3  聖女、暗殺される

 教会の鐘が午後十一時を報せた。

 聖都は星鉱ルクスライトという鉱物から造られた街燈がいとうがあるため、日没を過ぎても人通りが盛んだが、さすがにこの時刻になると静まりかえっている。

 規則ただしく敷かれた石畳を響かせ、眠りについた町をいくのは聖女エリュシアだ。


 兵の宿舎にいき、施術をしてからサモス卿の経過を確認していたら帰路についたのが午後十時過ぎだった。あの邸から教会まで徒歩だと一時間ほどは掛かる。


 サモス卿は馬車をだしてくれるといったが、久し振りに都を眺めながら帰りますと辞退した。


(風に吹かれたかったのでちょうどよかった)


 都の風は暖かく、微かだがミモザの香りが漂ってきた。まもなく春は終わりだが、まだわずかに咲き残っているのだろうか。


 今晩は月のない晩だ。かわりに星が夜の帳を飾りつけ、瞬いている。あの一等星はスピカだ。砂漠のほうでは護られていない星というと聴いたことがある。


 教会に続く橋を渡る。

 堀に架かった石造りの橋で、四頭立ての馬車がすれ違えるほどの幅だ。高度もあって、百年程前に聖都が敵兵に占拠されたとき、修道女たちは純潔を奪われまいとこの橋から身を投げて殉死じゅんししたという。


 ふと影のうす帳を破り、むこう側から男が歩いてきた。


 先程までは誰もいなかったはず。

 エリュシアは奇妙におもったが、まもなくすれ違うところにまでせまっていたので、あからさまに避けるのもためらわれた。それに教会のほうからきたということは関係者だろう。


 それにしても、美しい男だ。貴公子ノーブルというべきだろうか。しなやかに背を張って踏みだす様からは気品が漂っている。

 だが、陰がある。

 陰というよりは凄みだろうか。荒んだ眼をしている。なにもかもに倦んでいるような。


 会釈だけして通りすぎよう。頭をさげ、すれ違いざまに男が声を掛けてきた。


「やァ、いい晩だね、聖女サマ」


 なにげない挨拶だ。それなのに、蛇でも絡みついてきたように総毛だち、エリュシアは息をのんで振りかえった。


 黒曜石オブシディアンの眼が視界に映る。虚ろな眼。底なしの奈落のような。


「キミは幸運だよ、こんな星の綺麗な晩に死ねるなんて」


 刹那、胸が燃えあがった。

 なにが起きているのか、理解が追いつかず、ゆるゆると視線をさげる。


「っ」


 エリュシアの胸に短剣が刺さっていた。


「なん、で」


「聖女サマの死を望むものがいるらしくてね」


 男は刺さったままの短剣をまわして、剣身のむきを変えた。肺を斬りきざまれる苦痛に悲鳴もあげられない。


「さァ、女神サマに祈れよ」


 エリュシアは聖騎士から聴いた噂を想いだす。

 聖職者の命を奪う暗殺者がいると。ついた異称は「神よ」という聖句を表す――そうか、この男が件の暗殺者キリエなのか。


 だが、なぜ、聖女が死を望まれなければならないのか。


「う、……あ」


 破れた心臓が脈うつほど、傷から血潮があふれる。


 致命傷だ。

 視界がかすむ。嗤っている男の貌が遠ざかる。あれほど酷かった痛みまでもが麻痺してきた。迫る死に意識が錆びついていく。

 考えることはひとつだ。


(死にたくない)


 震える腕を、懸命に持ちあげる。

 いまだに短剣が刺さっている胸に触れ、熟れた傷に指を差しこむ。


(こんなふうに理由も解らず)


 聖女の指が、透きとおる光を帯びた。


 彼女は咄嗟に聖女の奇蹟をつかって、自身の傷を塞ごうとした。

 女神から借りた奇蹟を自身に施すのは禁だ――だが、思考が鈍っていたエリュシアはその禁を破った。


 祝福の光は紋様を織りなすことなく、弾けた。

 剣身が砕ける。


 暗殺者の男が眼を見張り、唇からごぽりと血を喀いて後ろによろめいた。胸から血潮があふれ、ぼたぼたと地に落ちる。


 かわりにエリュシアの傷は嘘のように癒えていた。斬り裂かれた肺も破れた心臓も復元して、意識も明瞭になってきた。


 暗殺者の男は現実を受けいれられずに絶句していたが、せまる死を理解したらしい。


 転瞬てんしゅん――――彼は、笑った。


「俺が捜してたのはキミだったのか」


 空虚だった眼が、燃えたつような熱を帯びる。


「あァ、たまらないな」


 心の底から満たされたようにつぶやいて、彼は身を投げだすように後ろむきに橋から落ちていく。


 エリュシアは考える暇もなく、橋から身を乗りだして腕を伸ばした。助けなければと思った――だが、彼女の手は虚しく風を掻く。


 男の姿は暗やみの底へと吸いこまれていった。


「わ、私……そんな」


 残されたエリュシアは崩れるようにその場にすわりこむ。

 暗殺されかけたことより、男の命を奪ってしまったという現実が昏い絶望をともなって彼女の心を蝕む。


 声にならない悲鳴が、星の帳を震わせた。

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