第七話 はらはら
「……やめて」
「ごめん、よく聞こえない」
「だから、その……やめて!」
永遠のような数秒が、やっと終わった。首を絞められているように、息苦しくてたまらない。
「そっか、わかった。でも、どうして?」
ボトルを静かに食卓に置き、さっきまでとは打って変わった穏やかな声で、そう訊いた知花。こちらを振り向かないものだから、表情まではわからない。
「知花が人を殺すとこ、見たくないから」
そう答えると、知花は背を向けたまま、肩を小さく揺らして笑った。口に出してみると、自分でも可笑しくなってくる。なんて幼稚な理由なんだろう。
「そう言ってくれると、思ってたよ。私も、蕾花が人を殺すところ、見たくないから、この話はなしで」
さっきまでの怒りが、夢のように消えていった。やっと振り向いた知花は、曇天を晴らすような明るい笑みを、サプライズの花束のように、私に見せてくれた。
「お母さん、楽しい晩酌の時間を邪魔しちゃって、ごめんね。話し合いは、これでおしまい。やっぱり私たち、わかり合えないからさ」
馬鹿らしくなってきた。こんな無駄なことに、これ以上、時間を割きたくないと思った。早く部屋に戻って、知花とイチャイチャしたい。
「ただ一つ、これだけは覚えておいてね」
そう言うと、お母さんは不意に緊張して、手に持ったボトルを置いた。
「私と知花の関係を、絶対に、邪魔しないで」
まるで化学変化のようだ。私のその言葉が試薬になったように、お母さんの顔からは、みるみるうちに酔いの気色が消えていった。あまりの急激な変化に怖くなって、私は知花の手を求めた。すると知花は、すぐに私の手を握ってくれた。
「……私って、蕾花にスマホを買い与えてた?」
「えっ? まあ、そうだね」
唐突な質問に戸惑っていた。続けて、「私のメールアドレスか、電話番号は知ってる?」と訊いてきたので、また「うん」と答えた。
「じゃあ、今度からは、私に戻って来てほしい時に、蕾花から連絡して。今までは、月に一回くらいのペースで、勝手に帰って来てたけど、もうやめるわ」
無表情でそう告げると、お母さんは立ち上がって、床に放り投げたバッグを拾った。
「私のことは気にせず、ここに二人で住みなさい。知花ちゃんのこと、守ってあげて」
そう言って、お母さんは、意味ありげに知花の太ももを指さした。つられて、私も視線を移す。
「あっ……」
そこにあったのは、痛々しいあざだった。お母さんは、これを見て、知花が虐待されていることを察したんだ。
「それにしても、蕾花にこんな趣味があったなんてね。ミニスカサンタ、よく似合ってるよ」
私は、思わず知花の手を放し、恥ずかしくなって視線を逸らした。知花は、どうしていいかわからなくなったのか、曖昧に会釈した。
「じゃあ、バイバイ」
だけど、そんな崩れた雰囲気も、一瞬で元に戻った。本当に不本意なのだけど……私は、背を向けたお母さんに、反射的に手を伸ばしていた。
「ちょっと待って!」
「待たない。もうこの家には、なんの執着もないから。ねえ、蕾花……」
そして、その次の瞬間、私は言葉を失った。お母さんとの関係に決着がつくという、本来なら喜ばしいはずのことを、私は、ほんの少しだけ、拒んでしまったんだ。
「私、あなたのこと、今では少しも大切に思っていないよ」
二の腕の辺りを、痛みに耐えるようにギュッと握りしめ、そう言い捨てたお母さん。知花と出会ったあの日が、秋雨の中で聞いた悲し気な声が、不意にフラッシュバックする。
〈……この前のテストで、学年二位だったから、泣いてるんですよ。わかったらもう、帰ってください〉
あの時の知花も、今のお母さんと同じように、二の腕の辺りを握りしめていた。そう、二人の「嘘をつく時の癖」は、同じなんだ。
「ずっとこの格好でいたから、気づかなかったよ。サンタのコスプレじゃ、ちょっとかっこ悪かったよね……いやー、恥ずかしい」
私を励まそうと、明るい声で話しかけてくれる知花。
「まあまあ、落ち込むなって。ほら、おっぱいでも揉むか?」
「……うん」
「ああ、本当に揉むんだ」
少しの間、沈黙の蚊帳が降りた。私はひたすらに知花の胸を揉み、知花は私が揉みやすいように、両腕を後ろに伸ばして、その小さな胸を突き出していた。
「後悔は、してないよ」
「そっか……よかった」
感極まった様子の知花に、後ろからギュッと抱きしめられた時、私は初めて涙を零した。
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