2  聖女の奇蹟と不穏な死神

 教会には聖騎士せいきしと称される役職がある。教皇から祝福を享けた兵だけが聖騎士と名乗ることができ、兵の指揮を執ったり教皇の護衛や都の警備等といった重役につく。

 サモス卿もそのひとりだ。彼は五十歳になる熟練の聖騎士で、若いころからいまにいたるまで功績をあげ続けている。


「アルカディアの聖女、きてくれたか……うっ」


 サモス卿は寝台から身を起そうとして顔を顰めた。


「お気遣いなく、安静になさっていてください」


「聖女の御前だというのに、かたじけない」


 としを経ても衰えることを知らない筋骨隆々な男の腹には、血の滲む包帯が巻かれていた。施術のために包帯を解けば、禍々しく膿んだ傷があらわになった。


「なんてひどい」


 魔物の鉤爪かぎづめで裂かれたのだろう。致命傷にならなかったのは奇跡だ。

 魔物につけられた傷は薬での治癒が困難で、ある奇病を発症する危険もある。そうなっては聖女の奇蹟でも助けられない。


「ただちに治療させていただきます」


 エリュシアが手套てぶくろを外し、サモス卿の傷に触れた。

 聖女の手から透きとおる黄金の光があふれだす。光は円を描き、拡がって、神聖なる紋様で構成された陣を織りなし、施術を享けるサモス卿を取りまいた。


 続けて、サモス卿の傷から、禍々しい紋様が噴きだしてきた。


 あれは死だ。正確には苦痛、疲弊、破滅といった命を死に追いやるものが、あのようなかたちとなって具現している。そうした死の紋様が聖女の御手に吸いあげられ、浄化されていく。次第に傷が塞がってきた。


「っ……」


 エリュシアは眉根を寄せ、呼吸をつまらせる。だが、それは一瞬だけで、彼女はすぐに誰もを安堵させるような微笑を湛えた。

 まもなくして、傷はあとかたもなく癒えた。


「おお、まさに奇跡だ」


 サモス卿はエリュシアにむかって拝むように指を組む。


「感謝する、アルカディアの聖女」


「恐縮でございます。ですが、感謝でしたら私にではなく女神ロクスに祈りを捧げてください。私は女神の祝福をお借りしているに過ぎません」


 エリュシアがうながせば、サモス卿は「おお、それもそうだな。女神ロクスに永遠なる御光あれ」と唱えた。


「それにしても、人の領域に魔物が現れるなんて異常だ。終わらない戦争だけでも兵たちが消耗するばかりだというのに」


 魔物とは瘴気しょうきを吸って変異した動植物で、おもに人を捕食する。森や海、洞窟等に息をひそめており通り掛かった隊や旅人を襲うが、瘴気のない都に近寄ることはなく、まして城壁や堀を越えてくるなど考えられなかった。それにもかかわらず、昨今都や町に魔物が侵入するという異例の事件が頻発している。


「加えて、この頃は聖職者の命を奪う暗殺者がいるのだとか」


「暗殺者ですか?」


 暗殺者であっても、聖職者を害することは禁忌とされている。神聖アルカディアの民は総じて聖ロクス教徒だからだ。


「確か、キリエと称されているんだったか。息の根をとめる時に「神に祈れキリエ」とうながすそうだ。なんて不敬な。神の言葉を騙って神につかえる者の命を奪うなど」


 サモス卿は怒りをあらわにする。だが喋りすぎたとおもったのか、頭を振る。


「すまない。聖女様の御耳を汚してしまった」


「とんでもございません」

 現実が幸福だけで満たされているものではないことを、彼女は知っている。


「ほかにも負傷した兵がいる。聖女の奇蹟を賜れるだろうか」


「もちろんです」


 教会の馬車は民の視線を集めるため、帰した。兵の宿舎までは徒歩で移動できる距離だが、兵たちの治療をしてから教会まで帰るとなれば夜になるだろう。それでも奇蹟を望むものがいるかぎり、何処になりとむかう。


 それが、聖女の使命だからだ。

 


 アルカディアの聖女は愛されている。

 



        ꕥ

 



 凱旋を終えても、都はまだ、賑わいが絶えなかった。

 表通りにあるカフェの二階のバルコニーで紅茶を飲みながら、聖女の凱旋を眺めていた男がいた。

 濡れたカラスを想わせる黒髪を背に垂らし、華のある顔だちをした男だ。暗い紫のドレスシャツを品のいい程度に着崩している。貴族のような瀟洒しょうしゃな趣きがあった。町を歩けば、男女を問わず振りかえることだろうとまで想像できるのに、こんなふうに優雅に茶を飲んでいても、誰も彼に視線を投げかけることもなく、それどころか彼がいることを認識すらしていないかのような奇妙な感覚があった。擬態するように風景に融けこんでいる。


「聖女サマ、ねェ」


 彼が声を発したとたん、まわりにいたものたちがいっせいに振りむいた。


 たった今、彼を認識したとばかりに婦人たちは「まあ」と頬をそめ、男たちは困惑を表す。盆を持って慌ただしく接客をしていた女までもが動きをとめた。


「ただの年端もいかない娘みたいだったが、そんなに素晴らしいものなのかい?」


 男の尋ねかけに客のひとりが身を乗りだす。


「おやまあ、聖女様を知らないなんて、めずらしいね。地方からきたのかい? 聖女様はそりゃあもう、偉大な御方だよ。なんたって女神様の祝福をけているんだからね」


「そうそう、聖女様がおられるかぎり、神聖アルカディアは安泰ですよ」


「なにがあっても聖女様が救ってくださるからね」


 男も女も老いも若きも口を揃えて、聖女を褒めたたえる。


「へえ、救ってくださる、か。それは有難いね。それじゃア、聖女サマっていうのは誰からも愛されているのか」


 意外そうな男の言葉に群衆は胸を張る。


「とうぜんだよ。聖女様を愛していないものなんて、神聖アルカディアにはいないね」


「聖女様も民を等しく愛してくださっているんだから」


 民たちは聖女様がいかに素晴らしいひとかを賑やかに喋り続けている。なかには聖女様に助けてもらったというものもいて、尋ねかけた男をそっちのけに盛りあがっていた。


「……わからないものだねェ」


 車窓から手を振り続けていた聖女の姿を想いだし、男は微かに嗤う。冷酷な微笑を織りまぜて、彼は低い声で続けた。


「誰からも敬愛される聖女サマが死を望まれているなんてさ」


 男の不穏なつぶやきは誰に聴かれることもなく、風に散らされていった。彼は残りの紅茶を飲みほして、銅貨を二枚、テーブルの端に乗せる。


「ごちそうさま」


 誰も男を振りかえらない。


 賑やかな客たちのあいだをすり抜け、階段をおりて表通りにでる。

 神聖アルカディアの都は殷賑いんしんをきわめている。人口は約八万程という中規模な都だが、聖ロクス教会を中心に据えて放射線状に拡がる町なみは洗練されており、豊かさを感じさせる。


 黄昏がせまり、舗道に街燈がいとうがつき始めていた。


(あァ、くだらないなァ)


 神聖アルカディアの聖女と聴いて、どんな娘かと想っていたが、期待はずれだと男はため息をついた。聖女のどんなところが素晴らしいのかと尋ねても、民たちはそろいも揃って「助けてくれた」「救ってくれる」と唱えるだけだ。自分にどのような恩恵を施してくれるのか。欲得よくとくに基づいてしか、ひとの重さをはかれない。


 そんな民に愛想を振りまくあの聖女もまた。


「ほんとに飽き飽きするよ。なにか、俺を魂の底から燃やしてくれるような愉快なものはないのか」


 男が歩きながら、演技めいた振る舞いで腕を拡げる。

 声を落とさずに喋っていても、すれ違うものたちが男の声に耳を傾けることはなかった。彼が意識して、聴かせようとしないかぎり。


「そんなものがあったら」


 男は空虚くうきょわらいをこぼす。


「俺は死んだってかまわないね」

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