第八話 ぎゅっと
「今日は、もう寝ようか。明日は、知花のお母さんと戦うから、英気を養っておかないと。私、シャワー浴びてくる」
「わかった。私は、自分の家で浴びてきたから、先に横になってるね」
頭も体も、いつもよりずっと適当に洗った。「やり終えた」と実感した途端、一気に疲れが湧き出てきて、ドライヤーで髪を乾かす時間すら、苦痛なくらいだった。
「えっ」
ふらついた足取りで自室まで戻り、中に入ろうとした時のこと。私は、微かに聞こえてきた、知花の押し殺したような泣き声に、思わず声を漏らした。
「知花、どうしたの?」
焦ってドアを開ける。私のパジャマに着替えた知花は、隠していたはずの例の服と、例のバスタオルを持って、さめざめと泣いていた。次の瞬間、顔全体が火のついたように火照ったのを感じ、私は立ち尽くした。
「あっ、あの、それはね、そのぉ……」
恥ずかしさに容量のほとんどを取られて、私の頭からはしばらくの間、「知花が泣いている」という情報が消えていた。
「…………」
ちょっと待って、どうして黙ってるの? 私、お風呂上りなんだけど。血圧、ただでさえ高くなってるんだけど。心臓、爆発しちゃってもいいの?
そんなことを、心の中で訴え続けていた。振り返ると、なんだかバカみたいだ。
「蕾花」
私の名前を呼び、やっとこっちを向いた知花。「変態!」と言われる気がして、私は思わず身構えた。
「本当に、ごめんなさい」
「えっ、急にどうしたの?」
「いや、だからさ……この前、私、本当に酷いことをしたなって。許してもらうための今夜の行動だって、すごく不誠実だった」
そうだった、知花は今、泣いてるんだ。やっと思い出した私は、大急ぎで真面目モードに切り替えた。
「蕾花が、私のこと、あんまり責めないから、私も甘えちゃって、このまま忘れようとしたけど……これを見つけちゃったら、もう無理だよ」
絞り出した言葉の量に比例して、涙の量が多く、漏れる声が大きくなっていく。
「最低だよね。自分だって、蕾花の家庭の事情、少しも知ろうとしなかったのに、棚に上げて、癇癪を起してさ」
かける言葉を探すが、中々見つからない。それもそのはずだ。客観的に考えてみれば、あの夜の知花の仕打ちは、確かに酷いものなのだから。
「それに、『餞別』ってなにさ。『私はあなたを捨てますが、あなたは私のことを忘れられないでしょうから、せいぜいこれで、オナニーでもしていてください』って? そんなの、人間として終わってる。……本当に私、最低だ」
声を荒げて自分自身を罵ると、知花は、持っていたものを近くに放り捨てて、カーペットの上に大の字になった。そして、力なく曲げた腕で目を覆い、ついに声を上げて泣き始めた。
「……自分で『もう、ここには来ない』って言ったくせにさ、実は私、たった三日で耐えられなくなったんだ。死ぬほど寂しくて、『蕾花は私のこと、どう思ってたのかな?』なんて、ベッドの中で考えては、自爆して泣いてた」
愛おしさで、胸がキュッと締めつけられた。やっぱり私は、こういう知花の真面目で正直なところ、どうしようもなく大好きだ。
「知花……」
じっとしていられなくて、頭を撫でようと手を伸ばしたけど、振り払われてしまった。
「今は待って」
親の手助けを突っ撥ねる子供のような、妙に確固とした口調だ。言われてしまったので仕方がなく、少しの間は、私も黙っていたけど、すぐに我慢の限界が来た。あいにく私は、泣いている恋人を放置できるほど、我慢強い人間じゃない。
「……どう思ってたか? そんなの決まってるでしょ。昔も今も、知花は私の大切な恋人だよ」
アプローチの仕方を変えて、今度は手をギュッと握った。
「相手を深く傷つけてしまっても、『ごめんなさい』の一言で、笑って許し合えるような関係って、素敵じゃない? 私は知花と、そうなりたいの。だからさ、もうこの話はおしまい。それでも、まだ罪滅ぼしがしたいと言うなら……今度は、お尻でも揉ませてよ」
――泣き声は、いつの間にか止んでいた。少しの沈黙の後、知花はおもむろに顔から腕を下ろした。
「……そうだね。じゃあ、もう気にしない!」
さっきまで泣いていたのが嘘のような、晴れやかな笑顔だった。それから私たちは、お互い何の言葉も交わさずに、引き寄せられるように抱きしめ合った。
「ねえ、全部、終わったらさ、一緒に、デート、しようね」
餌をついばむ小鳥のように、唇を少しくっつけるだけのキスを、何度も繰り返していた知花。
「話しにくい、ちょっと、ストップ」
「やだ」
言っても聞いてくれないので、両手で頬っぺたを押さえ、強制的にストップした。
「デート、どこに行きたい?」
知花の柔らかい頬っぺたを、スクイーズのようにいじりながら、そう訊いた。
「イルミネーション」
嫌がる様子もなく、されるがままの知花は、モゴモゴと口を動かして答えてくれた。
「そっか。いいね、イルミネーション」
知花と色々なお喋りをしながら、私はひとしきり、知花の頬っぺたの感触を楽しんだ。やがて、睡魔が襲ってくると、私は知花の脇に両腕を差し込んで、一緒に立ちあがり、そしてベッドに倒れ込んだ。
「知花、おやすみ」
「おやすみぃ」
知花の高い体温が、知花の甘い匂いが、知花の優しい感触が、体を包んでいる。
今夜は久しぶりに、気持ちよく眠れそうだ。
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