第2話 10ヶ月ぶりの再会


約12時間のフライトを経て、菜々子が乗った飛行機は無事、トロント・ピアーソン空港に着陸した。


現地時間は昼の3時。


日付変更線を逆戻りしたので、12月22日のままだ。


着陸直前に流れた機内放送に合わせて、日本時間の朝5時を指していた腕時計の針を2時間分巻き戻した。


北海道と同じくらいの緯度に位置するトロントは、冬の日の入りが早い。


すでに茜色に染まった空に、雲がぽつぽつと浮かんでいる。


雪はまだ積もっていない。


そういえばソングクが今年は暖冬だと言っていた。


菜々子は腕を思いっきり伸ばして、凝り固まった全身をほぐした。


ちょっと体を曲げるだけで、節々がボキボキと音を鳴らす。


本当なら今頃は温かい布団の中でぐっすり眠りについている時間だ。


これが5回目の長旅となる菜々子にとっても、昼夜逆転の時差というのは何回体験しても慣れるものではなかった。


さらに、到着後には入国審査の長い列が待っている。


なかなか進まない列で待ち続けて、ようやく自分の番になった。


入国審査は、なにも悪いことをしているわけではないのに、毎回どうしてこんなに緊張するのだろう。


しかめ面をした女性の審査官にパスポートを渡すと、まずはお約束の質問だった。


「What is your purpose?」

(目的は?)


「To meet my boyfriend.」

(彼氏に会うため)


うしろめたいことはないのだから正直に言うのが一番だと思うけれど、女性審査官はしかめ面のまま上目遣いでじろりと菜々子の顔を確認した。


「Where do you stay?」

(どこに泊まるの?)


「In his apartment.」

(彼の部屋)


「How long?」

(滞在期間は?)


「10 days」

(10日間)


と言ったあとに、思わず


「For Christmas vacation.」

(クリスマス休暇だから)


と、口に出てしまった。


審査官は、ぴくりと片眉を動かした。


しまった、余計なことは言わないのが鉄則なのに、つい口に出てしまった。


渡航の目的を明確にして怪しくないことを審査官に伝えたい気持ちと、長期休暇しか会いに来れないんだからという誰に対するでもない不満と、ソングクと一緒にクリスマスを過ごせるという浮かれた気持ちが入り混じって、思わず声に出た。


審査官は特に発言せずに、パソコンの画面とパスポートを交互に確認して作業を進めている。


「What does he do?」

(彼の職業は?)


審査官がパソコンに目を向けたまま、ふいに質問を続けた。


今まで何度か、カナダ以外でも入国審査を経験しているが、自分のこと以外を聞かれたのは初めてだった。


「He is a …… college student.」

(彼はカレッジの学生です)


「major?」

(専攻は?)


「I’m not exactly sure, something like ……accounting.」

(詳しくわからないですが、会計関連です)


まさか彼のことを詳しく聞いてくると予想していなかったので、この手の質問に対する答えを準備していなかった。


どうしよう、おどおどしながら答えたことで疑われたりしたら、入国ができないなんてことあるだろうか。


菜々子の心臓がバクバクと音を立てていることもつゆ知らず、審査官はふーんと鼻を鳴らしただけで自分の作業を続けた。


そして、ドンと音を立ててパスポートにスタンプを押してくれた。


それを返却されて、受け取るときに小さな声で「Thank you.」と言うと、厳しかった顔の口角だけを上げて目配せをしてくれた。


楽しんでね、と言いたげな表情で、菜々子は全てを察した。


最後の質問は、ただの世間話だったのだ。


心臓にわるいんだからやめてよね、と思いつつ、彼女の目配せは緊張でいっぱいだった菜々子の心を軽くしてくれた。


荷物受け取りのレーンもなかなか動かず、ようやく出てきた重い荷物を転がしながら最後の税関へ向うと、そこでもまた長い行列が続いていた。


時計を見ると、もうすぐ5時を指そうとしている。


税関の用紙を、上にも横にも大きい係員に手渡すと、トロントの地に降り立ってから2時間近く経って、ようやく国際線出口まで辿り着いた。


Exitと書かれたあの自動ドアをくぐればソングクに会える。


眠気と疲労が溜まった身体とは裏腹に、気持ちが前へ前へと急いて、自分で転がすキャリーケースに足を引っ掛けて転びそうになった。


まるで初デートの時のように、心臓は耳に響きそうなほど高鳴っている。


不透明のガラスで作られた重厚な自動ドアの先から一歩出ると、迎えに来た人たちでごった返していた。


ぐるりと周囲を見回すと、オレンジ色のハートの風船を持った人物が一直線にこちらに駆けよってきた。


それがソングクだと気づいたときには、駆けよった勢いそのまま体当たりに近い衝撃で抱きしめられて、背中に回された腕からは痛いほどの腕力を感じた。


「I missed you so much……」

(すごく会いたかった)


苦しそうに絞り出したようなソングクの声が頭の上から降ってきた。


「えっ、are you crying?」

(泣いてるの?)


ソングクは返事の代わりに、より一層腕に力を込めた。


彼の胸から響く鼓動と全身から伝わる体温が、菜々子の旅の疲れを吹き飛ばしてくれた。


本当に来てよかった。


菜々子はソングクの背中に腕を回して体を預けた。

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