまとい顔紗マスクをつけ、教会の馬車に乗っていては民の視線を集め、遅延は避けられません。事態は一刻を争います」


 これまでも馬車の窓に幕をつけることはあったが、変装するなんて異例だ。いぶかしんだが、軍からの指令とあっては頷くほかになかった。


「承知いたしました」


「こちらがミュトス殿下が御用意くださった服です」


 渡された荷を受け取って、部屋で確かめる。


 貴族令嬢が身につけるような白いドレスだ。飾りたてられたものではないが、フリルの施された袖などが愛らしく、特に絹はそうとうに質のよいものをつかっているのか、肌に吸いつくようになめらかだ。


 修道服と聖服せいふくいがいに袖を通したことのなかったエリュシアはちょっとだけ嬉しくなって、わずかな疑いはすぐにどこかにいってしまった。


 着替えて、馬車に乗りこむ。

 砦には負傷した兵を看護する人員がいないため、ほかの修道女たちも後から八頭だての馬車で追いかけてきて、現地で落ちあうことになった。


 いくつかの町を抜け、森に差し掛かる。

 聖都ではそろそろ春が終わりかけているが、北部ということもあり日陰には雪が残っていた。雪解けで道がぬかるんでいて車輪が進みにくそうだ。


「日が落ちるまでに森を抜けたかったのですが、すみません」


 馭者ぎょしゃが頭をさげる。エリュシアは窓から身を乗りだし、馭者に声をかけた。


「あやまらないでください。聖火せいかをともしていますから、日が落ちても魔物に襲われることはないかと――――」


 言い終えるまでもなく、強い衝撃が身を貫いた。

 続けてつんざくような馬の嘶き。

 エリュシアは窓から投げだされ、地を転がる。背を強打したが、咄嗟に頭をかばった。馬車が横転したのだと理解したのがさきか、何処からか現れた男たちが馬車に群がって、命からがら這いだしてきた馭者を殺す。


「娘が乗っていたはずだ」

「娘を捜せ」


 刺客だ。


 エリュシアは悲鳴をあげかけたが、声を飲みこむ。森のなかに身をひそめようとしたが、しげみを踏み分けるだけでもどちらに逃げたかばれてしまった。


「あっちだ、捜せ!」


 男たちが追いかけてきた。

 エリュシアは懸命に走って逃げ続ける。


 聖女の死を望んでいるものがいる。


 だが、実際に聖女の暗殺を遂げられるものが、そうそういるだろうか。新月の晩に差しむけられてきた暗殺者は聖職者の命を奪う特異な暗殺者だった。だが彼らは違うはず。エデンの刺客かと疑ったが、彼らの言語は明らかにアルカディア語だ。それも育ちのよくない地方のなまりがある。 


 だとすれば、彼らは聖女だと知らずに命を狙っているのだ。


 エリュシアは振りかえり、胸に手を添えて声を張りあげた。


「私はアルカディアの聖女です」


 その宣言に刺客たちが足をとめる。


「なんだって」


 だが、すぐに戸惑いは嘲笑に変わる。


「は、お前みたいな娘が聖女様のはずがないだろう」


「嫁ぎさきから逃げだしてきた令嬢のくせに」


「聖女様を騙るなんて万死に値する」


 確かにエリュシアは日頃から顔紗マスクをつけており、素顔を知るのは教会のものだけだ。それでも懸命に訴えかけた。


「う、嘘ではありません、女神ロクスに誓って、私は」


「嬢ちゃん、その服は砂漠を渡って取り寄せた絹だろ。聖女様はそんな値の張る絹で飾りたてたりはなさらないんだよ」


 呆然となる。借りた服があだになるなんて想像だにしなかった。

 だが、なぜ教会はそれほどまでに高級な服を渡したのか。刺客にエリュシアは聖女ではないと想わせるためか?


 そこまで考えて、かぶりを振る。


 だめだ、教会を疑うなんて。


「なにより、本物の聖女様だったら女神の加護があるだろう。聖女様は火にかけられても燃えないし、水の底に沈められても溺れないって話だぜ。俺たちみたいなのに、易々と命を奪われるはずがない」


 エリュシアは青ざめ、草を蹴る。

 いまは考えている暇はない。とにかく逃げなければ。刺客たちを振りきるため、彼女は身長の二倍ほどの高さがある崖から飛びおりた。


 受け身を取り、逃げだす。


(どうしてこんなことになってしまったの)


 ねん挫したのか、足頚あしくびがずきずきと痛んだ。走り続けるのは困難だ。そう判断して、エリュシアは繁みに身をひそめる。

 刺客たちは坂を経由して崖を降りてきたが、草陰に隠れたエリュシアには気づかず通り過ぎていった。安堵したのがさきか、痛みに震えた足がぽきりと枝を割ってしまった。

 やや遅れてきた刺客が振りかえる。


「そこか」


 エリュシアは息をのみ、走りだしたが、負傷した娘が屈強な男の追跡から逃げられるはずはなかった。後ろから髪をつかまれる。


「きゃっ」


「さよならだ、偽聖女」


 刺客が剣を振りあげ、息の根を絶とうとする。だが、刺客の剣が、エリュシアの命を奪うことはなかった。


 投げナイフが視界の端を飛び、刺客の喉を貫通した。刺客は微かに声を洩らして、後ろに倒れ、息絶える。


 誰かが助けてくれたのか。それとも、新たな敵か。エリュシアは固唾かたずをのんで、投げナイフが飛んできたほうに視線をむけた。


 黄金の眼を見張る。


「あ、あぁ、そんなまさか」


 こんなことが、あっていいのか。


「七日振りかな、また逢えて嬉しいよ」


 上弦の月を背にして、死んだはずの男が微笑んでいた。

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