第10話 兄はつらいよ

 逃げるように去っていくジョルジュの姿を見届けて、ノーチェは改めて深々と頭を下げた。


「殿下。この度の件、改めて御礼と謝罪をさせてください。聖女様を第一に考えてくださりありがとうございました」


 これは聖騎士というよりも、オルテンシアの兄としてだ。

 ヴィルヘルムは少しの間、何か考えるようにじっとノーチェを見つめていた。だがやがて唇に酷薄な笑みを浮かべて言う。


「ん。護衛騎士というのは実に有意義な役職らしいね」

「!」

「聖女様に軽々しく接し、にやけた顔でべったりと張り付いていると思ったら、挙句の果ては寝室に押し入るなんて……。こっちはオルティの側に男がいるだけで、気が気じゃないっていうのにさ」

「んんっ」


 なんだか酷い言われようだ。


(まるで俺が間男みたいじゃないか)

「……あの、男とはいえ私は聖女様の兄なので、殿下が心配されるようなことは何も」


 理不尽なものを感じて言い返せば、爽やかな笑顔が返ってきた。


「そうなのかな。公爵閣下は卿とオルティを娶わせて、彼女を手元に留めようとお考えだと思うけれど」

「それは閣下のお考えで、私の意見は違います!」

「ふうん?」

「たとえ血が繋がっていなくとも、彼女のことはほんの小さな赤子の頃から見てきたのです。妹に懸想する兄などいないでしょう。邪な思いなどないと精霊王に誓ってもいいのです!! 情を寄せるとしてもそれは親愛! だからそんなふうに、殺気を込めて牽制するのはおやめください」


 先ほどから、冷ややかな視線も、剣先を喉元に突き付けるような殺気も、全部が痛い。


「異性に対するそれとは違いますから!!」


 ノーチェが必死に力を込めて宣言すると、物言えぬ沈黙が広がった。


「……」


 だがやがてヴィルヘルムがすっと夜色の瞳を細め、美しすぎる笑みを浮かべる。


「そうか。どうやら俺の思い違いだったらしい。許してくれ——殿」

(つっ~~!)


 ふわりと凍える様な空気が和み、その笑顔と言葉に込められた圧とのギャップに、ぞわぞわした。

 兄……その単語がなによりも不吉に聞こえるのはなぜなのだろう。


(つまり兄の役割から外れたら、即刻殺ってやるっていう死刑宣告か)


「は、ははは、兄などとは恐れ多い。どうかいつも通り、いつも通り気軽に接してください」

「……ふ、そうかな。じゃあ遠慮なく」


(いま、鼻で嗤った)


 同意したような鼻白んだようなヴィルヘルムの反応に、少しだけカチンときた。だが口調は元に戻っていたので、とりあえずほっともする。


「それで? いくら帝国が精霊の恵と聖女の祈りで興った国とは言え、あの精霊師をつけ上がらせすぎなのではないかな」


 笑みを消したヴィルヘルムは、瞼を伏せ少しだけ不機嫌な口調でノーチェへ尋ねる。


「皇帝陛下へも口を滑らせたと聞いたよ。敬愛する聖女様に対しても態度がでかいし、さっきの言動も……わが国では十分に処分するレベルの不敬だ」


 普段は整った顔からあまり感情が読み取れないヴィルヘルムだが、いまはありありと、気に入らないとその顔に書いてある。

 語る声に耳を傾けつつ、ノーチェはつい思ってしまう。


(英雄だなんだともてはやされていても、殿下はまだ十七歳だものな)


 ヴィルヘルムの微笑みはすべて、本心を隠すための仮面だ。立場的に友好的な態度で周囲と接していても、本心ではオルテンシア以外に関心がない。

 そのことを知っているノーチェとしても、素の表情こちらのほうが機嫌を測らなくていいぶん、気が楽ではある。


「優しいオルティが処分をためらう理由はわかるけれど、卿や陛下まで見逃している理由をぜひとも聞きたいね」

「それは……」


 ノーチェは僅かにためらった末に、「恥ずかしい話ですが」と切り出した。


「殿下もご存じの通り、数の少ない精霊師は大変貴重な人材です。精霊師の力は魔法やオーラと違い、修練を経て得るのではなく、精霊に選ばれた者だけが覚醒する固有能力。その中でもジョルジュ司祭は、苛烈で気難しい火の精霊フレイとの契約に成功した、特に希な逸材なのです」

「……」

「長きにわたる禍との攻防で人手不足が深刻な神殿としては、問題行動が目立つからといって、有益な人手を安易に手放せないのですよ」

「ふうん?」


 オーラマスターの多い王国には、精霊師があまり生まれない。なので王国の王子であるヴィルヘルムには、愚考とも思える主張かもしれない。


 瘴気から生じる魔物には武力を持って対抗し、瘴気によって穢された土地は聖魔法、もしくは神聖力によって浄化する。

 それがエーデルシュタイン王国の一般的なやり方だ。


(だが、聖騎士や司祭など秘跡によって付与される神聖力よりも、強力な治癒と浄化の力を持つのが精霊の力。一般的な精霊師が一人いれば、神聖力保持者の十人分に相当する……)


 加えて、精霊の寵愛は国に豊穣をもたらすものでもあるので、王国以外の国々では精霊師が多ければ多いほど、その国は豊かになると信じられている。


「性格や言動に難があっても実力は確かだから、破門するには理由が足りないということか」

「ええ。禍の爪痕がいまだに癒えていない大陸には、まだまだ精霊の力が不可欠なので」


 その状況で、ジョルジュほどの精霊師を破門し追放するには、よほどの理由が必要となるのだ。


(たとえば、国を代表するような貴人に刃を向けたとか、御身を傷つけたとかでない限り。おそらく今回の審判は不問に処せられるだろう)


 とはいえ神聖裁判が開かれた後、皇帝から呼び出されたノーチェは、彼女からある言葉を告げられてもいた。

 そのときのことを思い出すたびに、何とも言えない気持ちになるのだが。


『老いぼれ共が泣いて縋るから、神聖裁判にかけることで神殿の面子は保ってやった。だがどうせ改心などしないさ』


 艶やかな長い黒髪を肩に流し、紅い薔薇の花弁ように艶やかな唇で弧を描き。玉座の肘あてに気だるげに頬杖をついたジャルディーノ帝国の皇帝は、歌うように言ったものだ。


『あの子に暴言でも吐くようなことがあれば——……』


「ガヴァリエーレ卿。適当な理由でもでっちあげて、いっそ消してしまえばいい」

「……んんっ」


(似ているんだよなあ。陛下と殿下は……)


 記憶の声と現実の声が重なって、ノーチェは咄嗟に咳払いで誤魔化す。

 だが、すんとした気持ちになるのは止められない。


 女豹、血濡れの魔女などとも揶揄される、史上最高峰の大魔法師であり帝国の皇帝エスペルト・モナルカと、大陸最強のソードマスターであるヴィルヘルム。

 本人たちは顔を顰めて否定するだろうが、どちらも人外の化け物級に強く、どちらも周囲がひくほどオルテンシアを溺愛している。そういうところが本当にそっくりだ。


「——皇帝陛下はそう仰った、と推測するけれど」

「……はは。まさか」


 的確すぎる指摘に、ノーチェは咄嗟に愛想笑いで誤魔化す。

 だって、肯定すればきっとヴィルヘルムのことだ。「皇帝の命令に背いてはいけない」などと言ってノーチェに圧をかけるに決まっている。


(だがいくら陛下がそう仰られたとはいえ、頷くわけにも、真に受けるわけにもいかないだろ)


 ノーチェとしても、ジョルジュのような不届き物は気に入らないし、皇権を軽んじる精霊至上主義は危険だと思う。

 けれども彼にとって一番重要なのは、あくまでもオルテンシアの意思なのだ。


(ジョルジュ司祭を破門した影響で、救えるはずの命も救えなくなれば、心を痛めるのはあの子だ。いくらあの子が精霊王ヴィータの契約者だからといって、一人ですべてが救えるわけではない)


 精霊師が一人減ればそれだけ聖女に負担がかかる。とくに、ジョルジュほどの実力者となれば、抜けた穴埋めはかなりのものだ。


(あの司祭を本気で破門させようと思えばいくらでも手はある。だからいまは——)


「陛下も猊下も、聖女様に従えと仰いました」


 ノーチェは巧妙な言葉で真実を隠す。


「これは聖女様が成長されるいい機会でもあるのです。いくら慈愛に溢れているとはいえ、優しさと甘さは違います。甘いだけでは神殿という厳格な秩序と善を背負うことはできません」


 それから念のため、一応くぎも刺しておく。


「…………ですのであまり、不穏なことは企まないでくださいね。くれぐれも、企まないでくださいね」


 心配なので二回言った。

 先ほどジョルジュと言葉を交わしているときも思ったのだが、なんだかヴィルヘルムがジョルジュを破滅に導く蛇のように見えてしまう。


(その耳に甘い言葉を囁き人を破滅させるという邪神アマンは、蛇か美少年の姿をしているというが。まさにそれだな)


「不穏なことを企むって?」


 思わぬ言葉を聞いたとでもいうふうに、ヴィルヘルムが小さく首を傾げる。だがノーチェは無邪気な仕草に騙されたりはしない。


「ジョルジュ司祭の信仰心を刺激して、殿下が敵であると誤解するように、煽らないでくださいということです」


 ズバリ告げて、感情の読めない美しい顔を、思慮深い新緑の瞳で窺う。


「……」

「普段の殿下であれば、あのような愚か者は、弁明させる暇もなく跪かせていたでしょう?」

「酷いな。俺はただ彼に助言をしてあげただけなのに。悪者にしようとするなんて、卿は普段からそんな目で俺を見ているのか?」

「く、そういうつもりでは」


 痛いところを突かれて、ノーチェはくっと顔を顰めた。


(助言と言われてしまえば、たしかにそう取れなくもない発言だった。けれどあれは、明らかに挑発だ)


 なぜならヴィルヘルムは、『オルテンシアの特別』になれるなら、どんな手も惜しまない。


「私はただ……」

「いいよ、許してあげる。神も『汝、隣人を愛せよ』と仰るしね」


 聖典の一説を引用し、ヴィルヘルムは唇に形だけの笑みを履く。

 そして夜空の瞳でノーチェをまっすぐ見つめた。


「人は誰しも過ちを犯す。ゆえに贖罪の機会は平等に与えられるべきだ。与えられたチャンスをどう生かすか。それは当事者自身の判断によるもの……」


 そして打って変わってにこやかな表情と口調に代わる。


「そういえば、階級の話が出たついでに、この前の卿の発言も撤回しておくよ」

「?」

「面倒だから公表はしていないけれど……卿らが敬愛する皇帝陛下と、同じ境地に達したんだ」

「え」

「つまり、第七サークルではなく、第八サークルのソードマスター。それが俺の今の階級だ」


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