第六話 かいけつ

「へっ?」

 お母さんは、親指と中指でフラスコのように持っていたビールの缶を、脱力したように落とした。零れ落ちた黄金色の液体は、テーブルクロスをびしょ濡れにするだけでは飽き足らず、お母さんのカクテルドレスの膝にまで滴ったが、お母さんは微動だにしない。

「……あー、そうなの。かわいい子を見つけられて、良かったわねぇ」

 少しの沈黙の後、お母さんは、不意に笑顔になってそう言った。「なんと現代的な価値観だろう!」と感動したのか、隣に座る知花が私に目配せする。だけど私は、この発言の根本にあるのが、知花の思っているような「現代的な価値観」ではなく、「私への関心のなさ」だと知っている。

「で、話ってなに?」

 食卓に置かれた布巾で、テーブルクロスや自らの服をゴシゴシと拭きながら、尋ねるお母さん。

「なにって、色々だよ……私たち、長い間、こうして腰を据えて話してなかったでしょ?」

「ああ、うん。そういえば、そうだったわね」

 あまりにも適当な返事に、絶望的な気持ちになる。だけど、これくらいで挫けていては、お母さんとの話し合いなど、できるわけがない。

「まずさ、お母さんは、どうして夜遊びをするの?」

「若い男の子に囲まれて、お酒を飲むのが、楽しいからよ」

 思わず体が前のめりになった。そんな私を制するように、知花は、「失礼なことを訊きますが、あなたには、『自分が蕾花の母親だという自覚』が、本当にあるのですか?」と訊いた。

「そりゃあ、あるわよ? でもね、私はもう、責任というものを背負いたくないの。大人になり、誰かの妻になり、母親になって背負う、色々な責任。その全てを果たしたところで、結局、幸せになれる保証なんてないって、気づいちゃったから」

 お父さんに裏切られたことを、暗に言っているのであろう。酔いが回り、据わったその目に、薄い涙の膜が張る。

「で、でも……」

 伝えるべき言葉を見失って、知花が沈黙する。そして、その様子を見たお母さんは、どうやら、知花を言いくるめた気になったらしい。あの下手な鼻歌を再開して、おぼつかない足取りで、食器棚のところまで歩いていった。

 昔は、二人が買い集めた綺麗な食器たちが、整然と並んでいたこの棚も、今では半分、お酒置き場になっている。離婚が決まった夜、お母さんが、ほとんど割ってしまったから。

「あの人からの養育費もあるし、私が夜職で稼いでるお金もあるしで、蕾花が大学出るまでに必要なお金は、ちゃんと用意してるから、もういいじゃん。お互い、自由に生きましょうや」

 気楽な口調でそう言うと、お母さんは、持ってきた赤ワインのボトルを、乾杯でもするかのように持ち上げ、そのままラッパ飲みした。

「そういえばさ、二人はどこで出会ったの? 高校で?」

 ああ、ダメ。頭蓋骨の底から、もう泡が出始めている。沸騰寸前だ。

「付き合って何年? 式はいつ挙げるの? ……なあんてね、そもそも女同士だから、結婚できないし。やっぱり、普通じゃない人たちって、苦労するわよねぇ」

 可笑しくもないのに、腹を抱えて笑っている。酔っているとはいえ、到底許されないような侮辱に、場の空気が凍りついていく。

「お母さんの方も、順調なのよ。いい男を見つけてねぇ、もう、いなくなったら死んじゃうくらい好きなの」

 ついに我慢できなくなった私は、バンと机を叩き、はじかれたように立ち上がった。罵詈雑言を浴びせてやろうと、口を開いた。だが……コンマ数秒の差で、知花の爆発の方が早かったようだ。


「……お前みたいなクズが、蕾花の母親面をするな!」

 歴史の教科書に載っていた、東大寺南大門の金剛力士像を、不意に思い出した。見たこともないような、気迫に満ちた表情だった。

「ねえ蕾花、さっき私さ、『お母さんを殺したら、離れ離れになる』みたいなこと、言ったよね」

 あまりの緊迫した雰囲気に、立ったまま動けなくなっていた。怒気に満ちた目がこちらを見つめて、同意を求めてきたので、私は、捻り出すように「うん」と答えた。

「簡単な話だった。どっちとも、殺しちゃえばいいんだよ」

 酔って状況を把握できていないお母さんは、のほほんとした顔でワインを呷っている。

「……えっ?」

「肉親の情を考慮すると、私が蕾花のお母さんを、蕾花が私のお母さんを、殺すのがいいかな。一緒に仲良く、少年院行きだ」

 少し愉快な口調でそう言うと、知花は、お母さんからワインのボトルを取り上げた。

「さあ蕾花、どうする?」

 知花はボトルを振りかぶる。お母さんは、焦点が定まっていない目で、うるさいヘリコプターを見上げるみたいに、殺気に満ちた知花の顔を仰いでいる。

 答えを決めるまでの数秒は、まるで、永遠のようだった。

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