Emergence of Infected(エマージェンス・オブ・インフェクテッド)
不知火 慎
第一章
第一話 反転
第1話
「いわゆる〝人噛み事件〟は今月の二件で通算十二件目となり、警察は深夜の出歩きを避けるよう再び呼びかけ……」
ニュースの音声を聞きながら、
学校指定のブレザーを着、ネクタイを締めて鏡の前に立つ。少しネクタイが曲がっていたので調整し、ハネている寝癖を直して準備を終わらせた。
「行ってくるね」
食器を洗っている母に声をかけ、ハルは家を出た。
雲一つ無い快晴。ハルを歓迎するように鳥がさえずり、外は暖かな陽光のおかげで一日の始まりに最適な気温になっている。ハルは爽やかな空気を吸ってから歩き出した。
夕凪ハルは高校一年生。関東圏の地方都市〝藤波市〟にある私立高校〝有原学園〟に通っている。家に近いからという理由で受験したが、中学校時代に親しかった同級生とは散り散りになってしまい、気心の知れた友人がいないことで心に寂しさを残す学校生活を送っている。
それでも、ハルはクラスメイトからは好意的に見られていた。一つは彼の容姿にある。ハルは初対面の人間が見れば──ほんの一瞬だが──誰もが女性だと見間違えてしまうほど中性的な顔立ちをしているのだ。
〝角度によっては本当に女子に見える〟。クラスメイト男子たちのハルに対する共通した評価である。本人はいまいち自覚できていないためにこの評価には不満があったが、悪口ではないので甘んじて受け入れている。
自宅近くの駅に着き、そこから電車で数分移動した先に彼の通う高校はあった。朝も早いというのに既に他の生徒たちが登校している。
「真面目だなぁ……」
他人事のように呟きながらハルは校門をまたいだ。
一年三組の教室に入ると、数人のクラスメイトから挨拶された。
「おはよう」
人好きのする笑顔で挨拶を返しながらハルは自分の席につく。すると一人の女子生徒が近づいてきた。
「おはよう、夕凪くん」
金色に近い茶髪をハーフアップにした少女が目の前に立っていた。血色の良い白い肌。目鼻立ちはキリッとしていてキツい印象を与えるが、内側から出ているような艶やかさがそれを和らげている。スタイルも抜群で、特にブレザー越しでも分かる腰のラインが彼女の身体美を過不足なく示している。
まさしく〝美少女〟という言葉がふさわしい、とハルは彼女の胸元に視線を移しながら思った。大きいバストではないが、それでもグラビアアイドルが務まりそうな曲線美がハルはお気に入りだった。
「どこを見てるの?」
青空のように澄んだ瞳がハルに射貫くような視線を発射した。
「どこも見てないよ。で、何か用?」
「〝何か用?〟ですって? 先週私が作ってきてって言った臨海学校のアンケートはどうしたの?」
「あっ」
ハルは腑抜けた声を出した。それを聞いた少女は事情を察したようだった。
「……ああ、そう。忘れてたのね。先週の金曜日にあれだけ言っといて、そして土日は何やってたの?!」
「ごめん!」
椅子から立ち上がってハルは鉄灰色の頭を下げた。クラスメイトたちは興味津々に二人の会話を見物している。
「……けどさぁ、あれって締め切りまで二週間もあるじゃん。そんな急がなくたって……」
腰を曲げたままハルは少女を見上げる。少女は溜め息をつき、まるでボディラインを誇示するように腰に手を据えた。
「そんなこと言って締め切りを守れた人、私見たことないわ」
「じゃあ俺がその一人目ってことで……」
「バカなこと言わない! もう良いわ。昼休みにコンピューター室でアンケート作るわよ。あなたがちゃーんとやってるか、私が直々に監督してあげる」
「え~?!」
ハルに同情する声が上がった。それと同時に、羨む声も。ハルの目の前に立つ少女、
そんなユノはクラス委員を務めている。容姿端麗な上に責任感もある。あまりの完璧ぶりに嫉妬する者もいるだろう。クラス委員はもう一人いて、それがハルだった。
「今日は早く帰ってゲームしたいな……」
「それならあなたの家に行って監督してあげる」
「えっ、来るの? それならそれで──」
「んなわけないでしょ! ちょっとクラス委員としての自覚が無いんじゃないの? あなたはどうしてそんなに」
ユノの説教はチャイムで打ち切られるまで続いた。その間、クラスメイトたちは一方的な口撃にさらされるハルのうろたえる姿を面白そうに見ていた。
授業の間、ハルは自分の斜め右前に座っているユノを見ていた。彼はユノに憧れの感情を抱いていた。一目惚れである。ユノを見て懸想しない男がいるとすれば、それはよほど精神を病んでいるか、度を越した
それにしても、とハルは思う。自分はユノのことをほとんど知らない。クラス委員として一緒に過ごす時間は、わずかではあるがクラスメイトのそれよりも多い。だが、彼女の人となりはほとんど掴めていない。
父親が外国人で、良いとこのお嬢様、らしい。ハルが知るユノのパーソナリティである。つまりはほとんど何も知らないということだ。
だが、役職上の都合があるとはいえ、彼女の方から積極的に話しかけてくれるのは嬉しかった。ほとんどの男子はユノと会話すらできない。話しかけても一言二言で会話は終わってしまう。それに比べてハルとユノの会話には──ユノ側が圧倒的に口数が多いが──明確に言葉の応酬がある。それがハルにある種の優越感を与えていた。
〝昼休みにコンピューター室に来い〟という命令も、解釈によっては合法的にユノと二人っきりになれる口実となる。これはこれで良いかもしれない。
そんなことを考えていた昼休みの始め。ハルは男子のグループに声をかけられた。
「これ見ろよ」
クラスメイトの一人がスマートフォンの画面をハルに見せた。そこにはハルの住む街で〝人噛み事件〟が起きたというニュース速報の映像が映っていた。
「ヤバくね?」
「前から起こってるアレ?」
「そう。もう完全にゾンビ映画じゃん、これ」
「それこそ映画の観すぎだろ」
「ハルは怖くねえのか?」
「怖いの?」
「いや怖いだろ。夜とか昼とか関係無いんだぜ? 怖ぇって」
その時、ハルを呼ぶ声が教室の入り口から轟いた。
「夕凪くん! 話なんかしてないで来なさい!」
「おっ、ハルの世話係が呼んでるぞ」
「まるで飼育されてるみたいで嫌だな……」
ゆっくりと立ち上がり、ハルはユノのもとへ行った。
「遅い。もっとキビキビ動きなさい」
「ごめん」
「昼休みにやるって言ってたわよね。何でコンピューター室の前で待ってないの」
「ごめん」
鉄灰色の髪を揺らしながらハルはユノにのこのことついていく。その様子を見たクラスメイトたちは笑いを抑えずにはいられないのだった。
静かな部屋の中で、一台のパソコンが煌々と画面を映し出している。そこはコンピューター室と呼ばれている場所で、パソコンを使った授業で使用される。
「使えるのは昼休みの間だけだから。早くして」
「私立だから一人一台ずつパソコンが配られるのかと思ったけど、意外とケチ臭いな、この高校」
ハルは母親から〝有原学園の授業料は結構高い〟と言われたことがあった。それ以来、彼は入学する学校を間違えてしまったのではと考えこむ機会がたびたび訪れた。壁は数十年の汚れが染み付いているかのように濁った白色だし、学食はぬるいカレーと妙に味の薄い醤油ラーメンを日替わりで提供するだけだし、素行不良の生徒は意外に多く、成績優秀者と成績不良者の差は雲泥どころではない。
何が有原学園五十年の歴史だ。ハルは入学式に見た校長の禿げ頭を思い出しながら胸中で独語した。今にして思えば、〝創立五十周年〟というフレーズをしきりに使っていた辺りで学校の程度を知るべきだったのかもしれない。歴史ばかり語って実績を語らない組織がまともだった試しは無い。生徒ごとに態度を変える人間が担任であるところ見るに、教師の質にも問題があるのだろう。華やかな青春を夢見ていた訳ではないが、限度というものがある。入学してまだ二ヶ月ほどしか経っていないが、有原学園におけるハルの楽しみはユノと会うことくらいに限定されてしまっていた。
そこまで思考が巡ってきた所で、ふとハルの脳内にある疑問が浮かんだ。どうしてユノのような才媛がこんな学校に通うのだろう。完全に偏見だが、ユノにはもっと格式を重んじたり、長い歴史に匹敵する堅実な実績を積み重ねているような学校に通っている方が似合う。
そんなわけでハルは唐突に質問を投げ掛けた。
「どうして柊さんはこの学校に入学したの?」
「何? 急に」
「いや、ここって結構ヤバイっていうか……俺が思っていたような高校生活ではないから……」
ユノは静かにため息をつき、肩にかかった茶髪をなびかせた。
「無駄なこと喋ってないで早く終わらせなさい。このあと印刷まで終わらせるんだから」
「絶対昼休み中に終わらないよ」
「なら放課後も残りなさい」
「ええ……」
不満をあらわにしつつ、ハルはキーボードを叩く。ぶつぶつ文句を言いながら、五分でアンケートの草稿を作成した彼を見て、ユノはわずらわしげに金色に近い茶髪をかきあげた。
「……こんな簡単にできるなら、家でもできたんじゃない?」
「そうかもね……」
ハルの返答はほとんど呟きに近いものだった。それがいっそうユノを苛立たせたようだった。
「あのね、これはあなたの為でもあるのよ? なるべく早く終わらせて、余裕があった方がずっと良いでしょ?」
「ならまだ二週間くらい時間があったんだし……」
「はあ?」
「ぐっ。す、すいません」
胸ぐらを掴まれたハルがその場しのぎの言い訳を考え始めた、その時だった。
耳をつんざくような火災報知器の音がコンピューター室に轟いた。二人は思わず天井と一体化しているスピーカーを見上げた。
「火事? 嘘でしょ?」
ハルがネクタイを直している間、ユノは部屋の入り口に向かった。
入り口に近づいて、ユノは部屋の外が狂騒に染められつつあることに気がついた。コンピューター室のすぐ横にある階段から、女子生徒の甲高い悲鳴が聞こえたのだ。
不意にユノの視角の陰から一人の男子生徒が現れた。トイレから出てきたと思われるその男子生徒は、そのまま二年生の教室に入っていった。
絶叫と悲鳴がユノの鼓膜に叩きつけられた。二年生の生徒か、一人が教室から出ようとしてつまずき、半身だけを廊下にさらした後、何かに引っ張られて教室内に戻っていった。
「何? 明らかに火事じゃないよね?」
校内放送も何も無いことからハルはそう予測を立てた。一方のユノは廊下を注視し、ややあってコンピューター室の窓に向かった。
「ちょっと?」
ハルの言葉を完全に無視し、ユノはカーテンを開けて外の様子が見えるようにした。
有原学園は藤波市の住宅街にある。そしてコンピューター室の窓からは市街地が見えるようになっていた。
「……燃えてる?」
市街地の数ヶ所から立ち上る黒煙を見て、ハルが呟いた。パトカーのサイレンの音がけたたましく鳴り響き、普段の平和な光景とは完全に一線を画している。
二人が茫然として外の風景を見ていると、突然コンピューター室のスライド式ドアを叩く音が聞こえた。
「な、なんすか?」
声を上ずらせつつ、ハルはドアの前に向かう。そこには数人の生徒がいた。……だが、ハルが見るにその様子はおかしかった。
目や口から流れているのは明らかに血である。瞳は漂白剤に漬け込まれたように白く、尋常ではない。
そんな生徒たちは、まるで地獄の亡者が拷問に苦しんでいるような唸り声を上げ、ドアの取ってに手をかけることもなくすり寄っている。まるで開け方を知らないように。
「あれ、これ、ヤバくね……」
事態の異常さを肌で感じたハルは、思わず後退りする。
見とがめたユノがハルの横に立った瞬間、生徒の一人がドアのガラスに頭を打ち付け始めた。
「ウソ、正気か?!」
「これは……!」
血が流れているというのに、生徒はドアのガラスにその頭部を打ち付ける。
それが耐えられるはずも無く、ドアにはめ込まれていた薄いガラスは見事に割れた。ハルは咄嗟にユノの前に立ち、飛び散った破片が彼女に当たらないよう盾になった。
「うぅ」
ひとつ呻いた後、ガラスを割った生徒がナメクジのように緩慢な動作で入ってきた。入った瞬間、今度は床に頭を打ち付けたが、やはり気にすることなくハルとユノを見上げた。
「アレ? これ、もしかして……」
ハルの脳内記憶が現在の状況に合致する情報を検索する。うめき声、明らかにおかしい目、傷を痛がらない姿。
「……ゾンビってやつ?」
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