第一章
第一話 「当たり前」じゃない恋心
彼女がガラス越しの光を浴びてフランス語の文章を読み上げる様は、洋画のワンシーンのようだ。
彼女――
ゆるやかなウェーブを描くセミロングの髪、ぱっちりした瞳、長い睫毛。そのどれも色素が薄い。高い鼻、ふっくらしたコーラルピンクの唇、澄んだやわらかい声。背は平均より数センチ高いが、体つきはずっと華奢だ。
「はい、そこまで。次は織田さん」
講師のことばに、性懲りもなく少しがっかりする。いつまでも、こんな栞の姿を見ていたいのに。声を聴いていたいのに。
授業が終わると、
「ねぇねぇ、お昼なんだけど、駅前にできたパスタ屋さんに行ってみない? ちょうどクーポン二枚あるんだ」
「いいよ。あのお店、私も気になってたから」
駅前へ行き、パスタ店「Ti-Koyo チコ」に入った。倫子はキノコとベーコンの和風パスタのランチセットを、紅葉はカニのトマトクリームパスタのランチセットを注文する。
紅葉はグラスの水に口をつけ、
「りんちゃん、今日も小山内さんに見とれてたよね」
無邪気な笑顔で言った。どきりとしたが、
「見とれてたわけじゃ……。音読してるひとには目が行っちゃうものじゃない?」
平静を装って言う。紅葉は含み笑いをしてパタパタと手を振った。
「またまた照れちゃって~。小山内さんってすっごく可愛いもん、女の子でも見とれちゃうのは当たり前だよ」
そう、見とれるだけなら当たり前だろう。
――だが、恋までするのは当たり前ではない。
恋ではなく憧れだと自分に言い聞かせる必要はなかった。物心ついたころから、倫子が惹かれるのはいつも女性だったから。初恋の相手だった小学校のクラスメイトも、二度目の恋の相手だった高校の茶道部の先輩も女の子だ。
そして、誰にもそのことを言えずにいる。恋の相手にはもちろん、家族にも、幼なじみにも、高校でいちばん仲の良かった友達にも、大学でいちばん仲の良い紅葉にも。
東京で生まれ育っていたら、違ったのかもしれない。だが倫子の故郷は地方の小さな町で、まだまだLGBTQに対する風当たりが強い。中学に、学校の反対を押しきって女子の制服を着て登校しはじめたトランスジェンダーの女の子がいたが、いじめに遭って結局不登校になってしまった。しかも学校は「言わんこっちゃない」という態度で、本気で解決する気がないのが見え見えだったのだ。
「気になるなら話しかけてみればいいのに。女の子同士なんだから、遠慮することないし」
「女の子同士では恋愛をしない」ということを前提としたことばに、胸がずきりとしたが、
「いやいや、いきなり話しかけたら変でしょ」
再び平静を装った。
「そんなことないよ、同じ授業受けてるんだし……。それにほら、小山内さんも映画好きみたいじゃん?」
「そりゃそうだけど……」
去年、「フランス語Ⅰ」の授業で、「私の好きなもの」というテーマでスピーチをすることになった。栞はひとりのときはたいてい本を読んでいるので、てっきり好きな本か、本というものや読書という行為について語ると思っていた。
だが意外にも、栞が語ったのは好きな映画のことだった。
さらに意外なことに、その映画とは「ディープ・ブルー」。評価の高い映画だし、倫子も後日観て良作だと思ったが、遺伝子操作で知能の向上したサメが海中の研究施設のひとびとを襲うという内容は、文学少女でお嬢様という栞のイメージには似合わない。
だが、決して幻滅したわけではなかった。
むしろ、恋に落ちる最後の一押しになった。倫子はギャップに弱いのだ。
そこにサラダが運ばれてきて、
「わ、エビが入ってる! 太っ腹~」
紅葉は歓声を上げた。
「そうだね。ふつう、ランチのサラダって野菜だけなのに」
「いただきま~す! ん、ドレッシングもおいしい!」
「いただきます……うん、ほんとおいしい。これはバルサミコ酢が入ってるのかな」
「すご~い、よくわかったね。やっぱ料理上手なひとは違うなぁ」
「料理上手なんかじゃないよ。ほんとに簡単なものしか作らないんだから」
「でも、カレーも肉じゃがも作れるんでしょ?」
「カレーと肉じゃがは簡単なものの代表格だと思うけど……。作り方だいたい同じだし……」
微苦笑しながらも、倫子は内心話題が変わってほっとしていた。
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