その愛は致命的 死を望まれた聖女は暗殺者の愛に惜しみなく奪われる

夢見里 龍

1  愛され聖女の陰と光

 聖女は殺されようとしていた。

 

 ……

 

 上弦の月がわらっている。


 娘がひとり、息を切らしてうす暗い夜の森をかけ続けていた。

 いまはわけあって、教会の聖服せいふくではなく令嬢のような白いドレスを身につけているが、彼女はこの神聖アルカディアの聖女せいじょである。

 聖女の脚からは血が滲み、服の袖はぼろぼろに破れている。横転した馬車から投げだされた時に枝にあたって裂けたのだろう。踏みだすだけでも足がずきずきと痛む。


 だが、立ちどまるわけにはいかなかった。


 後ろから刺客が追い掛けてきている。

 森のなかには月明かりを吸って光を放つ白い花々が咲き群れており、彼女はそれを頼りに逃げ続けていたが、負傷した娘の足では到底逃げ切れるはずもない。


「きゃっ」


 金とも銀ともつかない髪をつかまれ、娘が悲鳴をあげる。


「さよならだ、偽聖女にせせいじょ


 刺客が剣を振りあげたそのとき、風が唸った。銀の光が視界を横切る。続けて刺客の声にならない声が聴こえた。

 聖女が息をのんで振りかえると、喉を投げナイフで貫通された刺客が後ろむきに倒れていくところだった。かひゅうと最後の息が洩れて、それきり刺客は動かなくなる。


 聖女が慌てて、視線を戻す。


「そんな、まさか」


 想像だにしなかった男の姿に聖女は眼を見張り、凍りついた。


「七日振りかな、また逢えて嬉しいよ」


 上弦の月を背にして、息をのむほどに美しい男がたたずんでいた。


 宵の帳を想わせる髪に微笑を湛えていても酷薄さを漂わせた美貌。に見た時と変わらない。ひとつだけ違うのは双眸ひとみだ。


 黒曜石オブシディアンを想わせる漆黒の眼をしていたはずが、あざやかな真紅に変わっている。そればかりか、男の眼は暗やみのなかで妖しい輝きを帯びていた。


「あァ、勘違いしないでくれ」


 男は微笑みながら、月を奪うように背から翼を拡げた。竜を連想させるそれは天使ではなく、明らかに悪魔アクマの翼だ。


 男は地獄に誘うように腕を差し延べてきた。


「俺はキミを救いにきたんだよ、聖女サマ」

 

 


 なぜ、こんなことになってしまったのか。


 聖女は絶望の底で考える。思いかえせば、八カ月振りに都に帰還したあの晩から、彼女の運命は音をたてて崩れはじめた――

 



        ꕥ

 



 神聖アルカディア。

 大陸の西部にあるこの教国は聖ロクス教会によって統轄されている。聖ロクス教会が信仰するのは天命てんめいの女神ロクスで、女神の祝福を享けたものはアルカディアの聖女と称された。神の祝福を授かるのはこの地でただひとりだけ。選ばれし聖女はいかなる傷でも癒す奇蹟きせきの御力を持ち、民から崇拝されていた。


 そんな聖女が八カ月振りに都に帰還するとあって、聖都せいとは朝から祭りのような賑わいだった。民衆は表通りに列をなして、教会御用達の馬車が通りがかるのを今か今かと待っている。


 真っ白な二頭だての馬車が橋を渡って入都した。民は旗を振りながら歓声をあげ、聖女を迎える。その様子は英雄の凱旋がいせんを想わせた。


「アルカディアの聖女に女神ロクスの祝福あれ」

「聖女様万歳」

「聖女様に祝福を」


 馬車のなかにいた聖女エリュシア゠キュア・ロクスは民衆の声を聴き、窓から身を乗りだす。金糸と銀糸を縒りあわせたような輝きのある髪が風に拡がる。民を眺め、彼女は白絹の顔紗マスク越しに完璧な微笑を振りまいた。


「アルカディアの民に女神の御光があらんことを」


 民が湧きたつ。


 刺繍の施された白い手套てぶくろがはためくたびに民衆たちは祈りを捧げ、感極まって涙するものまでいた。エリュシアは教会の門をくぐり、民の声が聴こえなくなるまで振りかえって手を振り続けた。

 馬が嘶き、教会の敷地で停車する。聖都の教会は皇城こうじょうとひとつになっている。


「聖女様、よくぞ帰還されました」


 聖女を迎えにきた修道女たちが馬車を取りかこんだ。


「聖女様、お務め、お疲れ様でございます」


「またも大勢の聖兵たちの命を救われたとか、さすがですわ」


 エリュシアは馬車から降りて、修道女たちに「皆様、お迎えいただきまして、ありがとうございます」と頭をさげる。


「お姉さまっ」


 声を弾ませ、エリュシアに抱きついてきた修道女がいた。緑の髪をみつあみにして垂らして花飾りをつけた年端もいかない娘だ。


「まあ、ハルモニア、そんなに慌ててどうしたのですか」


「だってだってお姉さまがおられなくて、わたし、とってもさびしかったんです」


 ハルモニア゠ティア・ロクスは緑琥珀グリーンアンバーのような瞳を潤ませた。


「わたしもお姉さまとご一緒したかったのに」


「あなたの気持ちは嬉しいですが、このたびの遠征先は最前線でしたから、そのような危険なところに愛する妹を連れてはいけません」


「でもでも、わたしだって聖女候補でしたのよ。ちゃんとお勉強もしています。お姉さまの御役にたてたはずですのに」


 ハルモニアはぷうと頬を膨らませる。


「お姉さま」「妹」と呼びあってはいるが、ふたりに血のつながりはない。教会でともに育った姉妹というだけだ。エリュシアは十七歳でハルモニアは十五歳とふたつ違いだが、そうは想えないほどにハルモニアの言動は幼かった。それもまた、彼女の可愛らしさのひとつで、みなから愛されている。


「しばらく都におられるんですよね? お姉さま」


「そうですね、十五日程は滞在することになるとおもいます」


「また遠征ですか? 今度こそハルモニアも連れていってくださいね」


「アルテミス司祭に相談しておきますね」


「ええっ、アルテミス司祭はぜったいにだめっていうにきまっています。このあいだも叱られちゃって」


 神聖アルカディアは東にあるエデンと戦争を続けている。発端は宗教戦争だったが、すでに互いの領地を侵略するものに変わっていた。特にこの七年程は戦争が激化しており、国境にある最前線では兵隊たちが苛烈な防衛戦を強いられている。よって聖女の奇蹟に縋るものが後を絶たなかった。


「そうだ、ちょうどラヴァニが焼きあがったところだったんですよ。えへ、お姉さまと一緒に食べようとおもって。お茶にしましょうよ、ね、いいでしょう?」


「ありがとう、嬉しいです」


 ラヴァニはこの地域の伝統菓子で、蜂蜜をたっぷりと吸わせたスポンジケーキだ。バターをぜいたくにつかったケーキからあふれだす蜂蜜を想像して、エリュシアはちょっとだけ胸を弾ませた。


 その時だ。


「聖女エリュシア、帰還しましたか」


 教鞭がしなるような張りのある声が聴こえて、修道女たちが後ろにさがる。進みでてきたのは眼鏡をかけ、銀糸が織りこまれた特殊な聖服を身にまとった女だ。青碧の髪をひとつにまとめ、みだれなく結わえている。


「アルテミス司祭、ただいま帰って参りました」


 聖服の裾をつまみ、エリュシアは丁寧に辞儀をした。


「さすがはアルカディアの聖女です。あなたが娘であるということは私の誇りですよ」


「有難き御言葉です、お母様」


 アルテミスはエリュシアの育ての親だ。


 エリュシアは五歳の時に親から捨てられ、この教会で育ってきた。わきまえを持ち、普段はアルテミス司祭と呼んでいるが、娘として褒められた時だけは「お母様」ということが許されている。


「帰還したばかりではありますが、聖女に依頼がきています。一ヵ月前に魔物が都へと侵入し、応戦した騎士が負傷しました。サモス卿です」


「サモス卿というと熟練の騎士様ですね」


「左様です。傷がいまだに塞がらないとのことです。邸に赴き、聖女の奇蹟をもって傷の浄化をして差しあげてください」


「承知いたしました」


 ハルモニアが「ええっ」としょんぼりする。


「ごめんなさい、帰ってきてからいただきますね。残しておいていただけますか?」


「そんなあ、せっかくお姉さまと一緒にお茶ができるとおもってたのに」


「ふふ、またいつだってできますよ。荷物だけ、私室に運んでおいていただいてもいいでしょうか」


 ハルモニアに荷を預け、エリュシアは再度馬車に乗りこむ。


 馬車に揺られながら、彼女は顔紗マスクのなかで微かに苦笑めいた息をついた。張りつめた弦を弛ませるような呼吸。


 食事の時を除き、鼻から口までを覆う顔紗マスクを身につけるのは聖女にさだめられた規則だ。聖女は女神の現化である。

 とうときその素顔を晒すことは慎むべきという掟だが、時々息苦しさを感じる。


(ラヴァニか。食べたかったな)


 お腹が減った。


 思いかえせば、朝に硬いパンをひとかけら食べたきりだ。だが、食べる物にこまるひとたちがいるなかで、聖女たるものがそんなわがままをいってはならない。エリュシアは空腹を紛らわすように馬車の窓に視線を投げた。

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