第14話 胸の痛みと願いと

「う、ううん」

(……どうにか、生きてます?)


 目眩がするほどのはるか高みから落っこちて、オルテンシアがまず思ったのがそれだった。

 落下の最中、どうにか聖白の杖を出現させ、浮遊魔法で落下の衝撃を殺すことが出来たものの、失敗すれば危うくひき肉になるところだった。

 無謀にも、自分を追って飛び降りたヴィルヘルムと一緒に。


「あはは、見事に落ちたね」


 だというのに、空中で彼女を捕まえ自分が盾になるよう上下を入れ替えたヴィルヘルムは、オルテンシアの下でにこやかに微笑んでいる。


(うぬぬぬぬ)

「うーん、自力で登るのは無理そうだし、どうにか合流できる道を探さないとかな?」


 彼の広い胸に顔を押し付けられたオルテンシアと違って、空を仰ぐ格好のヴィルヘルムはそんな呑気な感想を漏らすのだ。


(~~、笑い事ではありません!)


 ヴィルヘルムには色々と言いたいことがある。だが、とりあえず彼の腕から抜け出して呼吸を取り戻すと、安否を確認することにした。


「ぷはっ! 大丈夫ですか殿下? どこか痛いところやお怪我は?」


 オルテンシアが身を起こすと、ヴィルヘルムも倣って上体を起こす。

 地面に座ったまま向き合う形となり、ヴィルヘルムもまた、オルテンシアの状態を目視で確認する。


「うん、平気。君が落下の衝撃を和らげてくれたからね。オルティこそ痛いところや魔力は大丈夫?」

「えと、魔力以外は大丈夫だと思います……が!」


 さりげなく、乱れて顔にかかった髪を整えてくれるヴィルヘルムの右手を捕まえ、オルテンシアはずいっと彼に顔を寄せた。


「殿下。庇っていただいたのは大変ありがたいのですが、ひとこと言わせていただくのなら、王族の方がその身を犠牲にしてはなりません!」


 きりりと厳しい顔をして、オルテンシアは心の底から彼を叱る。


「殿下は御身を軽視しすぎです。あなたは王国にとっても私にとっても、かけがえのない大切なひとなのですよ」

「……うん」


 あまりにも真剣だったから、彼がさりげなく抱き寄せ、膝の上に座らせたのには気づかない。


「あなたが傷つくことを心配する者がいると、どうかわかってくださいませ」

「そうだね。オルティの気持ちを考えていなかった。ごめん」


 心の底からすまなそうに言った後で、ヴィルヘルムは捕らえられた右手をするりと滑らせた。

 指同士を絡めるように繋ぎなおし、「でも」と続ける。


「俺は、君のいなくなった世界に興味はないんだ」


 ぽつりと迷子のように呟いた彼は、夜色の瞳でオルテンシアを見据える。


「それにもしも君を失えば、俺自身も生きていられないって、オルティも知っているでしょ?」

「それは」

(……知っています)


 脅迫にも似たその言葉をヴィルヘルムがどんな気持ちで吐いたのかも、彼女はもちろん知っている。

 だからしゅんとした顔で見詰められると、ついつい絆されそうになってしまうのだ。


「だから自分のためにも咄嗟に君を守らなきゃって、体が動いた。そんな理由ではだめ?」 

「っ」

(そんな、叱られた、子犬のような顔で見られても!)

「そんな、理由でも、だめ……っ、です!!」


 夜色の瞳で哀れっぽく見つめられるたび、ぐらぐらと心が揺れる。それをどうにかぎゅっと握りしめながら、オルテンシアはつっかえながらも言い切るのだった。


「この件に関しては、絆されたりなんか……っ」


 いや、頑張って言い切ろうとはした。


「しない?」

「う~~!!」

(だめです! 殿下の目を見てはいけません!)


 いつもそうやって煙に巻こうとするが、この機会にはっきりと約束してもらわねばならないのだ。


(そう。ちゃんと心を鬼にして言うのです、私! 『私よりもご自分を優先すると、お約束してください』と!)


 だがぽつりと落ちた次の一言に、その考えは頭から消し飛んでしまった。


「禍が消えて魔物の討伐で発散する機会が減ったせいもあるのかな。ほんの少しずつだけど、体に収めきれないマナが増えているんだ」

「え?」

「だから第八サークルの壁も超えることが出来た。でも、あふれ出た俺のマナを吸収し均衡を保てるのは、今のところオルティだけでしょ?」


 語りながら、ヴィルヘルムは甘えるようにぽすんと、オルテンシアの肩に頭を預ける。


「もしも君を失えば、暴走したマナは俺ごとこの大陸を飲み込み、消滅させる。だから父上も教皇猊下も、あの皇帝陛下ですらも。俺たちの婚約を肯定している」

「……」

「俺の身を本当の意味で案じてくれるのはきっと君だけだ。オルティの『特別』でいられるのはすごく嬉しい。けれど俺が禍以上に世界を壊す『破壊神』になることを、君は望んでいないだろう。だったら……君を失う前に俺が消えたほうが、都合がいいんだ」


 表情を見せないように、彼は瞳を閉じてそう告げる。

 まるで告解のように紡がれた台詞に、オルテンシアの胸はつきんと痛んだ。


「そんなことは——……」

(いいえ。私の口からそんなことは言えません)


 だって、そう言ってしまえば、ヴィルヘルムの正義も否定してしまうことになる。

 世界が褒め称える『英雄』が、時限爆弾のようなマナを抱えていると、誰が想像できるだろう。

 彼が美しい笑顔と華々しい活躍の裏に、果てしない孤独と苦悩を隠していると。


(殿下は私と出会うまで、年齢とともに肥大するマナに、いずれ殺されてしまうだろうと言われていた。そして、周囲を巻き込む前に名誉ある死を選ぶべきだとも、ご自分で考えていらっしゃった)


 彼が導き出した自己犠牲解決策は、何事にも器用でいてどこか不器用な、ヴィルヘルムなりの愛なのだ。


 けれども彼の口から『禍以上に世界を壊す破壊神』だとか、『消えたほうが都合がいい』だなんて聞きたくなくて。

 オルテンシアは頬を両手で包み込むと、優しく顔を上げさせ、真っ直ぐ視線を交差させた。


「殿下」

「?」

「そんなことには、絶対になりません」

「——……」


(私が絶対に阻止してみせるから)


「私は絶対にあなたよりも先に死んだりしません。絶対に、お一人にはさせません」


 どうか、いつも彼が惜しみなく与えてくれる温もりや優しさのように——この言葉が届きますように。


 そう強い決意を込めて、迷いなく見据える。


「——……」


 すると彼の顔が泣き笑いのように歪む。


「……うん。きみがずっと傍にいてくれれば、そんなことにはならないものね」


 すり、と猫のように右手に頬を擦りつける仕草や、どこか掠れた声は、『これがどうか現実でありますように』と神に祈り、その御手にキスする姿にも似ている。

 だから手の平にそっと落とされたキスは、深い深い祈りが込められたものだと伝わってくる。


「だからどうか、俺を見捨てないで」


 縋るようでいてどこか熱っぽい眼差しに、痛んだ胸がきゅうっと締め付けられる。


「オルティ。君だけが、俺を救えるんだ」

「……」

(見捨てるだなんて、そんなこと。……絶対に、ないのです)


 どきどきと胸が早鐘を打つのは、彼の願いがあまりにも悲しく切ないからだろうか。

 オルテンシアは目を瞑ると、祝福を施すようにこつんと額を合わせた。


「殿下……」


 それから普段は不敬だと思って決して口にしない名で、改めて呼んだ。


「ヴィルヘルム様」


 すると、ほんの微かに息を呑む音が聞こえた気がした。


「この魂にかけて誓います。私はけっしてあなたを見捨てたりはしないと」

「——……」

「これからさき何があろうと、私があなたを見捨てるなんてことは決してありません」


 心からそう誓った後で、オルテンシアは名前を呼んだことや触れ合っている距離が少しだけ照れくさくなった。へへっと笑って体を離す。


「むしろ私が殿下に呆れられて見限られてしまう可能性のほうが、遥かに高そうですしね」


 照れ笑いを浮かべながらそう口にすれば、ヴィルヘルムが不思議そうに首を傾げる。


「どうして?」

「だって殿下は物を知らない私にも根気よく教えを説き、たくさんの経験を与えて下さっているではありませんか」

「……」

「その優しさに甘えていてはいけないと思いつつ、ついつい甘えてしまうのです。ですからいつか、殿下が私に愛想を突かれる日が来るのではないかと思っているのです」

「オルティ」


 オルテンシアの告白に驚いたのか、夜色の瞳が数度瞬く。それから彼の口元に柔らかな微笑みが浮かんだ。


「そんなことない。君に何かをしてあげたいのは俺の意思だし、甘えられるのは好きだよ。君の驚く顔や喜びでキラキラと輝く瞳を見るたびに、愛おしさが募るんだ」

(愛おしさ……)


 その単語を告げた彼の声は、どこかいつもと違う気がした。


(それに、何でしょう。この気持ちは……)


 胸の奥がじんわりと温かくなり、それでいて鼓動が早くなり、ヴィルヘルムの瞳を直視していられなくなる。

 指に絡めた水色の髪にそっと唇を寄せる彼の目は、あまりにも熱っぽく恭しいのだ。


(殿下が、まるで神聖なものでも見るように、私を見てくるからでしょうか)


 なんだか目を合わせていられなくなって、オルテンシアはぱっと視線を落とす。

 それからドキドキと高鳴る鼓動を誤魔化すように、早口にまくし立てていた。


「では、こうしましょう! 私だけがいただいてばかりでは不公平ですので、殿下もどんどん甘えて——ひゃ!」


 だが、ふいに。

 誰もいないはずの背後からピンと髪の毛をひと房引っ張られ、ぴゃっと飛び上がる。


「な、なんですか!?」


 先ほどとは違う意味で、オルテンシアの口から心臓が飛び出しそうになる。


(殿下の手は私の腰に、というかいつのまにお膝の上に!? はわわ、この状況もよく考えたら、いえ、それよりも今は髪を引っ張った何かの正体を——)

「……あ」


 大混乱に陥りながらも、髪を押さえて振り返ったオルテンシアは、ふわりと宙に浮く光を見つけて吐息を漏らした。


「ギィィ!」

「さっきの、妖精さん!?」

「なに、この羽虫は?」

「あ、先ほどの旋風さんと言いますか……」

「これが元凶?」

(……あ)


 にこっと美しく微笑むと、ヴィルヘルムは優しくオルテンシアをその膝から降ろし、ゆっくりと立ち上がる。


「そうか、オルティを危険にさらしたのは、この羽虫……」


 それから、自分たちの周りを旋回する妖精へ狙いを定め、素早く捕獲した。

 容赦なく胴体を鷲掴みにされた人形サイズの精霊、いや、妖精は、ざらついた甲高い悲鳴のような声をあげた。


「ギ!」


 自慢のトンボのような薄く透き通った羽も、先ほど起こした風も。ヴィルヘルムの手に込められたオーラによって封じられ、抜け出すにも抜け出せないのだろう。

 手足を暴れさせて抵抗しキィキィと鳴いている姿はどことなく哀れだ。


「ねえ、オルティはこれをどうしたらいいと思う?」

「えっと……」


 彼の手を借りて立ち上がったオルテンシアは、ずいっと差し出された妖精と明らかに機嫌が悪そうなヴィルヘルムとを見比べる。

 それから思わずふへっと気の抜けたような声を漏らしてしまった。


「……とりあえず、穏便に、お話を聞こうかと」


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