第二話 いさかい

 「二週間に一回」の決まりを破って、知花は私のマンションに来た。秋雨が立ち込める土曜日の深夜のことだった。

「何かあったの?」

「……うん」

 ベージュのセーター、地味なジーパン、鋭い感じがする細いフレームの眼鏡。知花は、捨てられた子犬のような姿で、そこに佇んでいた。

「わかった。おいで、寒かったでしょ」

 そう言って、私は知花を自分の部屋に連れて行った。


「……この前のテスト、学年三位だった」

 知花は、この世の終わりを告げるように、これ以上ないくらい絶望的な声で言った。

「……それで、何をされたの?」

 私が訊くと、知花は、「見てもらった方が早い」と言って、剥き出しの背中を見せた。

「酷い……」

 そこには、「1」が刻まれていた。上が少し曲がっていて、下に短い横線がついている大きな「1」が、生々しい火傷で刻まれていた。

「知花は、なんにも悪くないからね」

「……うん。そんなこと、知ってる」

 知花は泣きながら、私に抱きついた。近くにあったティッシュを渡しても、首を横に振って受け取らず、私の胸に顔を押しつけて、涙も鼻水も、そこに全部こすりつけた。

「なんだか、あの日のことを思い出すね」


 ――私が知花に出会ったのは、一年前。今日みたいな秋雨が降る日のことだった。


「君、どうしたの?」

 降りしきる雨の中、コンビニのゴミ箱の横で、傘も差さずに泣いている少女。一目見た瞬間に、どうしようもなく視線を奪われて、私は話しかけることを決めた。

「……あなた、誰?」

 氷のように冷たく透き通った声で、そう訊かれた時、私はやっと、知花が笹高の制服を着ていることに気がついた。襟元のリボンに目を遣ると、一年生だということがわかった。

「あなたの高校の先輩だよ」

 私がそう答えると、知花は目を逸らして、「大丈夫ですから、帰ってください」と小さく呟いた。

「そういうことは、大丈夫そうな顔を作ってから言いなさい」

「……わかりましたよ。言えばいいんですね?」

「そうそう、言えばいいの」

「……この前のテストで、学年二位だったから、泣いてるんですよ。わかったらもう、帰ってください」

 私がその時、知花の言葉を一瞬で嘘だと見抜けたのは、嘘をつく時の知花の癖が、お母さんと全く同じだったからだ。

「じゃあ、これから私が勉強を教えてあげるよ。こう見えても私、この前のテストで学年一位だったからね」

 私が手を取ると、知花は特になんの抵抗もせず、ついて来た。「抵抗しなかった」というより、「抵抗する気力すら残っていなかった」という方が、近いように感じられた。

「自己紹介がまだだったね。私は、曽根そね蕾花だよ。君は?」

里見さとみ知花です。蕾花さん、今日はよろしくお願いします」


「真面目に生きるのって、つまらないですよね」

 数学の問題集を睨みながら、知花は呟いた。この家に着いてから、一時間近くが経った頃のことだった。

「確かにそうかもね」

 自分から話を振るほど、知花が心を開いてくれたことに喜びながら、私は頷いた。すると知花は、おもむろに立ち上がって、ベッドに横たわった。

「……真面目じゃないこと、してみますか?」

 煽るようにそう言って、知花はスカートを脱いだ。その時の私は、ただ困惑していただけで、興奮は少しもしていなかったのに、次の瞬間にはもう、その太ももから、目を離せなくなっていた。

「全部、お母さんにやられたの。テストで一位じゃなかった時はいつも、こうやって酷いことをされる」


 ――何も言えなくなった私は、知花を抱きしめた。「今日はずっと、ここにいていいよ」と囁くと、知花は「お母さんが家に着く八時までには帰らないと、何をされるかわからない」と私の体を押しのけた。


「……ここから家まで帰るには、どれくらい時間がかかる?」

「二十分くらい?」

 私は、七時半に鳴るアラームをスマホで設定して、その画面を知花に見せた。

「ほら、これでいいでしょ?」

「……うん」

 知花が頷いたのを見て、私は服を脱ぎ始めた。知花は顔を赤らめながら、無言でセーラー服を脱ぎ捨てて、下着姿になった。


 私はそれまで、誰かを性的に見たことも、好きになったこともなかった。男とか女とか、そういうのは正直、どうでもよかったけど、ただ漠然と、「セックスをするなら、女の子とがいいな」とは思っていた。理由は簡単。重たくて硬い物より、軽くて柔らかい物に載られた方が、楽だからだ。

 ――知花が同性愛者なのか、私は知らない。もっと言えば、自分が本当の意味で同性愛者なのかすらも、私にはわからない。だけど、別にそれでいいんだ。私たちが必要としているのは、自分の性的指向に合った恋人ではなく、盲目になってしまえるほどの熱なのだから。


「……私、今、幸せだよ」

 シャワーを浴びながら、知花は噛み締めるように言った。コンビニのゴミ箱の横で、世界から逃げるように泣いていた少女は、もうどこにもいなかった。


 呪いのような「1」の刻印を、右手でそっと撫でる。「私の背中に移ってしまえばいいのに」と思いながら、そのまま肩甲骨から胸へと這わせていく。そして、空いている左手を、ジーパンの中に入れる。今夜の知花は、あまり乗り気ではなかったけど、は、裏腹にビックリするくらい濡れていた。

 知花を振り向かせ、その胸に顔をうずめる。赤ちゃんのように乳首を吸う私の頭を、知花は微笑みながら撫でていた。


「……結局、蕾花は何もしてくれないんだね」

 一通りのことをし終えて、そろそろシャワーに入るか訊こうとしていた時、知花は悲し気な声でそう呟いた。

「優しく慰めてくれるのも、結局は、私とエッチしたいからでしょ?」

「違う、そんなつもりじゃ……」

 途中で口籠もってしまった自分に、ハッとした。確かに、私が知花を慰めるのは、エッチをしたいからではない。だけど……知花を救いたいとも、本当の私は思っていないんじゃないか?

「もう、ここには来ないよ」

 何がトリガーになったかは、わからない。今日のような流れでエッチをしたことは、これまでにも何度かあった。

「……待って。知花、待って!」

 少しずつ積もっていた何かが、あの瞬間に溢れてしまった。きっと、それだけだ。

「…………」

「えっ、知花、何してるの?」

 知花は、床に散らばっていた私の服を、自分の体にこすりつけた。

「……はい。餞別だよ」

 最後に唾を吐きつけて、知花は、それを私に投げ渡した。脱ぎ捨てた服を再び身にまとい、今、この部屋を出ようとしている知花を、私は何もできずに見つめていた。


「どうして私、今まで気づいてあげられなかったんだろう?」

 涙は、体中の水分を使い尽くす勢いで流れてきた。知花のいない部屋で一人きり、勢いを増した秋雨の音を聴きながら、私は、知花の匂いが染みついた私の服で、自慰に耽った。

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