第7話 さらりと不穏なのですが!?

(あ……そういえば。薄着というか、ナイトドレスのまま……)


 大きく空いた襟ぐりから、形のいい鎖骨と柔らかな胸の膨らみが覗いている。

 つまり上から見下ろす格好になると、少しだけ谷間が見える。

 上着が落ちないように首元のボタンを止めようとした彼も、ちょうどそのことに気づいたらしい。


 伸びて来た手がぴたりと止まり、なんとも気まずい沈黙が広がった。


「——……」

「あ、あの、殿下……」

「ん?」

「うぐっ!?」


 先に口を開いたのはオルテンシアだった。が、何か言う前に地を這うような低い声とともに一番上のボタンをぎゅっと締められ、喘ぐような悲鳴に変わる。


「く、苦しいです」

「ああ、ごめんごめん。驚きのあまり力が入っちゃった。すぐに着替えを用意しないとね」


 そう言って、ヴィルヘルムは何事もなかったかのように、再び丁寧に手を動かし始める。

 だが……何事も、なかったはずがない!

 詰襟の内側のボタンから、裾の一番下に至るまで。全てのボタンを縫い止めようと黙々と作業しているし。そのうえ笑顔なのにどこかひやりとする、とても不穏な空気を醸し出しているのだ。


(な……なんだか、とんでもなく怒っていらっしゃる……?)


 纏う空気が明らかに変わった気がする。その心当たりがありすぎて、オルテンシアは大いに狼狽える。


(もしや、お見苦しい姿をお見せしてしまったばっかりに? ローブ、ローブは……ああ、転移の際に落としてきてしまったもようです)


 つまり自分は寝間着一枚で、堂々とヴィルヘルムの前に立っていたというわけだ。


(なんてご無礼をっ!)


 自分がどんな不敬を働いたかようやく気付き、さあっと血の気が引くのがわかる。


「申し訳ありません! 王族の方に対し、とんだお目汚しを! 今すぐ、今すぐ着替えて……っ」


 ちなみに「下着に近い姿を見られた」という恥じらいはない。

 もともと儀式の際は「自然の姿で精霊王に拝謁する」という教理に則り、纏う衣服は薄いシルクの儀礼服のみ。むしろいまは下着の上にしっかり厚手のナイトドレスを着ているし、儀礼服に比べればはるかに服らしいのである。

 ただ寝間着であるため、こちらの方が圧倒的に布面積が少ない、というだけで。


「うん。謝る理由がなんとなくずれていることはわかる。ちょっと落ち着こうか」


 オルテンシアの思考を的確に把握したヴィルヘルムは、いまにも土下座しそうな彼女を静かに宥める。

 それから必要な作業を終えた彼は、身をかがめこつんと彼女の額に額を合わせた。


「ちょっとまってて。今すぐ女性司祭を探して、支度を手伝うように伝えてくるから。…………ついでに、ゴミどもの掃除も」


 その仕草も声も、どこまでも穏やかで優しい。

 けれど——けれども!


「えっ? ご、ごみ……?」

(最後の方、さらりと不穏なのですが!?)

「そう」


 ぼそっと言葉尻に呟かれた台詞は、声が小さすぎて危うく聞き逃すところだった。しかし聞き逃せるはずがない。


「お、お待ちを。ごみとはいったい? そしてなぜ剣を手にしたのです!?」

「ん? 安心してよオルティ。君が恥じらうような姿を目にした者は一人残らず掃除しないと。大丈夫。証拠は残さないから」

「だめです、残ります! 絶対に残りますから——ルフト様!」


 頼みの綱とばかりに、空気へ徹した従者に全力で助けを求めた。が、無情にも高速でブンブンと首を横に振られた。

 無理、ということだろう。


「……っ」

(こうなったら、私だけでも全力で止めるしかありません!)


 涙目だったオルテンシアはきっと決意すると、大きく両手を広げて力の限り目の前の体を拘束する。


「ううー。殿下、絶対にいけませんっ。どうしてもと言うのなら、この私を振り払ってからにしてくださいませっ」

「!」

「先ほど申し上げた通り、ジョルジュ司祭は特別司祭。つまり大陸でも稀にみる精霊の寵愛を受けた精霊師なのです! いくら審判中の身とはいえ精霊が納得する理由がなければ、罰した側が呪われてしまいます!」


 急に抱きつかれたからなのか、それともオルテンシアの告げる言葉のせいなのか、珍しくヴィルヘルムが驚きに目を見張る。

 そのもの珍しい表情は思わずじっと見つめてしまいたくなったが、今はそれどころではない。

 ヴィルヘルムの怒りをうまく宥めなければ、彼が呪われてしまうのだ。


「特に火の精霊フレイは所有欲が強く、庇護者を害した者を絶対に許しません。だからこそ皇帝陛下も暴言に対する処罰をその場でグッと堪えられ、神殿へ裁きを委ねられたのです」

「……オルティ」

「そんな顔をしてもダメですよ! 絶対にうんと言うまで離しません!」

「そう?」


 どことなく困った笑みを向けられて、オルテンシアはぱちぱちと目を瞬く。


「ぎゅっと抱きしめてくれるのは俺としても嬉しいけれど、その格好はちょっと困るかも」

「へ?」


 するとヴィルヘルムは、瞳に不思議な輝きを灯らせる。


「それとも、俺はこの状況を利用したほうがいいのかな? いつになく積極的な君をこの腕に閉じ込めて、一緒に過ごせなかった甘い時間を過ごすんだ。誘惑は大歓迎だよ」

「…………は!」


 ぐっと腰に回された手に力がこもり、甘い含みのある言葉が囁かれる。その時になってようやく、オルテンシアも事態を察した。


(はわわ、殿下を止めようと必死だったあまりに!)

「も、申し訳ございません。とんだ無礼を重ね重ね――」


 王族に許可なく抱き着くなど不敬である。しかも普段から何かにつけ抱き寄せたり触れてきたりするヴィルヘルムだったが、オルテンシアがしたように、ぎゅっと体を密着させてくることはあまりなかった。

 これにはさすがのオルテンシアも、真っ赤になってぱっと体を離す。


「殿下は礼節の範囲で親愛の情を示してくださっているというのに、動揺のあまりはしたない真似をしてしまいました。お許しくださいませ」

「……うん」


 全力で頭を下げるオルテンシアへ、微妙に間のある返事が返ってくる。

 おまけに、小さく「親愛の情ね」と自嘲気味な呟きも聞こえた気がした。だが聞き返す間もなくヴィルヘルムが話題を変える。


「それにしても、あの司祭は審判を言い渡されたの?」

「はい。……その、皇帝陛下へ暴言を吐かれまして……」

「ああ。おおかた『血濡れの魔女』とか『禍の器』とでも言ったのかな」

「う、まあ、そのようなところです」


 オルテンシアがわざわざ曖昧に濁したというのに、ヴィルヘルムは禁断の言葉をさらりと吐く。

 しかも最上級の笑顔を浮かべ、こんなことを言うのだ。


「俺としては『魔王』のほうがしっくりくるけど。いっそその場で、あの方に跡形も残らず消し飛ばされていればよかったのにね」

「殿下……っ」


 もつれた水色の髪を梳くように撫でながら、ヴィルヘルムは楽しそうに告げる。


「だってきっと、魔王陛下なら精霊ごと綺麗さっぱり片付けてくれただろう?」

「片付け……っ、そんなことを仰ってはいけません」

「そう?」

「そうです! 精霊はあらゆる場所で広くを聞いているのです。彼らを刺激するような発言は控えねば」

「だったらなおさら言葉にした方がいいじゃないか。あの司祭の暴言でオルティも傷ついたって」

「え……?」

「『聖女に家族は存在しない』なんて、妄言も甚だしいね。君には愛情を注いでくれる立派な父親と兄がいるだろう?」

「それは……」

「それから、未来の家族になる俺もね?」


 ヴィルヘルムの唇が優しく髪に触れたせいか、それとも贈られた言葉のせいなのか。オルテンシアの胸がきゅうっと締め付けられる。


「そもそも俺は、君が初代聖女の名前で呼ばれる決まりが、大嫌いなんだ」


 ヴィルヘルムは上目遣いに桃色の瞳を捉えると、真っ直ぐ告げる。


「誰が何と言おうと、君はオルテンシア・ガヴァリエーレという、一人の可愛い女の子だよ」

「……」


 これはきっとヴィルヘルムの気遣いなのだろう。


(殿下はいつも、私に優しい言葉ばかりをかけて下さる。うう、嬉しいですが、変な顔をしていたのでしょうか。気を使わせてしまいました)


 嬉しさとむず痒さが織り交ざった複雑な感覚に、オルテンシアはうむむと俯いてしまう。

 するとその拍子にヴィルヘルムの手からさらりと零れ落ちた髪が、視界に映るのだ。


(精霊王の寵愛の証である、水色の髪……。私が聖女である証……)


 精霊王ヴィータは、祝福を与えた者へ神聖な青い色を贈るのだという。

 だから——。


『聖女様に家族はおりません』

『聖典にも書かれている事実でしょう』


 先ほどのジョルジュの言葉が蘇り、オルテンシアはきゅっと唇を引き結ぶ。


(確かに。殿下が仰るように、自分で思っているよりも、あの方へ腹が立っているのかもしれません)


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