第十話 けっせん
知花の家までの道中で、私はずっと、知花の手を握っていた。手袋越しに伝わってくる震えは、三分くらいで絶頂に達して、私が知花の頬にキスをすると、リセットされる。その規則正しい周期は、私たちがどこにいようとも全く乱れず、その時が来たなら、私は迷わずに、知花の頬にある透明なリセットボタンを、唇で押した。駅の人混みの中でも、両隣に人が座っている電車の中でも。
クリスマスの朝の厳しい冷気は、私から体温を奪った。そしてその分、繋がれた手から伝わる知花の高い体温を、私に強く感じさせた。雑に言うと……というか、雑にしか言えないけど、とにかく、「最強!」って感じだった。
道中で浴びせられた訝し気な視線も、これから知花のお母さんに浴びせられるかもしれない、想像を絶するような罵詈雑言も、もう怖くなかった。
「……あれ、私の家」
知花はそう言って、住宅街に入る道の奥側に見える、古いアパートを指さした。そして、その指の震えに気づいた私は、最後に一つ、知花の唇にキスをした。
「ふふっ、甘えん坊だなあ」
ソフトタッチで終わらせるはずだったが、知花が後頭部に手を回してきて、唇を離してくれなかったので、長い長いキスになった。
「ねえ蕾花、愛してるって言って」
ここは歩道のド真ん中で、さっきからずっと、背中に密な視線を感じているから、もうイチャイチャはやめにしたかった。だけど、知花の潤んだ目の色気に惑わされて、つい断れなかった。
「愛してる」
「ありがとう、私も」
犬の散歩をしている小学校高学年くらいの男の子が、申し訳なさそうに隣を歩いて行った。「よし、この甘えん坊を何とか満足させられたぞ」と、小さな達成感が湧いてきたが、その直後、私の頭は真っ白になった。
「えっ、ちょっ……」
さっきと違い、頭を押さえてこなかったのが憎らしい。「嫌なら拒否していいんだよ?」と、手玉に取られているような気分だ。背中に感じていたあの視線が消えていたのが、唯一の救いだ。
「……バカ」
「ふふっ、ありがとう。これで勇気凛々、元気満々だよ」
久しぶりのディープキスの余韻に、動けなくなっている私を尻目に、知花はズンズンと歩いていく。私は小走りで、その背中を追いかけた。
「じゃあ、押すよ」
私の返事を待たず、そう言ったのと同時にチャイムを押した知花。私は身構えて、臨戦態勢に入った。ついに、決戦の時だ。
「……あー、なるほど」
出てきた知花のお母さんの第一声は、それだった。怒っている様子でも、動揺している様子でもなく、ただ無表情に、そう呟いただけだった。
「夜に家を抜け出して、お忍びで会っている恋人がいるのは、知っていたけど、まさか女の子だったとはね」
『……えっ?』
知花と声が重なった。まさに「開いた口が塞がらない」という状況だった。だけど彼女は、そんな私たちの様子も、まるで意に介していないような様子で、無表情を貫いている。知花から聞いていた通りの、目つきが鋭くて険しい顔だ。
「で、要件は?」
「……今までみたいに、テストの結果が悪かった時、私に暴力を振るうのをやめて」
代わりに言おうとした私を手で制して、まるで命令するかのように、堂々とした声で言った知花。知花のお母さんの表情が、やっと少し動いた。
「無理よ。嫌なら、この家から出て行って。私の望む役割を果たせないのなら、もう要らないから」
無表情だった目には、見下すような冷たさが宿っている。怒りよりも先に、体の竦むような寒気が来て、私は隣を振り向いた。
「えっ」
誰にも聞こえないような、小さい小さい絶望の声を漏らす。見てはいけないものを見てしまった気分になったが、私は、どうしても視線を逸らせなかった。まるで、実体のないはずの視線が凍りつき、繋がれてしまったように。
二人の目は、形以外の全てが、同じだった。
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