第13話 審判

 風に舞ってふわり、ふわり。氷の結晶が舞い落ちる。

 それは木や岩場に積もった雪が風で舞いあげられたものか、それとも、ヴィルヘルムのもたらしたものなのか。


(これが、第八サークルの境地……なんて、優美で壮大なのでしょう)

 

 オルテンシアは目の前で繰り広げられる戦いに、不謹慎に魅了され、ほうっと感嘆のため息を零してしまう。


(演舞のような剣捌き、滑らかなマナの流れ、戯れるようなオーラの波……)


 それと同時に、かつて皇帝が『第八サークルの境地に至ると、力の発動とともに超常現象が引き起こって困る』と零していたのを思い出す。


(陛下は気を抜くと、所かまわずブラックホールが生じると苦笑いされていました。……殿下の場合は氷漬けになるのですか)


 それはおそらく、研ぎ澄まされたマナが周囲の圧を吸収し、急激に温度を奪うからだろう。


 黒い津波のようだった幼体は、オーラとともに生じた氷柱と斬撃によって躯と化し。ヴィルヘルムを丸呑みしようと鋭い牙をむき出しにして突撃したアラクネの女王は、数度切りあっただけで、まるで紙粘土のようにあっさりと蠢く足を切り落とされていく。


 そのどれも、ほんの数分のことである。


 「アラクネは幼体でも数人がかりの魔物だ」と援護を訴えていた聖騎士らも、戦いが終盤となれば、もはや言葉もない。ただ息を呑んで見入るばかりである。


「ギィィィィィィ!」

「っ」


 やがて耳をつんざくような悲鳴とともに、胴を一閃されたアラクネが命を散らした。

 凍り付きながら砕け散っていく様は、黒々とした外殻と相まって、まるで黒曜の欠片を振り撒いたようだ。

 すると、しんと静まり返った聴衆の中、思わずと言ったように声をあげた者がいた。


「す、げぇ」


 それを革切れに、様々な賞賛が口を突いて出はじめる。


「これが禍の日に、天地を埋め尽くす魔物の波から大陸を守りぬいた、大陸最強のソードマスターの戦い」

「噂は誇張されているとばかり思っていたが、本当だったんだな」

「俺は実際にこの目で見たことがあるぞ! まあでも、以前よりお強くなられたみたいだが。前よりもオーラに磨きがかかって——……」

 

 ヴィルヘルムを褒め称えるのは、同じ騎士である聖騎士だけではなかった。むしろ性質の違う魔法師や精霊師のほうが、感動は大きいのかもしれない。


(無理もありません。帝国の魔法師や精霊師は、オーラマスターを軽視する傾向にありますから)


 自然現象を起こしたり、治癒や豊穣をもたらしたり。

 奇跡を起こす異能である精霊の力や魔法と違って、オーラはただ単に肉体や武器を強化するだけ。そう考えている魔法師や精霊師は多いのだ。


(私も、殿下が魔物と闘われている姿を初めて拝見しましたが、たしかに、英雄と称えられるべき圧倒的な強さですね)


 ワルム砂漠の決戦。ノイン渓谷を根城にしていた暗黒竜の討伐。ジェルラの戦い。

 そして禍の日、決戦の地であるカルロ山脈から発生した魔物津波モンスターウェーブの一掃など。

 そのどれもヴィルヘルムが率いる軍、もしくは彼が単身で成し遂げた偉業だ。


 オルテンシアはそのどの戦闘にも参加してはいない。ふたりとも、聖女と英雄として、それぞれ別の前線で活躍を期待されていたからだ。

 当然、禍の日もそうだった。

 オルテンシアが禍との直接対決を果たしている間、ヴィルヘルムは各地で猛威を震った魔物の大群と戦っていたのだ。


(だからこそ、殿下はこの若さで『英雄』と尊ばれていらっしゃる。でも……)


「どうだった? なにか参考になったかな?」


 魔物の後始末と浄化作業を周囲に任せたヴィルヘルムが、どこかすっきりした様子でオルテンシアの元へ舞い戻る。

 剣を収めて微笑みを見せる彼に、オルテンシアは思わずぱっと駆け寄った。


「殿下! お怪我は!」

「ん、もしかして心配してくれたの? ありがとう。でも傷一つないよ、ほら」


 両手を広げたヴィルヘルムに、オルテンシアはぴたっと足を止めた。

 むむむと、爪先からてっぺんまでじっと注視してみるが、確かに怪我はしていないようだ。


(むしろ、返り血も浴びていなければ、息ひとつ切れていないご様子……)


 さらさらとした金髪が運動の名残で少し乱れているものの、どこもかしこも戦う前のまま。その圧倒的な技量に、こんな言葉は失礼になるかもしれないと尻込みしつつ、祈るように顔の前で両手を組み、オルテンシアは懇願した。


「ですが次からはちゃんと、守護の加護をかけさせてくださいませっ! 見ているこちらがハラハラしてしまいます!」

「——……」

「殿下?」


 虚を突かれたような表情に、オルテンシアは桃色の瞳で彼を見上げる。

 するとヴィルヘルムは、ふっと声を漏らし破顔したのだ。


「ははっ。……うん。次からは絶対そうするって約束する」


 自分の言葉のなにが嬉しかったのかはわからない。

 けれどヴィルヘルムが本心から微笑み約束してくれたので、オルテンシアもほっと胸を撫で下ろす。


「さて。それじゃあもう一つの問題も、片付けてしまおうか」


 ふたりの間に空いていた三歩ほどの隙間を埋め、ヴィルヘルムがちらりとオルテンシアの背後へ視線を送る。

 放心した様子で地面に膝をついているのは、この騒ぎをひき起こした張本人だ。


(ジョルジュ司祭……。変わってくださることを期待しておりましたが、もう彼を見逃すことはできないでしょう)


 精霊師としての能力を買い、残留させることで得られる利益を期待していた。けれどももはや、彼の身勝手さを見逃してこうむる不利益のほうが、はるかに有害になりつつある。


 オルテンシアは瞠目して気持ちを静めると、聖女としての威厳を纏い瞼を開ける。


「ガヴァリエーレ卿。ジョルジュ司祭……いえ、信徒ジョルジュを拘束し、皇都へ転送する準備をお願いいたします」

「はっ」

「な、聖女様!?」


 はっと我に返ったジョルジュが悲鳴に近い声を上げた。だがオルテンシアはもう、彼の方を見なかった。


「教皇猊下には私の方から書信をお出しします。いち審査官としての私の意見は、それでご理解いただけるでしょう」


 つまり、事実上の更迭だ。


「聖女様! フレイほどの上級精霊と契約を結ぶこのわたしを、破門されるとは正気なのですか!」


 精霊の力を抑制する拘束具をはめようと、押さえつけてくる聖騎士二名に抵抗しながら、ジョルジュがわあわあと喚く。


「それとも今代の聖女様は、紛い物である聖騎士や異端な王国人と共にありすぎて、精霊師の貴さを忘れてしまわれたのでしょうか! どうか目を覚ましてくださいませ!」

「っ、この!」

「おとなしくしろ!」

「聖女様! 聖ルーチェ・プエギエーラの化身である貴女が、道を誤ってはなりません!!」


 白いローブを泥で汚し、お門違いな理由で自分を責める目の前の男に、オルテンシアは軽蔑を通り越して呆れてしまう。

 それから、自分自身への憤りも。


(やはり、もっと前に決断するべきでした)


 実は、ジョルジュの言動を見張っていた司祭から報告を受けたとき、ほとんど心は決まっていたのだ。


(それなのに決断を先延ばしにし、この事態を巻いたのは私です。ですから今からでもきちんと、責任を果たさなければ)


 命令に背いただけでなく、自らの力を過信し、大災害を引き起こしかけたのだ。その罪は到底許しがたい。

 だからヴィルヘルムに改めてこう問われても、オルテンシアは躊躇いもなく頷いた。


「ほんとうにいいの、オルティ?」

「はい。審査官としてこの方の破門を決定するには、あと二名の同意が必要です。ですが幸いにしてノーチェ様はもともと破門賛成派。監視をお願いしていたペレー特別司祭様も憂慮を示していらっしゃったので、他の方々も異論はないでしょう」


 騒ぎを聞きつけて駆けつけた司祭たちへ視線を投じれば、彼らからも静かな同意が返ってくる。ペレー司祭どころか、残りの審査官二名も同じ気持ちのようだ。


(とりあえず、司祭への任命や罷免は聖女の権限でも可能です。他の司祭様方を牽制していた立場は取り上げました。あとやることは……)


「苦戦しているようだ。俺が手伝おう」


 心の中で思考を整理していたオルテンシアは、ふいに動いたヴィルヘルムへ顔を上げる。

 見れば拘束具を手にした聖騎士たちは、炎に巻かれて苦戦していた。


「往生際が悪くて、実に見苦しいな」

「あ……く、くるな!」


 こつ、と靴音を立ててゆったり近づくヴィルヘルムにも、炎が襲いかかる。だがアラクネを倒せないジョルジュ程度の能力では、彼を止めることはできない。


「……どうしてっ、聖なる火が、こんなにもたやすく。フレイ様……っ」


 圧倒的な青いオーラにはばまれて、ジョルジュはとうとう口にしてはいけない言葉を吐いてしまった。


「——ば、化け物め!」


 その瞬間、シャッと涼やかな音を立てて抜かれた二振りの剣が、ジョルジュの背後から首を狙うように振り下ろされた。


「あ……」


 まるで首切り役人が持つ、大きな鋏を突きつけられたような格好だ。

 銀色の刀身は彼の首を落とさず、交差するように地面へと突き刺さる。

 一部の隙間もない刃は、ジョルジュが身じろぎしようものなら、たちまちその皮膚を切り裂くだろう。


「——愚か者め」

「我らが主を愚弄するとは」

「ひいっ」


 手にした刃にも劣らない、鋭い切れ味の声を向けたのは、ヴィルヘルム直下の騎士二人だ。


「エレナ、ラインハルト」


 ヴィルヘルムは、今にもジョルジュの首を落としそうな二人の名を呼ぶ。けれどやめろとは言わなかった。

 かわりに「そのまま拘束していろ」と告げて、呆気にとられた様子の聖騎士へ視線で促す。


「いまなら拘束具をつけられるだろう」


 どうやらヴィルヘルムは聖騎士の面子を保ってくれるようだ。

 まだ若いその聖騎士は感謝を込めてヴィルヘルムに黙礼し、純粋そうな青い瞳に憧れを滲ませた。

 一方、完全に罪人との扱いを受け、身動きが取れなくジョルジュは、ゆらりとその瞳を赤く揺らした。


「……な、ことが」

(——また!)

「こんなことが、あっていいはずがない!」


 フレイの力を放つのだと察したオルテンシアは、先手を打つためにジョルジュの力を封じようと動く。

 精霊王の加護を受けるオルテンシアに、精霊の攻撃は効果がない。

 しかし他の人々はそうではないのだ。


「聖女様! この悪魔に惑わされてはなりません!」


 ジョルジュが、ヴィルヘルムとその少し後ろに立つオルテンシアへ向けて、精霊の炎を放つ。


「この浄化の炎で、目を覚まさせて差し上げます!」

「——殿下! 聖女様!」


 と、そのとき、後始末を終えたノーチェとルフトが戻ってきた。

 アラクネの巣を取り囲んだのと同じ巨大な炎が放たれたのを見て、ルフトが緊迫した面持ちで魔法の杖を出現させる。

 しかし、ノーチェもヴィルヘルムも焦ってはいなかった。


「大丈夫です、ルフト殿」

(そうです。この程度の炎は相手になりません)


 落ち着いたノーチェの声に、オルテンシアは心の中で頷き返す。

 聖女が願えば精霊は応える。

 それがわかっているから、ふたりともオルテンシアを信じて動かないのだ。


 だから次の瞬間、ヴィルヘルムがぴくっと反応し、背後を振り返ったのは予想外だった。


「——……」

(殿下?)


 夜色の瞳が警戒に細められ、右手が剣の柄にかかる。

 ジョルジュに気をとられていたオルテンシアもまた、一拍遅れて彼の警戒の理由に気付いた。


(妖精?)


 視界の隅にひらっと掠めた細かな光。

 妖精が放つ燐光を追ってさ迷う視線が捕らえたその瞬間、突然足元から突風が巻き上がる。


「あ……!」

「——オルティ!」


 ヴィルヘルムの焦った声を聞くのと共に、オルテンシアは強い力に引っ張られ後方へとよろめいてしまう。


(こ、この先は……!?)


 ふらりとその体が傾いだ先は、アラクネの巣があったのとは真逆。つまり、ごつごつとした岩場の、崖だ。

 旋風に姿を変えた妖精の意図を察したオルテンシアは、どうにか振り切ろうと抵抗を試みる。


(ふっ、うう……風で、息が。……凄い、力っ)


 しかし軽い体は踏ん張る暇もなく、ぐいぐい追いやられていく。

 その後は、まさにあっと言う間の出来事だった。


「オルティ!」

「聖女様!」


 ヴィルヘルムとノーチェが、崖っぷちへと追い詰められていくオルテンシアを掴もうと、手を伸ばすのが見えた。

 だがそれと同時に、オルテンシアの足元から地面の感触がふっと消える。


「っ、~~~~!」


 悲鳴を上げる間もなく重力に従って、オルテンシアは真っ逆さまに落ちていく。

 だからそのあとを追って誰かが身を投じたことなど、彼女は知る由もない。


「——オルテンシア!」

「え、え、え? 殿下ぁ!?」


 宙に投げ出されたオルテンシアを追って、躊躇うことなく身を投じたヴィルヘルムのことも。

 驚きと困惑と絶望が入り交じったルフトの悲鳴が、連なる山々に反響したことも……。

 

「ちょ、ちょっとおぉぉぉぉぉーーーーーー!」

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