第5話
太平洋上空。外遊中だった文科大臣一行が乗るプライベートジェットが羽田空港に向かって飛んでいた。
文部科学大臣の
「護衛機です。公海に出るまでこの機を守ってくれます」
薄笑いを浮かべたスーツ姿の男が近づいて言った。端正な顔立ちだが、上唇をほんのわずかにひきつらせた笑みのせいで、好印象より悪印象を与えている。
「今まで聞く機会が無かったが、彼らは本当にアメリカ空軍なのかね?」
「そうです。といっても、彼らは正式な命令でここにいるわけではありません。公的には、彼らは別任務中に行方不明になっているので」
「……何なんだ、一体。突然暴動が起きたと言われて避難してみれば、急に君たちが現れて、そしてろくな説明も無く私をプライベートジェットに乗せるとは。しかもさっきの〝検査〟というのは何だ? 鼻に細い棒を突っ込んで──」
「日本に着いたらちゃんとお話し致します。我々としてはあなたの無事を確保しておかなければならないので」
「どういうことだ?」
顔をしかめる車田に対し、黒いスーツを完璧に着こなした男はおもむろに切り出した。
「現在世界中で起きている状況を、大臣は理解しておられますか?」
「……暴動、ではないな。下らん映画のように人間が人間を襲っているのだろう」
「仰る通りです。それは我が国でも起きています。現在、東京は無政府状態。治安出動を命じた政府がいないせいで、出動した自衛隊は各所で混乱に陥っています」
「総理はどうした?」
「現在精査中の情報によると、死亡したと」
「何だと?!」
車田は思わずシートから立ち上がりそうになった。
「落ち着いてください。現状、閣僚の中で健在なのが確認されているのは大臣、あなただけです。我々には総力をもってあなたを安全な場所まで連れていく義務があります。その点は信頼していただきたい」
「……羽田は安全なのか?」
シートに深く座り込みながら車田は訊ねた。
「安全だとは言えません。ですがこの機を着陸させる滑走路と管制塔は押さえているので大丈夫です」
「本当に何なんだ、君は。いや君たちは」
「大臣も政治の世界におられる人間であるなら、一度は耳にしたことがあるはずです。……冷戦終結直後に発足した、未確定の機密情報を精査し、またそれを他国と共有し、緊密な連携の下で国家の利益と安全を保護する非公式組織……」
「……〝
車田の呟いた固有名詞を聞いた男は笑みを深めた。
「下らん都市伝説ではないのかね」
「戦前・戦中には特務機関と呼ばれた様々な軍事組織があったでしょう。その現代版です」
「我が国に
非難のこもった車田の視線を男は丁重に無視した。
「で、君がその
「ご賢察。わたくしは柊トウカと申します。機関長としては二代目です」
「世襲制の機関なのか」
「それはまあ、我が柊家が主導で創設した組織なので。世襲というと、大臣も人のことは言えないでしょう?」
トウカの指摘に車田は押し黙った。車田家は戦後間もない頃から続く世襲議員の家系なのだ。自身も曾祖父から続く支持基盤を三十歳の時に継ぎ、以来二十二年の間政界に身を置いていた。〝時流を読む目〟はあり、不祥事も無いが、見るべき事績も特に残していない。過去に経済産業省の副大臣を務めた以外に閣僚としての経験は無く、文科大臣の枠に収まっているのも前任が不祥事で辞任したからだった。
「まあそんなことはこの際置いといて、これからの予定を大臣にお知らせしなければいけません」
「うむ……」
「羽田に着陸後、ヘリに乗って藤波市に向かっていただきます」
「藤波?」
「二十一世紀構想の一環だった新都心プロジェクトで建設された地方都市です。我々に協力してくれている自衛隊の部隊が転化者を排除中です」
「転化者?」
「発症した人間のことです。東京をはじめとした首都圏は壊滅状態。関西、九州、北陸、北海道も同じ。仙台やその他東北の地域は未だに秩序を保っていますが、転化者によって警察の封じ込めが突破されるのも時間の問題です」
「排除と言ったな。自衛隊が国民を撃っているのか?」
「お言葉ですが、転化した者たちを元に戻す方法はありません。放置すればまだ生きている人々を襲い、下らない映画のように貪り食います。残念ですが殺すしかありません」
車田はわずかに眉をしかめた。国民だった人々を撃つことに対してではなく、目の前にいるトウカのどこか面白がっているような口調に不快感を感じたのだ。他の人間を襲うというのなら仕方がない、まだ間に合う生存者を助けることに集中するべきだろう。だがこいつは今の状況を楽しんでいるのではないか? そう思ってしまうほどに誠意が感じられなかった。
とはいえ、それを表に出して抗議するような車田ではない。年長者の意地が、トウカに対する不快感を押し隠した。
「……そうか。で、その藤波市を拠点か何かにするつもりかね」
「〝臨時政府〟を置くことになるかと」
「他の閣僚は揃えるんだろうな」
「無論です」
「総理は誰が?」
「分かっているクセに。あなたですよ」
トウカは何のことでもないことのように言う。車田はシートのひじ掛けを両手で掴んだ。総理大臣! まさか自分がそんなものになりおおせるとは。察してはいたが、平時ではいわゆる傍流の立場にいた車田にとっては重すぎる肩書きである。
「総理といっても象徴のようなものです。政府がまだ機能していると宣伝するためのね」
「象徴か。この国の象徴は私などではない」
「分かりやすい言葉を使っただけです。ですがご安心を。この国の真に象徴たる方々は真っ先にシェルターへ避難させました。国外はかえって危険ですから」
「ならいい。それならお飾りの総理を務めてやろうじゃないか」
「ありがとうございます」
トウカはわざとらしく頭を下げた。
「ご家族は既に保護し、藤波市へ移送しております。我が国はまだ何とかなりそうですよ」
軽薄そうな笑みを深めてトウカは言った。
*
「本当に助かった。もう俺たちダメかと思ってさ」
「……」
リクハの謝辞をユノはさりげなく無視した。
ハルの提案により、しぶしぶクラスメイトを家に入れたユノはあからさまに機嫌が悪かった。温情によって避難場所を得た七人は、安心感からか普段通りの大声で雑談を交わしていた。
「あんまり騒がないで。アイツらに聞こえたら大変なことになるでしょ」
「あーい」
明らかに緊張感の無い返事にユノは地団駄を踏みそうになった。
「……ホントに何なのコイツら。転化者が来たら盾にしてやろうかしら」
「落ち着いて。聞かれたらヤバイよ」
ハルはキッチンで七人の夕食を作っていた。夕食といっても、ただ冷凍食品を解凍したものだが。
ユノではなくハルが夕食を作っているのは、ひとえに七人と一緒の空間に居たくないからだった。彼は本質的に人見知りで、特段親しかったりユノのように
「それって夕食?」
七人の内の一人がキッチンにやって来た。ハルは彼を知っていた。滝風カイラ。ハルの中学時代の同級生である。
「うん。滝風たちの……」
「サンキュー。俺たちずっと何も食べてなくてさ」
「うん……」
ハルはカイラが嫌いな訳ではない。楽観的で分け隔てない好青年を嫌うほどハルはひねくれてはいない。だが、同時に友人だとも思っていなかった。中学時代、妙に中性的で〝女子より女子っぽい〟といわれたハルを知る同級生は多かったが、一方のハルは親しい間柄の同級生以外に関心を向けず、中には顔と名前が一致しないクラスメイトすらいた。
高校生になって意識が変わり、せめてクラスメイトの顔と名前だけは一致させようと努力したハルだったが、それでも中学時代、同じクラスに一度もなったことがないカイラとの間にある壁を飛び越える勇気はまだ無かった。カイラの方からはことあるごとに声をかけてくれているというのに。
「カイラ、何やってんだ」
リクハの声がキッチンに飛んできた。
「夕凪が夕食作ってくれてる!」
リビングにいるクラスメイトたちから歓声が上がる。嬉しいことは嬉しいが、気恥ずかしさが勝ったハルは声が聞こえないフリをした。
カイラがリビングに戻るため背を向いた一瞬、ハルもリビングに方を見た。意図していた訳ではないが、リクハと目があった。黒い瞳がハルを射貫くように険しい視線を投げかける。
ハルはとっさに目を背けた。そんなに
リクハを心の中で酷評しながら、ハルは夕食を七人に差し出した。各々が感謝の言葉を口にして食事を始める。それをハルとユノは遠巻きに眺めていた。
夕食の後、七人はなおも雑談を交わしていたが、疲労感が溜まっていたのか二十一時にもなるとすぐに眠ってしまった。リビングを完全に占拠されたハルは、自分の就寝場所を求めてうろついていた。
「夕凪くん」
声のする方を向くと、学校指定のワイシャツに身を包んだユノが立っていた。
「どうしたの?」
「寝床が無いんでしょ。来なさい」
言葉の意味を理解したハルは、思わずにやけ面を浮かべそうになった。
「それってつまり……」
「変なことしたら射殺するからね」
二階にあるユノの部屋に入ったハルの目に入ったのは、完全な手入れが施されたMP7だった。
ユノがベッドに、ハルが部屋に敷かれたカーペットの上で寝ることになった。マットを敷く間、ハルは女子に対する偏見を是正しなければならなかった。壁がピンク色ではなく、可愛い小物類が一つも置いておらず、ユノの部屋は全てにおいて機能的だったからである。
床に就いたハルは、ベッドの上で横たわるユノを見上げた。
「質問いいですか?」
「何」
「何で学校のシャツを?」
背を向けていたユノがハルに向き直った。
「いつでも逃げられるように」
「えっ?」
「下にいる何人かが感染してるわ」
さりげなく発された言葉にハルは飛び起きた。
「ヤバイじゃん!」
「静かになさい。聞こえたらどうするの」
「銃取ってきて良い?」
「良いけど、早くして」
ハルは音を立てず、だが素早くグロックを持ってきた。
「どうするの?」
「どうするもこうするもない。明日この家を発つ。迎えが来るわ。あなたも保護してもらえるよう頼んでおいたから安心しなさい」
ユノのスマートフォン画面には、ユノと誰かのメッセージのやり取りが映っていた。
「相手の人って前に言ってた伯父さん?」
「そうよ。あなた一人を助けるために追加料金を請求されたらしいわ。心の底から感謝しなさいよね」
「それは本当にありがとうございます」
「ふん。……あっ、そうだ」
何かを思い出したユノは、ベッドから起き上がって机に向かった。
引き出しからカプセル錠の入った小瓶を二つ取り出し、片方をハルに手渡した。
「何これ」
「抗ウイルス剤よ」
「あのウイルスの?!」
「念のために飲んでおきなさい。一週間の間なら感染しても無毒化するわ」
「すご……」
「持っておきなさい。無くしたらぶつわよ」
錠剤を口に放り込み、二人はようやく眠ることにした。
「……柊さん」
「何? もう寝たいんだけど」
「……どうして俺を助けてくれるの?」
「……。何ででしょうね」
会話はそこで途切れた。ややあって、ユノの静かな寝息がハルの耳に入ってきた。
(本当に、何で助けてくれるんだろうか)
余裕ができたためか、ハルは今さらになって現在の状況を客観視しようとしていた。
少し状況を整理してみよう。ある日突然世界がゾンビだらけになり、単なる偶然で好きな人についていき、しかもその人が世界崩壊の裏事情をある程度知っている……。漫画やアニメでよくある展開だ。ハル自身、そういったシチュエーションを妄想したことが無いわけではない。
だが、やはり現実で実際に起きるのは話が違う気がする。あらゆるメディアが途絶し、インフラもいつ寸断されるか分からない状況というのは、未だ十代のハルには大きすぎる負担だった。彼自身、ストレスを感じていることを自覚していた。それでも何とか正気を保っているのは、ひとえにユノの存在があるからなのかもしれない。
冷静に考えてみると、ただ好きだからという理由で謎多き少女についていくというのはまともではない気がする。その代償として、自分はとんでもないしっぺ返しを食らうのではないか。ハルは急に恐ろしくなった。
彼はまたベッドの上のユノを仰ぎ見た。寝顔が見れないのが残念だが、静かに胸を上下させ寝入っている。やはり彼女も疲れていたのだろうか。
様々なことが分からない中で、ハルには確信できていることが一つだけあった。それは自分が、明らかにろくでもないモノに首を突っ込んでいるということだ。今の状況が、ではない。ユノについていこうとしていることの方が危険なように思えるのだ。
だが彼はそれでもついていこうと決めていた。上手くいけば、安全な場所でお母さんと再会できるかもしれない。比較的安全な場所で平穏な生活が送れるかもしれない。これらが願望であることは知っている。だが、漫画やアニメの主人公のように、釘バットを持ってショッピングモールを探索するようなことはしたくないのだ。ハルは本質的には面倒くさがり屋だった。
いろいろと考えているうちに眠くなってきた。ハルは目を閉じ、そのうち無意識の世界へと引きずり込まれていった。
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