第三章

第二十三話 「ブルームーンもどき」って呼ぼうか

 目が覚めると、そこはスーザンの家の中でも近くでもなかった。目の上では、曇り空を背景に、鮮やかな緑の葉の密生した枝が揺れていて、体の下にはやわらかい草の感触がある。


 三度も似たような体験をすれば、さすがに慣れる。それでも栞のことが心配でないはずはない。起き上がるなりその姿を探すと、この世界に放りこまれたときと同様、数メートル向こうに倒れていた。駆け寄って両肩を叩いて起こし、怪我はないか尋ね合うのもあのときと同様だ。


 もちろん、その後の会話は違った。


「この映画のランクを上げればあの現象は起こらないし、現実にも帰れるかもしれない……わけじゃなかったのかなぁ」


 倫子はすっかり意気消沈してため息をついたが、


「あら、あの現象は起こらなかったじゃない。赤い稲妻みたいなものが光ったんじゃなくて青い月みたいなものが出てきたんだし、わたしたち気絶したんじゃなくて眠りこんじゃっただけよ」


 栞はあくまで前向きだ。それがうわべだけのものではないことは、曇りのない微笑から明らかである。


「じゃあ今回の現象には……ややこしいから『ブルームーンもどき』って呼ぼうか、何かほかの原因があったってことかな」


「きっとそうよ。あ、じゃあ、赤い稲妻のほうは『レッドスプライトもどき』って呼ばない?」


「いいね」


「それで肝心の原因だけど……実は心当たりがあるの」


 遠慮がちに言った栞を、


「えっ!」


 倫子はまじまじと見つめてしまった。


「それってどんな……?」


「ええ。ほら……ここってメアリーさんが埋葬された墓地でしょう?」


 周囲を見回すと、そのとおりだということがわかった。そればかりか、数十メートル後ろでは、いままさに彼女の葬儀がおこなわれている。


「映画では、ダニエルさんがスーザンさんの遺体の第一発見者であるイヴリンさんに話を聞いて、バーでひとりお酒を飲むシーンのあと、このシーンが始まったわよね?」


「うん」


 ダニエルが、「今日も暑かったね」「全くですよ」「フカいなことこの上ない」「でも、夏が暑くなくなったらサメしいですよ」といった、無意味なことこの上ない会話をマスターと交わしながらウイスキーを飲むだけのシーンが、三分は続いていた。


「あのお酒を飲むシーンは、ダニエルさんがスーザンさんの家でお食事をするシーンに変わった……というか、わたしたちが変えたんじゃないかしら」


「そうか、でも……」


 栞の言わんとすることがわかったかもしれない。


「そのあとこのシーンが始まることは変わってない。つまり、『ブルームーンもどき』はただの場面転換のときに起こるってこと……? 私たちの行動が正しいか間違ってるかに関係なく……」


「そうじゃないかと思うの」


 栞は真顔でうなずいた。


「だとすると、今度はこのシーンのランクを上げればいいんだね」


「ええ。でも……」


 栞が口ごもったのも当然だ。何しろ葬儀のあと、メアリーの夫であるトーマスはひとりで森をさまようのだが、そのシーンも全て無駄なのだから。だいたいアメリカの葬儀では、埋葬のあとは会食をすることが多いのではなかっただろうか。


「とにかく、お葬式が終わったらトーマスさんに話しかけてみよう」


 倫子が言ったとき、折しも黙禱が終わったらしく、メアリーの棺が穴の底に下ろされた。参列者たちは背の高い白髪混じりの中年男性――トーマスに挨拶して去っていき、トーマスは倫子たちのほうに歩いてくる。


「すみません!」


 倫子はあわててトーマスに声をかけた。


「えーと……こ、このたびはご愁傷様です」


「は、はぁ……」


 突然、見ず知らずの東洋人の女性たちにお悔やみを述べられ、トーマスは困惑と不審の色をあらわにしている。


「よりにもよってこんなときに本当に本当に申し訳ないんですけど……もしかしてこれから森を歩かれるおつもりですか?」


「あ、ああ……」


「そ、それはどうして……」


「えっ……? そう言われても……ただそういう気分だからとしか……」


 隣では栞が、


「サメ映画ファンは森を歩くシーンを求めてるって、『マリオネット・シャーク』で言ってたものねぇ」


 しきりにうなずいていた。


「マリオネット・シャーク」は異色のオムニバス形式人形劇サメ映画だ。この台詞は、同じフレッド・ケリー監督の「エーシェント・シャーク」という映画で、延々と森を歩くシーンがあるのを自ら揶揄やゆしたものである。


「参列者のみなさんと会食したりはされないんですか?」


「おや……? 言われてみればなぜそうしなかったんだろう……」


 トーマスはあごにこぶしを当てて考えこんでしまった。


 いずれにせよ、これから会食の場を設けることはできないだろう。いまできることといえば、ダニエルの行動について尋ねてみることくらいだ。


「あの……奥様が亡くなられた翌日か翌々日、ダニエル・ロビンソンさんっていう刑事さんが来ませんでしたか?」


「ああ、来たが……」


「奥様について、何か訊いていきませんでしたか?」


「それはもう、ありとあらゆることを訊いていったよ。趣味やら好物やら好きな音楽や映画や本やら……。彼には悪いが、捜査の役に立つとは思えないようなことまで……」


 よかった。ダニエルはちゃんと主人公らしくふるまってくれているらしい。


「そう思われるのは当然ですが、いちおう意味があるんです……。あっ、そうだ、ひょっとしてトーマスさんもチェリーパイを焼いたりされるんですか?」


「いや、私はお菓子作りはおろか料理も全く……ん? なぜ私の名前を知っているんだ?」


 しまった、初めてイヴリンとスーザンの名前を呼んだときと同じミスをしてしまった。しかも、トーマスはパラレルワールドから来たなんていう話を信じてくれるタイプには見えない。


「え、えーと……トーマスさん、ご自分で思ってらっしゃるより有名になってしまわれたんですよ。こんなのどかな田舎町で起こった……事件の被害者の旦那様でいらっしゃるんですから……」


「そうだったのか……いや、無理もない……。本当になぜ、こんなのどかな田舎町で、メアリーのようなみなに好かれていた女性が……」


 トーマスの濃褐色の目に涙がにじんだ。


「あっ……ご、ごめんなさい」


 ことばを選んだつもりではあったが、やはり傷をえぐってしまったらしい。


「いや、こちらこそみっともない姿を見せてしまって申し訳ない」


 トーマスはハンカチで涙をぬぐい、


「ところで、なぜ私がチェリーパイを焼くかなんていうことが気になるんだね?」


 再び疑問を口にした。


「え、えーと……」


 今度こそ返事に困ってしまう。と、


「実は……わたしたちがホームステイしてるおうちの方も、チェリーパイを焼いてて何者かに襲われたんです。悲鳴が聞こえてすぐわたしたちが駆けつけたので、無事だったんですけど……」


 またしても栞に助けられた。トーマスは目を見開く。


「何てことだ……! つまりこの町で、チェリーパイを焼いている人間ばかりを狙う殺人鬼が徘徊しているかもしれないということか?」


「ええ、まぁ……」


 ――まさか、チェリーパイそのものがひとを襲っているのだとは言えない。


「わかった。そういうことなら犯人が逮捕されるまでチェリーパイは焼かないし、友人や親戚にも事情を話そう」


「お願いします……!」


 トーマスはふと首をかしげ、


「なぜだろう。君たちと話していたら、森を歩きたい気分ではなくなってしまった……ああ、もちろん君たちを責めているわけじゃないんだ。ただ正直な気持ちを口にしただけで……」


「あっ、はい。わかってます」


 二人は大きくうなずいた。


「今日はまっすぐ家に帰って、ひとり静かにメアリーを偲ぶことにするよ。君たちもなるべく早く帰りなさい。頭のおかしいやつの思考回路なんてどう変わるかわからない、チェリーパイを焼いていないからって油断はできないよ」


「はい、そのつもり……」


 言い終えないうちに、青い月のようなものが上ってきた。目を離せずにいるうちに、あの幸福でぼんやりした気分に包まれる。


「わたし、無駄な抵抗はやめるわ……」


 栞が座りこんだので、倫子もあとに続いた。


「君たち、大丈夫か? 具合でも悪いのか?」


「だいじょうぶ……です……」


 トーマスの問いにかろうじて答えた。


 次はどのシーンに飛ばされるのだろう。自分でも驚いたことにほんの少しわくわくしながら、倫子は猛烈な眠気に身を任せた。

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