第3話 肌の温もり


ソングクの部屋に着いたとき、時計の針は午後7時を回っていた。


2人が出会ったシェアハウスから、1人で暮らせる部屋に引っ越したと聞いたのが夏ごろだった。


菜々子は部屋の様子をテレビ電話の画面越しに見ていたけど、その空間に自分がいることに少し不思議な感じがした。


「お腹空いてる?」


ソングクはキッチンで電気ケトルに水を入れながら、ベット脇でキャリーケースを開けている菜々子に尋ねた。


「空いてると思うけど、今のところ食欲ないかな」


12時間の飛行中、スナックに始まり、機内食、再びスナック、カップラーメン、もう一度機内食、と続けて食事が出る。


どれも満腹になるとは言えないが、座りっぱなしなので消化が間に合わず、胃は空いていいるはずだがお腹全体がずっしりと重く感じる。


「じゃあ、おれはラーメンにしようかな」


「そうだ、お土産があるよ」


えっ、と素早い反応で菜々子のそばに滑り込んできたソングクの目はキラキラと期待に満ち溢れている。


成田空港でこの顔を想像しながらお土産を選んだ菜々子は、予想通りの反応を得たことに感激を覚えた。


あれもこれもと手にとっているうちに、会計が2万弱になったことは驚いたけど、この笑顔に値段はつけられない。


ソングクは、箱や瓶を1つずつ手に取るたびに感激の声を上げた。


「何から食べようかなー。やっぱ餅かな」


上機嫌で、まるで歌っているかのように喋っている。


「あ、ドラエモンがある!」


——どら焼きね。


菜々子は、想定通りの言葉を聞けて、にんまりと笑った。


ソングクはどら焼きのことをドラエモンと間違った名前で記憶している。


だけど、彼のドラエモンという発音がかわいいので、菜々子はあえて間違いを訂正しないでいた。


「ありがとう、ナナちゃん、すごく嬉しい」


ソングクは側にいる菜々子の頭を抱えるように抱きしめて、おでこと前髪の生え際あたりに軽くキスをした。


「お茶入れるね」


立ち上がるときに、よしよしと菜々子の頭を撫でる癖は全く変わっていない。


その度に、菜々子の胸がきゅうと音を立てることも同じだった。


ソングクの隣にいるのは居心地がいい。


10ヶ月のブランクなんて微塵も感じない。


まるで、昨日バイバイして今日再会したかのようだ。


菜々子はソングクの前だと飾ることなく、自然体でいられる。


今まで何人か付き合った人がいたけれど、こんな気持ちになったのは初めてだった。


自分が自分らしく過ごせて、その全てを好いてくれるなんて、こんなに素晴らしい出会いはきっともうない。


できれば、ずっとソングクと一緒にいたい。


果たしてソングクはどう思っているんだろう。


飛行機のチケットを取ったときも、心の底から喜んでくれた。


会いたいと思ってくれているのは間違いない。


でも、その先は?


それだけはずっと胸の奥に引っかかったまま、聞き出せないでいた。


「コーヒー? グリーンティー? それともハーブティー?」


キッチンからソングクが声を張り上げた。


「ハーブティーあるの?」


菜々子は、キャリーケースを開けっぱなしのままでキッチンに向かった。


ソングクはどら焼きを食べるようで、グリーンティーの準備をしている。


菜々子はそっと近付いて、ソングクの背中に抱きついた。


腕を回して、彼の臍のあたりで手を組んで、ぎゅっと体を密着させる。


顔をずらして彼の右腕越しに手元を覗き込むと、菜々子が好きだったハーブティーのケースがあった。


ポメ、オレンジ、クランベリーが入ったハーブティーを日本でも探してみたけれど、どれもこの味を越えることができなかった。


「わざわざ買っておいてくれたんだ。ありがとう」


「もちろんでしょ」


ソングクはハーブティーを飲まない。


必然的にこれは菜々子のためだとすぐに理解した。


好きなお茶の種類を覚えてくれていたことも、それを事前に買っておいてくれたことも、全てが愛おしい。


新品の箱を開けるソングクの手元を見ながら、もう一度ありがとう、と繰り返した。


菜々子は、よしよしをするつもりで、ソングクのお腹のあたりを優しく撫でた。


ソングクの腹筋は程良く引き締まっている。


カレッジの授業や宿題が大変だと聞いていたが、トレーニングも怠けず続けているようだ。


「あのさ……」


ソングクはハーブティーのソケットを持ったまま、一連の作業を止めてキッチン台に両手をついていた。


「あ、ごめん、邪魔してた?」


パッと離れようとした菜々子の手を、ソングクは素早く掴んだ。


「今日は疲れてるだろうから、我慢しようと思ってたのに」


瞬間、菜々子の体はひょいと持ち上げられ、そのままベッドまで運ばれて、ゆっくりと横たわらせた。


あの、と言おうとした菜々子の口はソングクの唇でふさがれた。


長いキスのあと、ソングクは菜々子の顔を確かめるように何度も頭から頬を撫でた。


手つきは相変わらず優しいが、目は完全に野生のそれになっている。


菜々子の胸はきゅうきゅうと音を立てて、痛いくらい締めつけられた。


ソングクの首に腕を回して、10ヶ月の空白を埋めるように、彼の愛を全身で受け止めた。

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遠距離恋愛、時差14時間 常和あん @TokiwaAnn

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