第九話 わくわく
「……知花、どうしたの?」
ぼやけた目をこすりながら訊く。窓から差し込む微かな朝日は、部屋の真ん中に立つ知花を照らしている。中途半端な時間だ、まだ起きるには早い。
「あっ、ごめん。起こしちゃったね」
眠れなかったのか、疲れが取れていない様子の知花が、ゆっくりとこちらを振り向く。私は、心配になって起き上がり、知花のところまで歩いて行った。
「お母さんとの話し合い、心配なの?」
「まあね。あの人と話が通じるとは、思ってないから。蕾花にも、嫌な思いをさせてしまうかも」
諦めが伝わってくるような、穏やかな口調だった。
「知花はナイーブだね。私の覚悟を甘く見ないでよ。私は知花となら……」
「地獄にだって、一緒に堕ちる覚悟だよ」
言おうとしていたセリフを、ほぼそのまま言われたので驚いた。そんな私の表情の変化を読み取ると、知花は優しい微笑みを浮かべて、こう言った。
「予防接種と一緒だよ。どうってことなくても、怖いものは怖いの」
――目とそれ以外との温度差が、ヒートショックを起こしそうなくらい激しかった。知花は、笑顔のまま黙り込み、色々な感情が混ざり合って真っ黒になった目で、私を見つめていた。
「……だけど、蕾花の声を聞いて少し安心した。多少遅くなってもいいし、二度寝しよう」
しばらくの沈黙の後、彼女の目が元に戻ったのと同時に、私はやっと、息苦しさから解放された。知花は、驚きの切り替えの早さで、大きなあくびをし、ベッドまで歩いて行った。
その時、ふと覗いた赤く滑らかな舌に、思わず自分の舌を絡めたくなったので、私は更に動揺した。どうやら、疲労回復と共に、性欲まで元に戻っているらしい。
「声を聞くより、あのまま抱き合って眠っていた方が、安心したと思うけど?」
黙っていると、どんどん顔が赤くなっていきそうだったから、私は、知花に話しかけることでごまかした。
「ああ、それなんだけどね……昔の恋について追求するほど、私も重くないけど、眠っている時の蕾花、ずっと男の子の名前を呼んでたよ。『コースケ君、コースケ君』って」
私はドキッとした。だが、それは知花の言う通り、その「コースケ君」というのが、昔の恋人の名前だったからではなかった。
「……きっと、あの頃の夢を見てたからだな。それね、お父さんの名前なの。昔のお母さん、お父さんのことを『
ノスタルジックな気持ちになりかけたが、そんな余韻は、知花の言葉で吹き飛んだ。
「私たち、いいお母さんになろうね」
「……えっ?」
頭が真っ白になって、口をポカンと開けたまま、立ち尽くしていた。しみじみとした顔の知花との対比が、傍から見たら、なんとも可笑しかったことだろう。
「人工授精とか体外受精はダメ……というか、私は嫌だな。それよりも、養子をもらいたい。例え血が繋がっていなくてもいい、私たちと同じように孤独な子を、救ってあげたいの」
そう語る知花は、とても堂々としていた。私たちの未来を、心の底から信じているように。その姿を見て私は、「本当に臆病だったのは、実は知花ではなく、自分だったのかもしれない」と思った。自分から「恋人」と言っておいて、私はまだ、知花とのこれからに、不安を抱いていたんだ。
「おやすみ、ダーリン」
ダーリン。英語で書くと、darling。知花が時々、満面の笑みで口にするので、気になって英和辞典で調べてみたことがある。
恋人の男性に対して使う言葉だと思っていたが、本来の意味に男女の区別はない。それどころか、家族なら誰にでも、子供にも孫にも使うらしい。
「おやすみ、ダーリン」
それからしばらくの間、私は、知花の髪を撫でていた。すると知花は、安心しきったあどけない表情で、すやすやと眠りについた。その姿を目で堪能してから、「さて、私も寝るか」と目を閉じたが、さっきとは状況が逆転して、今度は私が眠れなかった。
前から見えていたことに、今さら気がついただけなのに、躍った心が静まってくれない。知花とやりたいことは、見たい景色は、オーバーフローして、逆に一つも思いつかないくらいあるけど、とりあえず今日からは、外でも構わずダーリンと呼ぼう。あの意外な発見を、みんなにもお裾分けするんだ。
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