5 「俺はキミを救いにきたんだよ、聖女サマ」

「七日振りかな、また逢えて嬉しいよ」


 上弦の月を背にして、死んだはずの男が微笑んでいた。

 割れた石榴ザクロのようなくれないの眼が妖しく瞬く。あの晩聖女を殺そうとした暗殺者――キリエだ。


「あ、あなたは死んだはずでは」


 理解を超えた現実に恐怖がこみあげてきた。エリュシアの言葉にキリエは邪悪な微笑を浮かべ、ゆっくりと近寄ってきた。


「そう、死んだよ。キミに殺されてね」


 本能が強い恐怖を訴えているのに、真紅の眼差しに縛られたように動けない。


「地獄に落ちたが、これまで俺が命を奪ってきた奴らがそろいも揃って地獄にいてね、気分が悪いから殺しなおしてまわっていたら追放されてしまった。まァ、願ってもない幸いだったよ、またこうしてキミに逢えた」


 熱のない指が、強張った娘の頬をなでた。死者の指だ。

 死後、地獄からよみがえってきたなんてにわかには信じがたかったが、命のない指に触れられて現実を受けいれざるを得なかった。


「復讐をなさる、つもりですか?」


 怨嗟うらみを抱えた死者は亡霊となって、現を彷徨うことがあると聴いたことがある。


「まさか」


 キリエは唇の端をあげ、続けた。


「あァ、勘違いしないでくれ」


 風がざあと舞いあがる。

 彼の背から、邪悪な竜に似た翼が拡がる。地獄の劫火ごうかに燃やしつくされたようなすすいろの翼だ。

 彼は嗤いながら、誘惑するように腕を差しだしてきた。


「俺はキミを救いにきたんだよ、聖女サマ」


 エリュシアは彼の考えていることが理解できず、すくむ。


「俺はこれまで飽きるほどに殺してきたが、殺されるというのは未経験でね、しかも剣ひとつ扱えないような娘にだ」


 キリエは昂揚して喋りながら、その眼を熟した果実のように蕩かせた。


「魂ごと奪われたようなきぶんだったね、最ッ高だよ」


 彼の様子から異様さを感じ、エリュシアは後退する。だが、逃がさないとばかりに腕をつかまれた。


「さァ、聖女サマ、契約を結ぼうか」


 ああ、そうか。


 地獄に落ちて、そこから追放されたものがどうなるのか。エリュシアは今頃になって理解した。

 亡霊なんて、なま易しいものではない。


 この男は悪魔アクマとなったのだ。


「代償が、あるのですね?」


「正確には契約というよりは賭けかな。契約をかわせば、俺はキミを害するあらゆるものから助けてあげよう。だが今後キミが絶望し、俺に「殺してくれ」と頼んだら、その時は死後の魂をもらう」


「魂を奪われるとどうなるのですか」


「俺に捕らわれて理想郷にも地獄にもいけず、凍てつくような永遠を味わうことになる」


 エリュシアは唇をかみ締める。

 遠くから男たちの声が聴こえてきた。追いつかれたら殺される。せまる死期。動かない脚。あふれかえる血潮の臭い。悪魔アクマは嗤っている。


「分の悪い賭けじゃないだろう?」


 一理ある。それどころか、有利に聴こえる。だが、そんな賭けにこそ罠があるものだ。拷問され、死を懇願するように強いられないともかぎらない。


「どちらにせよ、キミは俺を選ぶしかない。……死にたくないんだろう?」


「……ええ」


 なにを捧げることになっても、生き残りたい。死にたくない。

 だって、こんなところで息絶えたらどうなる――胸もとで指を組んで、彼女は声を振りしぼった。


「死ぬわけには、参りません。いまこの時だって聖女の奇蹟を待っている人たちがいる。そのかぎり、私は死ねない」


 キリエは嬉しそうに微笑んで、エリュシアの腕を強くひき寄せた。

 くれないの眼がせまる。熟れすぎた林檎リンゴか、落ちた石榴ザクロか。禁忌の果実を想わせるその眼に魅入られたのがさきか。


「っ」


 唇を奪われた。


 抵抗しようとしたが、背けられないように頭の後ろをつかまれ、腰を抱き寄せられた。

 舌を差しこまれ、呼吸まで掻きみだされる。蛇のようにいっさいの熱がないのに、触れあう舌だけが燃えるように熱かった。


 違う、ほんとうに舌の表が燃えている。奴隷の烙印らくいんを捺されているような。

 たえかねて舌をかみそうになったとき、ふっと唇が離れていった。


「舌に契約の証を刻ませてもらったよ。眼でもよかったが……他人には知られたくないだろう?」


 よろめいて崩れそうになったエリュシアを抱き締め、男は悪辣あくらつにささやいた。


「さァ、俺をんでごらん。その舌をつかって命令するんだ、あいつらをせん滅しろと」


 刺客たちがいっせいに姿を現す。全員が剣を構え「聖女がいたぞ」と声をあげ、斬りかかってきた。


 痺れる舌を動かして、喚ぶ。


「――――キリエ、私を助けて」


 神を騙る悪魔アクマが嗤った。


「いいだ。あとは眼でもつむっているといい、なに、すぐに終わる」



 嵐が逆巻いた。

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