第3話
夕焼けの校舎にハルはいた。
そこは尋常ならざる無音に支配されている。風の音も、ハル自身の呼吸の音すら聞こえない。眠気のような感覚から突然我に帰った彼は、足下にクラスメイトたちの死体が転がっているのに気がついた。
「はっ?!」
死体の一つにつまずき、倒れそうになる。壁に寄りかかり、身体を支える。ふと、教室の中で何かが動いているのが視界の端に移った。
ユノだった。机の上に座り、マネキン人形の首に噛みついている。
「……柊さん?」
目を閉じていたユノがゆっくりと瞼を開く。マネキンの首から口を放す。どういう訳か、マネキンの首からは赤い水が出ていた。
「夕凪くん」
ユノは蠱惑的な笑みを浮かべる。ハルは自分でも気づかぬうちに教室へと足を運んでいた。
「こんなところで何やってるの」
「何、って……。お腹空いちゃったの」
「……」
夕陽を背後にしたユノは恐ろしいまでに神々しい。その身自体が宗教的な象徴のようである。ハルは一切の思考を放棄して見入ってしまっていた。
少しずつ歩み寄るハルに対し、ユノはわずかに首をかしげ、両手を広げつつ差し出した。
「お腹空いちゃった」
マネキンの首から溢れ出る赤い水が床に溜まっていく。気がつくと、既に膝の辺りにまでかさが増えていた。
「夕凪くん?」
普段の様子からは想像できない猫なで声だった。それを聞いた彼は唐突に全てを認識した。
「夢だ」
ハルは水をかき分け、ユノの腰かける机の前に立った。優雅な佇まいのユノがすがるようにハルの首もとに抱きついた。
「ダメ?」
「……良いよ」
おもむろにハルが言うと、ユノは嬉しそうにハルの頬にキスをした。ユノの柔らかい唇の感覚が、幻影のようにまとわりつく。
「嬉しい。ありがと、夕凪くん……」
ユノはゆっくりと口を開く。目と鼻から血を垂れ流しながら、彼女は満身の力でハルの右肩に──
「ぐうっ?!」
ハルはソファーから飛び起きた。白い壁と対面し、自分が現実世界に戻ってきたことを知った。
「どうしたの?」
廊下からユノが顔をのぞかせた。学校の制服からラフなワンピースに着衣を変えている。
「あっ、いやっ、何でもないよ」
右肩に存在しない痛みを覚えたハルは、身体を震わせながら言った。
「……あっそう。落ち着いたらシャワーを浴びて汗を流すことね。不本意だけど、着替えは用意してあげる」
そう言ってハルの想い人は廊下を歩いていった。
ハルはユノに連れられ、彼女の家に到着していた。旧市街には昔ながらの商店街があり、半数の建物にシャッターが下りている中、しぶとく営業している店もある。ユノの家はそんな商店街を越え、藤波市がまだ〝町〟だった頃から住んでいる住民が居を構える小さな住宅地にあった。
周囲の古ぼけた一戸建てと比べて明らかに浮いているモダンハウスは、それほど年月は経っていないようにハルには見えた。それもそのはず、ユノが言うにはまだ築二年も経っていないらしい。彼女が有原学園を受験する一年ほど前に空き地を買収し建てたという。ハルを驚かせたのは、土地も家の建築費用も一括払いした上、住人はユノ以外に居ないのだ。彼はユノの家族がどんな社会階級に属しているのか気になったが、それを聞く暇は彼には無かった。
〝安全地帯〟に入り、気が
胃を空にし、あるだけの体力を使いきったハルは、そのままリビングのソファーに寝転がった瞬間、気を失ったのであった。
「情けなさすぎだろ……」
熱いシャワーを頭から浴びながら、ハルは小声で独語した。よくもまあユノは呆れて見捨てないものだと感心してしまう。これからはもう少ししっかりしなければ。自分でも信頼できない決意を胸に、ハルは少し大きめのワイシャツに袖を通した。
「家に着いた途端吐くとか、あなた何考えてるの?」
「ホントに申し訳ないっす」
手渡された栄養ゼリーを吸いながらハルは頭を下げた。彼にも言い分が無いわけではない。ゾンビ映画さながらの事態が現実に起きているというのに全く冷静でいるユノはどうなんだ、と。しかし口には決して出さない。言えば間違いなくいい顔をされないだろうから。
「あなたって意外に小柄ね。シャツ合ってないじゃない」
「このシャツが大きいだけだよ」
「けど、男物はそれしか無いから我慢してね」
「文句は言わないけどさ……やっぱり大きいよね。彼氏の物?」
ハルの質問にユノはあからさまに不機嫌になった。
「そういうのはいないわ」
「そうですか。そんなに睨み付けなくても良くない?」
のけぞりつつ、内心では安心したハルであった。
そんなクラスメイトから視線をそらし、ユノはテレビをつけた。ちょうど〝緊急速報〟とテロップされたニュースが放送されている。
「──暴動は全国規模で起こっており、東京、大阪、京都、仙台、札幌で警察の機動隊が出動し、北九州市と新潟市でも小規模かつ散発的な暴動によって混乱状態に陥っていると──」
「暴動?」
「さっき私たちが見たのと同じことが起こってるのよ」
「全国で?!」
「多分、世界中で」
「ホントに映画だ……」
そうは言ったものの、ハルはここ数日の間、世界中で大きな暴動が起こっているというニュースを目にしていた。アメリカ、中国、ヨーロッパ、ユーラシア、アフリカ、南アメリカ……要するに全世界が一斉に発狂し始めたかのように各地で暴動や大事故が起きていた。そんな中でも日本はのんきなもので、引退したアイドルの結婚や政治家の不祥事の方に耳目が集まっていた。
「こういうのって映画だと警察や軍隊が役に立たないって流れが多いけど、大丈夫かな?」
「少なくともここは大丈夫よ」
「藤波市が? 何で?」
「私が居るから」
毅然としてユノが言い放つ。困惑するハルを置いて、金色に近い茶髪の少女は立ち上がった。
「食事の用意をする。少しは食べなさい」
「え、あ……どうも」
(手伝おう、なんて言えねぇー。料理できないんだよね)
自分の不甲斐なさを痛感しつつ、ハルはソファーにもたれ掛かった。ふとスマートフォンの画面を開くと、母であるルミからのメッセージが来ていることに今さらながら気がついた。
『ウイルスのテロだって。自衛隊が来てる。そっちはどうなってるの?』
ガスマスクを装着した自衛隊員たちの写真がメッセージの下にあった。
テロ? ハルは背中を氷塊が滑り落ちるような感覚を覚えた。あれがテロなのか。ゾンビ化するウイルスによるテロなどゲームの世界の話ではないのか。
さっきまで見ていたあの夢。血を流すユノに噛みつかれる夢を思い出し、ハルは身震いした。そしてあの夢をわずかだが甘美なものだと感じてしまったことに軽い自己嫌悪を覚えた。あれはおそらく状況への恐怖感とユノへの不信感が具象化したものに違いない。何やら知っている素振りをしながら、一向に話す気配が無い。そろそろ本当に聞き出さなければ。少しでも事情が知りたい。
ともあれ、今のところ母は安全らしい。ゾンビ映画などで主人公が孤独だったり、序盤で家族がゾンビ化してしまう理由がハルには分かった気がした。こんな風に家族のことで気を揉む主人公など見ていて楽しくないだろう。
ハルが安心感から脱力しているところに、美人のクラスメイトは夕食を持ってきた。レトルトカレーとサラダ。肉が見えないのがありがたかった。
「言っとくけど、料理が出来ないからレトルトにしたんじゃないからね」
「用意してくれるだけでありがたいです」
恐縮して、ハルは食事を始めた。昼食もカレーだったことは絶対に言わない。数分おきに〝暴動〟が拡大していく様子をニュースで見ながら、二人は無言で夕食を取った。
陽がすっかり落ちて黒いビロードが空を覆う頃、ハルは意を決してユノにただした。
「そろそろ教えてくれない?」
食後の紅茶をすすっていたユノは、静かにティーカップを皿の上に置いた。
「気になるのね」
「あれだけ思わせ振りなことを言われて気にならない訳ないでしょ」
「それもそうね……」
一人用のソファーに座っていたユノは、脚を組みかえ、何も無い中空を見つめながら口を開いた。
「アレはウイルス性の感染症なの」
「感染症?」
「飛沫と肉体的接触によって伝染する致死性のものよ。発症した場合、攻撃性と飽くなき食欲が襲いかかる……ゾンビ映画とほとんど変わらないわ」
「飛沫感染もするって今言わなかった?」
「言ったわよ」
「じゃあ俺も柊さんもヤバイんじゃ──」
顔色を変えたハルの言葉をユノは片手を挙げて制した。
「大丈夫。あなたと私は感染してないわ」
「何で分かるのさ」
「検査したもの」
ユノは万年筆サイズの検査キットを見せつけた。
「真ん中の液晶が赤くなったら陽性なの。逆に青だったら陰性。さっきあなたが使った食器からサンプルを取って調べさせてもらったわ」
「陽性だったらヤバかった?」
「ここ数日以内に発症して、転化者の仲間入りをしていたでしょうね」
「転化者っていうのか」
「おじ様たちはそう言っていたわ」
「おじ様?」
「私の母のお兄さん。この事態を予測していろいろと準備していたの。あと二、三日すれば伯父様の仲間が助けに来てくれるはずよ」
「マジで?」
ハルの胸に一筋の光明が差したが、同時に新たな疑問が浮上した。
「何で柊さんがそんなこと知ってるの?」
クラスメイトの質問に、ユノは一つまばたきしただけで何も答えなかった。変わりに、
「最後まで私についてくることができれば全部分かるわ」
と言ったのみだった。
*
「お嬢ちゃんは無事に家に着いたか?」
「ああ。だが見ろ、連れがいる」
「女……じゃないな。ずいぶんと可愛い顔した男の子だな。クラスメイトか?」
「の、ようだ。夕凪ハル。嬢ちゃんとクラス委員を務めている」
どこかの地下室。合計十個のモニターの前で二人の人物が話している。
「あのお嬢さんが他人を家に連れたのか? 前代未聞だな」
「ひょっとすると彼氏かもしれない」
「まさか。あの気の強い性格に順応できるものか。ましてやこんな
「助けるか?」
「お嬢ちゃんが言ったらな。そうじゃなかったら処理してしまえ」
「……迎えの部隊に言い含んでおくか。ところで、市民会館に向かった同志たちは?」
「バリケードを築いて職員を選別している。半分は感染してるそうだ」
「すぐに何人かが転化するだろうな。仕方がないが、市民にどうこうできるはずもない」
片割れが話題を転じた。
「東京は?」
「多分ダメだ。転化者に対して警察の対処が追いついていない」
「〝暴徒〟に向かって銃を撃つことはできないか」
「意外にも仙台では警察が機動的に動いて事態を抑えているそうだ。一週間経って同じ状況だったら、同志の部隊を送ってセーフゾーンにするか?」
「案の一つとしては良いかもな。他の地域は?」
「大阪・京都は東京と同じだな。特に京都は海外から来た観光客が次々転化して事態がさらに悪化している。北九州と新潟にも感染が広がってる。札幌も右に同じだ」
「死者二千万人という予想は外れるな。……悪い方に」
「あと数日もすれば政府も壊滅する。その時になったら我々も動きやすくなるな」
「アメリカは幾つかの州政府を乗っ取って、州兵による隔離を進めているそうだ」
「前々から準備していたらしいからな。富裕層が支援者のグループは裕福で羨ましい」
「中国の方でも軍を上手く味方につけたようだ。各地にセーフゾーンを築きつつ、北京を目指しているらしい」
「それに比べて我々はダメだな。ほとんど後手に回っている」
「それも今のうちだ。最悪のシナリオにはまだなっていない」
彼らのいうウイルスによるパンデミックは世界中で起きていた。既存の政府による統制は失われつつあり、無法による暴力が自らの存在を誇示する時を待って牙を研いでいる。空想の世界だった終末が訪れようとしているのを、聡い人々は感じ始めている。
しかしごく一部──大多数と比較すれば圧倒的少数派といえる人々は、事前に立てていた計画を元に行動を開始していた。
規模は貧弱だったが、彼らには強みがあった。国家やそれに準ずる組織に影響力を持つ人間を味方に引き入れていることである。一言で大勢の人々を動かし、公共施設でも一般人の家でも紙切れ一つで接収できる権力者。〝非常時〟〝緊急事態〟〝異常事態〟という言葉は彼らの行動に正当性を与えた。
世界が急速に発狂していく中、小さな理性はその身を守る手段を既に採っていたのだった。
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