第2話

 うめき声を上げる二年生を見て、ハルは確信した。信じられないことだが、映画やゲームで見るような事態が発生しているのだ。


「逃げるわよ」


 異常なまでに落ち着いた口調で言ったのは、ユノだった。


「えっ、何?」

「逃げるの!」


 ユノの大声に反応するように生徒は腕を振り上げた。


「ヤバッ!」


 そう言いつつもハルは簡単に攻撃を避けることができた。相手の動きが鈍重そのものだったからである。


「モタモタしない!」


 ドアが大きな音を立てて。生徒たちが倒れこむようにしてコンピューター室に入ってくる。


「マジでゾンビじゃん! 映画? 映画じゃないよね?」

「映画でも何でもないわ。現実よ」


 妙に冷静なユノは、近くの机に置いてあったパソコンのキーボードを取ると、それを正面の生徒に向かって力いっぱいに叩きつけた。


「マジ……」

「早く教室に戻るわよ!」

「臨海学校のアンケートは……」

「そんなもの無視しなさい!」


 襲いかかる生徒たちを避け、二人は三階に上がった。三階部分に一年生の教室があるのだ。

 自分たちのクラスである三組の教室に入ると、そこはまだ昼休みの陽気な空気が満ちていて、上の惨状を知る者はいないようだ。


「どうするの?」

学校ここから出るの」


 ユノは鞄を掴み、周囲に向かって叫んだ。


「みんなも早く学校から出た方が良いわよ!」

「何?」

「どうしたの柊さん?」


 当然というべきか、事態を知らないクラスメイトの反応は薄い。その時、ハルは教室の入り口に立っている存在を見て息を飲んだ。

 それは担任の湯川という男性教師だった。鼻から血を垂れ流し、目は白い。

 入り口の近くにいた女子生徒がゆらゆらと立っている春川に気がついた。


「あっ、湯川先生。なんです──」


 湯川は女子生徒に噛みついた。女子生徒の肩から血が噴き出す。


「いやあぁーーッ!」


 悲鳴を上げた後、女子生徒は頭から床に倒れた。


「は?!」

「何やってんだよ?!」

「先生?!」


 教室が騒然とする中、ユノはハルの袖口を引っ張った。


「ユノさん?」

「生きたい?」


 ハルの問いに、ユノも問いで返した。咄嗟にハルは質問の意味を理解した。

 見ると、倒れたクラスメイトは明らかにおかしい動きをしている。身体全体を震わせているのだ。目と鼻から血が出始め、スカートの下から見える脚には血管が浮き出ている。

 それを確認したハルはこれがドッキリでも映画の撮影でもないことを確信した。


「……生きたい」


 小声で、しかし毅然とした口調でハルは言った。


「じゃあついてきて」


 ユノはクラスメイトを完全に無視して教室の外に出た。一方のハルは教室を出る直前、自分たちに気づいたクラスメイトがいないか確認した。


「どうしたの? 由利ちゃん?」

「これヤバくね?」

「人噛み事件じゃん! ヤベェー!」


 誰も気づいていない。おそらくこの教室もあと少しすれば上階と同じ状況になるだろう。ほんの一瞬だけ罪悪感が湧いたが、自分の命を大切にしたいという利己心の方が勝った。ハルはクラスメイトを見捨て、ユノの背を追いかけた。

 一階へ続く階段のエントランスに降りた時、三組の教室から発狂したような唸り声と、クラスメイトの悲鳴が連続して響き渡った。




「どこへ行くの?」


 玄関に向かいながらハルはユノに訊ねた。


「良いからついてきて──ちょっと!」


 血を流した生徒がユノの目の前に現れた。うめき声を上げ、ユノに襲いかかろうとする。


「勘弁して!」


 ユノはしなやかな動作でミドルキックを食らわせた。そのあまりにもこなれた動きにハルは思わず感心してしまう。


「何をやってる!」


 通りかかった教師の一人がユノに怒声を浴びせた。ハルには見覚えがなかったので、おそらく二年生か三年生のクラスを担当しているのだろう。


「事情は後で──」

「事情も何もあるか! この不良生徒が──」


 教師の罵声は途切れた。後ろから二人の生徒に襲われ、その一人に頬を食いちぎられたからである。


「ごめんなさい」


 小声で謝罪し、ハルはユノに続いて校舎の外に出た。

 外は中と同じような状況だった。至るところで血を流した人間が生徒たちに襲いかかり、何人かがその仲間入りを果たしている。


「どうも現実みたいだ」

「当たり前。ほら、行くわよ!」


 狂乱と絶叫の中を二人は縫うように抜けていく。途中、二人は幾つかの妨害に遭遇した。

 ユノの後を追うハルの右腕を何かが掴んだ。


「何だよ?!」

「助けて……」


 男子生徒が血にまみれた手でハルの右腕を離さず、うわごとのように助けを求めている。

 よく見ると、自分の腕を掴んでいる手の血管がグロテスクに脈動しているのにハルは気づいた。


「彼はもうダメよ。ほっときなさい!」


 冷酷なユノの一言は、迷っていたハルには助け舟のようなものだった。


「ごめん!」


 ハルは血濡れた手を振り払い、絶望の表情を浮かべる生徒を置いて逃げ出した。


「よかったのかな」

「ああなったらもう間に合わないわ」

「なんかいろいろ知ってる風だけど、もしかして関係者?」

「……安全が確保できたら、知ってることを教えてあげる」


 二人はついに校門前に到達したが、そこで足を止めざるを得なかった。

 何故なら、開いているはずの校門が閉まっていたのだ。学校から逃げ出した誰かが閉めたのは明白だった。

 校門には逃げ出したい一心の生徒とそれに襲いかかる生徒が殺到していた。


「ダメだね、これ」


 女子生徒の一人が血を流す生徒に両目を押し潰されている光景を目の当たりにしながらハルが呟いた。


「裏に行きましょ。人が少ないかもしれない」


 校舎の裏に走ると、そこにはまだ人はいなかった。校門も開いている。

 裏校門の前に着いた二人は、そこで一息ついた。ハルは地面に膝をつき、空気を肺に取り入れる。鉄灰色の髪には汗がにじんでいた。


「六月だってのに暑すぎ……。汗ヤバイよ……」

「こんな場所でへばってもらうと困るんだけど」

「体力すごいね、ユノさん……」

「あなたが無いだけよ。表の校門からここまで二百メートル程度なんだけど」

「体力が無いタイプなんで」


 調子よく言った後、ハルは鞄から水を取り出した。既に温くなっているが、構わず渇いた喉に流し込む。

 一挙に飲み干したハルは、口を拭いながらユノに訊ねた。


「聞いてなかったんだけど、どこに逃げるの?」

「私の家よ」

「柊さんの?」

「この街で一番安全な所よ。保証してあげる」

「……」


 まるでゾンビ映画の冒頭のような状況で、どうしてユノはこんなにも落ち着いているのだろう。何やら事情を知っているようだが、だとしたら今の状況を説明できる彼女にのこのことついていって良いのだろうか。この事態を引き起こした張本人である可能性もある。映画やゲームではよくあることだ。


「ついていくけどさ……。家に着いたら本当に話してくれるの?」

「そこまであなたが頑張れたら」

「ホント上から目線だな……。分かったよ、こうなったらとことんついていってやる」

「いい心がけね」


 有原学園を出た二人はそのまま住宅街に入っていった。

 そこも学校内と同じような阿鼻叫喚と化していた。道路には車が乗り捨てられ、車が激突した電柱が折れて障害物になっていた。


「この道通れないけど……」

「迂回しましょう。ちゃんとついてきなさい」


 人々が襲われたり逃げ惑ったりしている中を二人は走る。助けを求める声が横を通りすぎるが、ハルは懸命に聞こえないフリをした。老若男女の苦悶の声と、この世の生物のものではないうめき声を背に、ハルとユノは市街地の方面へと移動した。


「市街地の方が人も多くてヤバそうなんですが……」


 ハルはコンピューター室で見た光景を思い出していた。


「私の家は市街地の先なの」

「思ったより遠くない?」

「とにかくついてきて」




 ハルの予想は意外にも外れた。市街地はまだ住宅地での惨劇が波及していないのか、普段通りに人々が行き交っている。確かにサイレンが騒がしいが、まだ混乱状態には陥っていない。

 藤波市は首都圏近郊に位置する地方都市だ。人口はおよそ八十万人ほどで、四方を山に囲まれている。東側に市街地があり、南側に新興住宅地が集合している。ユノは電車に乗り、西の旧市街に向かう旨をハルに伝えた。


「電車? ゾンビ映画じゃ大抵ロクなことにならないと思うんだけど」

「何でもかんでも映画やゲームの知識でどうにかなるって思わないことね」

「正論だけどさぁ……。オタクとしてはつい、ね」

「あなたオタクなの?」

「こう見えてね」


 二人は東藤波駅に入った。やはり平和である。先ほどまでの地獄はただの妄想だったのではと思ってしまうほどに。


「二駅分だけ買って」

「お金あるかな」

「貸さないわよ」


 改札を越え、ハルとユノはホームに入った。まるでタイミングを図ったかのように電車が滑り込んでくる。

 二人は慌てる様子も見せずに電車に乗った。人も少なく、ハルとユノは堂々と席の一角を占有することができた。


「飲み物買っとけばよかった」

「家に着いたらいくらでもあるわ」


 わずかな胸の鼓動を感じながら、ハルはあることに思い立った。


「お母さんどうしてるんだろ」


 彼の脳裏に浮かんだのは市民会館の職員として働く母親の姿だった。物心つく前から女手一つで育ててくれた人である。この異常事態に巻き込まれてほしくないというのが本音だが、そうはいかないだろう。


「お母さんがどうしたの?」

「今も仕事中なんだ。市民会館で」

「市民会館ね……」


 考え込むように人差し指を口に当てながら、ユノはスマートフォンの画面を見始めた。


「市民会館……。……ふうん」

「何?」

「何でもないわ」


 落ち着いた口調でユノがスマートフォンを鞄にしまおうとした時だった。

 甲高く耳障りな悲鳴が電車内に轟いた。乗っていた全員が前方の車両の方を向く。

 視線の先では、血を流したサラリーマン風の男が女性の肩に噛みついていた。


「ちょっ、触らないで!」


 ユノはハルの腕を振りほどく。ハルは思わず彼女の腕を掴んでしまっていた。


「ごめん。でもあれ……」

「騒がないで。もうすぐ着くわ」

「……次は西藤波駅……」


 電車内のアナウンスをきっかけに二人は立ち上がる。ホームに着き、スライドドアが開いた途端に二人は降りた。

 背後で悲鳴が起こる。見ると、電車に乗ろうとした客に血を流した男と女が襲いかかっていた。


「これって旧市街も大変なことになるんじゃ……」

「家に着けば大丈夫!」


 逃げ出す人々に先んじて、二人は駅を出た。安全な場所を求めて。



 *



 ハルの母、夕凪ルミは突如として市民会館にやって来た自衛隊員と対面していた。


「何なんです?」

「ウイルスによるテロです。この藤波市民会館を臨時の避難所として利用します」

「聞いてません」

「突然のことで申し訳ありませんが、どうかご理解を」


 ガスマスクを装着した物々しい出で立ちの自衛官の後ろでは、既に他の自衛隊員たちが門にバリケードを築いている。


「何ですアレは」

「必要な措置です。バリケードの設置が終わり次第、簡易のウイルスチェックを行うので職員の方々を集めてください」

「それはどういう──」

「失礼します!」


 隊員の一人がルミと自衛官のもとへやって来た。


「市街地での発生を確認しました!」


 報告を聞いた自衛官は頷き、バリケードの設置を急がせるよう指示した。


「詳しい説明はできませんが、事態は急を要しています。ホールをすぐに使えるようにしておいてください」


 そう言って自衛官は門の方へ走っていってしまった。


「夕凪さん、これはどういうことなんだね?」


 中に入ったルミを市民会館の館長が迎えた。


「分かりません。けど、訓練ではなさそうです」

「何が起こっているのか言ってたかね」

「ウイルスによるテロだって……」

「テロ?!」


 周囲に集まっていた職員たちがざわめく。


「テロって、ここで?!」

「たぶん……」

「マスクの備蓄はあるが、もしかしてここを避難所にするつもりなのかい?」

「あの人たちはその気です」

「何てこった。すぐにホールの準備を」


 うろたえた口調に反して館長の指示は的確だった。職員たちは動揺しつつも自分たちの仕事に取りかかった。

 ルミも数人の職員を連れ、備蓄されているマスクを取りに倉庫へ足を運ぶ。


(転化者……?)


 隊員が口にした言葉が頭から離れない。しかし指揮を執っていたあの自衛官はその言葉を聞いた途端、ガスマスクの奥で顔をしかめたような気がする。何かがおかしい。おかしいが、今はそんなことを考えている場合ではなさそうである。


(ハル……)


 ルミにとって気がかりなのは、一人息子のハルだった。今は何をしているのか。会館からハルの通う有原学園は直線で四キロの距離がある。午後の授業が始まった頃だが、テロの情報は届いているのだろうか。


(お願い、無事でいて)


 それだけを祈って、ルミは自分の仕事に精励するのだった。


 


 


 




 


 


 







 


 

 


 


 


 

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