第十二話 映画のキャラクターであっても

 もと来た道を引き返し、再び中を覗いてみた。スーザンはまだ戻ってきていない。


 栞と顔を見合わせ、真顔でうなずき合った。玄関に回り、栞がチャイムを鳴らす。


 間もなくスーザンがドアを開けた。半ば心配そうな、半ば怪訝な顔をしている。


「どうしたんだい?」


 スーザンのことばを聞いたとたん、倫子は驚愕した。それはたしかに英語だったのに、無意識のうちに頭の中で日本語に翻訳することができたのだ。つまり突然バイリンガルになってしまったのである。


 この世界に来て初めて、少しではあるが嬉しくなった。現実に帰ってもこのままでいられないだろうかなんて、のんきなことを考えてしまう。


「すみませんが、彼女とわたしにお水を一杯ずついただけませんか? 道に迷ってしまって……」


 栞のことばも同様に翻訳できた。


「いいけど……あんたたち二人だけ? 大人はいないの?」


 ――いくつだと思われているのだろう。


 栞は快い笑い声を上げ、


「いえいえ、わたしたち、二人とも成人してます。大学の夏休みを利用して旅行してるんです」


 もっともらしい嘘をついてくれた。


「おや失礼。中国のひとの歳はよくわからなくてね」


「いえ……わたしたち、日本人です」


「こりゃまた失礼。スシとニンジャとアニメとカンフーの国だね」


 栞はもう訂正せずに苦笑した。映画の世界だからかもしれないが、実にイメージどおりのアメリカだ。


 スーザンのあとについて家に入るとき、


「小山内さんも、何ていうか……訳そうとしなくても英語を日本語に訳せた? いや、英語得意だって言ってたから、もともとできるのかもしれないけど……」


 倫子は小声で栞に尋ねた。


「鈴鹿さんも? そうなの。たしかに英語は得意なほうだけど、いつもは英語を日本語に訳すのにも日本語を英語に訳すのにも努力が要るのに、さっきは全然要らなかったわ」


「やっぱり……。ねぇ、私もスーザンさんと話してみてもいいかな?」


「もちろん。あんなふうに英語を話せるの、とっても楽しいわよ。ほんとにZ級映画の世界はすごいわねぇ」


 Z級だということは無関係だと思うが――。


 あのダイニングキッチンに案内され、


「さ、座って座って」


 勧められたとおりにイスに腰かけた。


「あんたたち、レモネードは好き?」


「は、はい」


 二人がうなずくと、スーザンは冷蔵庫からピッチャーを取り出し、グラスにレモネードを注いで出してくれた。それはよく冷えていて甘みも酸味も強く、喉の渇きはもちろん疲れも癒してくれる。


「道に迷ったって言ってたけど、どこに行くつもりだったの?」


 スーザンが自分もレモネードを飲みながら尋ねた。二人は困惑して目配せを交わす。さりげなく部屋を見回すが、ここの地名を教えてくれるものは何もない。


 ――しかたない、ここは直球勝負だ。


「その前にお伺いしたいんですけど……ここは何州ですか?」


 本当だ、英語がすらすら口から出てくる!


 感動したのも束の間、スーザンが怪訝な顔をしているのを見て不安になる。だが幸いにも、スーザンはすぐにあきれ顔になって肩をすくめた。


「よくまぁそんなに派手に道に迷ったもんだねぇ。ここはフロリダだよ」


 日本でも有名で、いくつか地名を知っている州だったことにほっとして、


「えーと……マイアミです。私たちが目指してたのはマイアミ」


 とにかく最初に思いついた地名を口にした。


「マイアミ!?」


 スーザンはますますあきれた顔になる。


「ほとんど逆方向じゃないか。ここはセントジョンズなんだから」


 セントジョンズという地名は知らなかったが、マイアミはフロリダ州南部の都市だから、フロリダ州北部だということは間違いない。


「じゃ、缶とペットボトルの飲み物も持ってきな」


 言うなり、スーザンは冷蔵庫から飲み物を取り出しはじめた。コカ・コーラ、ドクターペッパー、ルートビア、スプライト。


「で、でも……」


「遠慮するんじゃないよ。そりゃ、まっすぐ三十分も走ればスーパーがあるけどね、マイアミに行こうとしてセントジョンズに来ちまうようなケタ外れの方向音痴のあんたたちには、飲み物はあるに越したことはないさ……おっと」


 スーザンは今度はシンクの前に移動して戸棚を開け、


「ほら、食べ物も」


 日本でもおなじみのハリボーのグミやプリングルズ、日本ではなじみのないメーカーのクッキーやクラッカーを取り出した。


「あと一時間半遅く来てくれてりゃ、手作りのチェリーパイも持たせてあげられたんだけどね。自分で言うのも何だけど、あたしのチェリーパイは世界一だよ」


 胸を張るスーザンだが、二人は引きつった笑みを浮かべるしかない。


「あとはその格好! アラスカにでも行くつもりなのかと思ったよ。娘の服があるから、ちょっと待ってな」


 スーザンはダイニングキッチンを出て、Tシャツを二枚持ってきた。紙袋に飲み物と食べ物を詰めこみ、


「さ、もう行きな。せっかくの旅行が、道に迷ってるうちに終わっちまうよ」


 Tシャツと一緒に二人に押しつける。


 紙袋を抱えて外に出ると、


「とってもいいひとだったわね……」


 栞が沈んだ声で言った。


「うん……」


 倫子も沈んだ声で言う。映画のキャラクターであっても、あんなに気のいい女性が一時間半後には殺されると思うと胸が痛んだ。


「ねぇ、わたし……」


 栞はふいに倫子を見つめ、


「あのひとを……スーザンさんを助けたいと思うの」


 その眼差しと同じ決然とした口調で言った。


「うん……私もそう思ってた」


 倫子もまっすぐ栞を見つめ返す。

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