第二章

第十一話 わたしたち、映画の世界に入っちゃったのね

 意識がよみがえってきたとき、倫子が最初に感じたのは暑さだった。その体感はことばにならないまま急激に大きくなっていき、ついに倫子の目を開かせた。


 青い空、白い雲、潮と草の香りと熱を帯びた風。


 こ、ここどこ……!?


 真っ青になって飛び起きると、数メートル向こうに倒れている栞の姿が目に飛びこんできた。同時に気を失う前の記憶がよみがえる。


「小山内さん!」


 真っ青を通り越して真っ白になって栞に駆け寄り、何度か両肩を叩いた。


「うーん……」


 栞はかすかに呻いて薄目を開ける。


「小山内さん、大丈夫!?」


 栞のまぶたが数回小さく上下し、それから完全に上がった。


「鈴鹿さん……」


 栞はゆっくり起き上がり、ふしぎそうに周囲を見回す。


「どこか痛いとことかない……?」


 涙声で尋ねると栞は考えこんだが、


「ええ、ないわ。ありがとう」


 すぐににっこり笑った。安堵のあまり全身から力が抜けそうになる。


「鈴鹿さんもケガはない?」


「うん……ありがとう」


 心配そうに訊き返してもらえたことが嬉しい。栞が再びにっこり笑ったので、ますます嬉しくなった。だがすぐにさっきの疑問と不安がよみがえり、喜びを塗りつぶしてしまう。


「二人とも無事でほんとによかったけど……ここ、どこなんだろう……」


 尋ねるともつぶやくともつかぬ口調で言うと、


「あら、決まってるわ。『ジョーズ VS キラーチェリーパイ』のアバンの舞台よ。つまりブルース町の外れね」


 栞は事もなげに答えた。


「えええっ!」


 仰天して、初めて周囲を見回す。


 ――本当だ。草がまばらに生えたごつごつした地面、ぽつんと建っている赤い屋根に白い壁の一軒家、その向こうに広がる海。


「わたしたち、映画の世界に入っちゃったのね……すてき!」


 栞は指を組んでうっとりしているが、倫子はとてもすてきだなんて思えない。


「いやいやいやいや、小山内さん、感動してる場合じゃないよ! 何とかして現実に帰る方法を見つけなくちゃ……」


「そうねぇ……たしかにずっと帰れなかったらちょっと困るわね。お母さんとお父さんが悲しむし、この世界にサメ映画があるかもわからないし……」


 前者には共感できるが、後者には全力でツッコミを入れたい。だがとにかく、栞が帰る気になってくれただけでも上々だ。


「ふぅ……」


 栞はそこでため息をつき、


「それにしても暑いわね。この映画の舞台は夏だから当たり前だけど……」


 セーターを脱ぎはじめた。そのしぐさにどきりとすると同時に暑さを思い出し、倫子もパーカーを脱ぐ。


「さぁ、しのぎやすくなったところで、あのおうちに行ってみない? 最初の事件はあそこで起こったんだもの、何か手がかりがあるかもしれないわ」


 倫子にも異存はない。一軒家に近づいていき、庭に入って窓から中を覗いた。


「ジョーズ VS キラーチェリーパイ」のアバンのとおり、栗色の髪と瞳の豊満な中年女性――スーザンが片手でボウルを押さえ、片手をボウルの底に押しつけていた。どう見てもボウルに何も入っていないところまで同じだ。テレビ画面を隔てずに見ると、異様さが何倍にもなる光景である。


 スーザンはやがて冷蔵庫にボウルを入れ、ダイニングキッチンを出ていった。


「パイ生地って、最低でも一時間は寝かすよね? いや、ほんとはパイ生地なんてどこにも存在してないけど……」


「そうなの? わたし、お菓子って作ったことないからわからなくて……」


 一時間以上――いや、スーザンが襲われるのはパイが焼き上がったあとなのだから、もっと長い時間だろう、壁にへばりついていてもしかたがない。近くを歩いてみることにした。


 だが、行けども行けども代わり映えのしない風景が続くばかりで、手がかりの手の字もなさそうだ。倫子はうんざりしたし不安を募らせもしたが、


「これぞアメリカの田舎ね!」


 栞はまたしても感動している。


 唯一二人が共通して感じたものは、喉の渇きだ。上着は脱いだとはいえ、初冬の格好で夏の日差しの下を歩いているのだから当然である。だが、コンビニもスーパーも自販機もどこにもない。


「どこかのおうちでお水をもらいましょうか? こう見えてもわたし、英語は得意なほうなの」


 むしろいかにも英語が得意そうに見える。もっとも、倫子はその提案に飛びつく気にはなれなかった。


「でも、ヤバいひとが住んでるかもしれないし……」


 突然撃たれるとか家の中に引きずりこまれて監禁されるとか、ホラー映画やサスペンス映画にありがちな展開で頭がいっぱいになる。


「じゃあ、スーザンさんのおうちに戻ってお水をもらうのは? まだまだパイは焼き上がってないと思うわ」


「そうだね……」


 少なくともスーザンはヤバいひとではないだろう。もうすぐヤバいことに巻きこまれるというだけで。

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