第三話 さらさら
「熱は、人から正常な判断力を奪う」ということを、私が心に刻み込んだのは、もう十一年前のこと。離婚が決定する一週間前の、酔っ払った両親のケンカを、枕を抱きしめて見守った時だ。
フリンという言葉を、お母さんの口から初めて聞いた時、私は、「プリンの仲間なのかな?」と本気で思っていた。だけど同時に、スイーツのことで大喧嘩するほど、二人は幼稚じゃないことも知っていた。どうして、いつも仲良しな二人が、こんなにケンカしてるんだろう?
理解できないまま、時間だけが冷酷に流れて、気がついた時にはもう、お父さんはいなくなっていた。「笑い声」や「団らん」みたいな、色ペンで書くなら優しい色を選びたくなるもの、全てがこの家から消え去った。残ったのは、高給取りだったお父さんから、ふんだくった多額の慰謝料で、夜遊びに暮れるお母さんだけだった。
不倫。奥さんや旦那さんとのセックスでは飽き足らず、他の異性にまで手を出すこと。意味を知った時、目が眩んだのを覚えている。
私を真ん中に、いつもは川の字になって寝ていたけど、金曜日だけは、私を先に寝かせて、二人で晩酌をしていた。二人は理想的な夫婦で、お父さんはお母さんを、心の底から愛していた。なのに……。
そんなどうしようもない思いを、堂々巡りさせながら、私は、ある教訓を心に刻みつけた。
――愛も、責任も、罪悪感も、圧倒的な「熱」の前には、無力になる。熱は、人から正常な判断力を奪う。
*
「――結局、学校では会えなかったな」
かつて、知花がこの家を訪れていたペースと同じ、二週間に一回のペースで、私は自慰をした。あの服たちは、あっという間にシミだらけになって、綺麗なところの方が少なくなっていた。
「――ちかあ、あっ、会いたっ……いっ。会いたいよお」
気が狂いそうになるのを、更に気違った行為と快楽で、上塗りする。そうやって私は、いるはずの知花がいない休日の夜を凌いだ。
学校は、今日から冬休みだ。そういえば知花、長期休業の時は、週に一度のペースで来てたよな。
「――ふふっ、ハハハッ。頭、おかしくなっちゃうかも」
布団を下ろし、汚れないようバスタオルを敷いたベッドの上。素っ裸のまま大の字になって、一人で大笑いした。私はその時、自分の心の真ん中に、ぽっかりと開いた穴に、改めて気づかされた。
「知花はもう来ない。だから、こんな変態じみたことも、できちゃうんですよ」
ベッドの片隅で山になった、あの服たちの中から、ブラジャーとパンツを手に取る。そして、テレビショッピングの人みたいな口調で、そんなことを言って、おもむろに身に着ける。
「……大丈夫。シャワーに行くまでの間だけだから」
元々は自分の服だし、知花の匂いも、もうかなり薄れているはずなのに、どうしてこんなに興奮するんだろう?
あの服たちの着なかった残りをしまう。脱いだ自分の服と、敷いていたバスタオルを回収し、布団を元に戻す。部屋が完全に元に戻ったのを、確認してから、ドアを開ける。その次の瞬間のことだった。
〈ピンポーン〉
急いで部屋に戻り、下着を雑に脱ぎ捨てて、バスタオルと一緒に隠した。
「まさか、まさかね。ありえないよね」
疑うようにそう呟きながらも、私は、息すらも忘れてしまうほどに急いでいた。手が震えて、ブラジャーのホックをつけられなかった。あまりにも無理な着方をしたから、セーターがミシミシと音を立てた。
「……いや。もう、ぬか喜びになっても良いや」
そう呟いてから、演劇によくある心情の朗読みたいな、くさいセリフを心の中で唱える。
――君に出会ったことで、私は変わったんだ。私を幸せにしてくれるのは、もう君の体温だけ。君がいないだけで、私の心は、絶対零度になってしまうんだ。どんなことが起ころうとも、どうせ、今よりも不幸になることはない。それなら私は、この湧き上がって止まらない喜びを、あの扉の向こうにいるかもしれない君に、思いっ切りぶつけたい。
「知花ー!」
神様を信じて良かった。生まれて初めて、そう思った。
「メ、メリークリスマス」
「えっ! な、なに、その格好! サンタクロース?」
多幸感で、頭がホワホワした。感動しすぎて死ぬかと思ったけど、知花の衝撃的な格好のおかげで、なんとかそれは免れた。
「いやあ、あの……サンタのコスプレです。今日、クリスマスイブなので」
赤いフワフワなミニスカートの裾を、知花は、恥ずかしそうにギュッと握りしめている。さっきまで、知花のことを考えて一人エッチしていたので、見るのが少し申し訳なかった。
「ああ、そっか。今日、クリスマスイブか……」
ニヤニヤしたまま棒立ちしている私を、知花は少し俯きながら横切った。そして、そそくさと靴を脱ぎ、帽子と肩に薄っすらと積もっている雪を、パッパと手で払いと落とした。
「あ、あの、この前はごめんね。だから、その、お詫びというか……今夜は、私のこと、好きにしていいよ?」
顔を真っ赤にしてモジモジしながら、知花はそんなことを言った。……正直言って、めちゃくちゃ興奮した。衝動的に、押し倒したくなった。だけど、今そんなことをしたら、私たちはまた、今回のようにケンカ別れする運命を辿ってしまう。そう、今こそ、進む線路を切り替える時なんだ。
「本当? わかった……」
キスなんて、もう数え切れないほどしてきた。ファーストキスも、初めてのセックスで熱狂している時にしたから、別に緊張しなかった。
「……これだけでいいの?」
知花はキョトンとした顔で、私を見つめている。私はうぶな少女のように、人差し指をそっと、唇に触れさせていた。唇から上顎へ、上顎から脳みそへ。久しぶりの知花の唇の感触が、じんわりと伝わって、優しく溶けていく。
「今、十時くらいでしょ? 夜明けまでは、まだまだあるからさ、ゆっくり、これからの二人の話をしよう」
口にすると、気分が悪くなってくるから、今までは言わなかった話。両親の離婚についての話、変わり果ててしまったお母さんについての話。全部全部、知花に話すんだ。そして、知花の心の奥に巣食っている闇も、全部全部、受け止めるんだ。
――私たちは、色々なことから、目を背けすぎた。今こそ、暗い方に向き合う時だ。
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