第13話 萱草色
ピンポーン。
インターフォンが鳴るのを見てモニターを見ると、黒のTシャツを着てる空木が映っている。玄関のロックを解除した。
かちゃん、と音が鳴った時に、「後戻りはできないよ」って言われた気がした。
それでもいい、好きじゃなくてもいいから、少しでも私を……
決意して扉を開いた。
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「お疲れ様です」
「ありがと。あー疲れた。あ、この香り、柑橘系?」
「はい、そうです」
「いいね、俺これ好き」
……空木くんが好きだって言うから買ってきたんですよ。
っていう言葉を飲み込んだ。
その「好き」は私が欲しいと思うものとは別だけど、少しだけフレグランスが羨ましくなる。
私、全て覚えてるよ。空木が好きって言ったもの、全て、全て。
「おじゃましまーす」
「はーい。……少し休まれますか?」
「じゃあ少し休憩したらやろうよ。これ麦茶?」
「はい」
「もらっていい?」
「ぜひ」
麦茶だって、空木のために用意したものだ。私は本来紅茶とかほうじ茶が好きなのだ。
私とは何もかも違っていて、何もかも合わない、そんな空木が私はこんなにも好きだ。
「課題なんだけど」
「はい」
「『英文学を読んだ上であらすじと感想をまとめる』だっけ」
「……そう、なんです」
少し浮かれているから課題は気分を落ち込ませるのにちょうどよかった。浮かれた時、私は空回りするから。
「好きなイギリスとかアメリカの小説とかある?」
「うーん、シェイクスピアとかシャーロックホームズとか……」
「じゃあ、シャーロックホームズにしようか。シェイクスピアは劇だから難しいよ」
「わ、わかりました」
シェイクスピアは日本語訳も難しかった気がするからほっとした。
「あれ、そういえば、色葉さんシャーロキアンなの?」
「昔児童文庫のミステリーにハマっていて、その影響で数作品だけ……」
「なるほどね。なんか覚えてる作品ある?タイトルじゃなくて、こんな感じの話だったーでもいいよ。日本語で覚えてるやつの方が読みやすいと思うし」
空木の聞き方がわかりやすくて、いろいろ話したくなってしまう。聞き上手だとは思ってたけど……
「えっと、アイリーン?って女性が出てきたような」
「あ、多分『ボヘミアの醜聞』だった気がする」
「えっすごい」
うろ覚えだったタイトルも教えてもらった。そうそう、女性が活躍する話がとても好きなので印象に残ってたのだった。
「ありがとうございます」
「あ、俺いいサイト見つけた。『原文で読むシャーロック・ホームズ』だって。あ、これ日本語訳出るよ」
「本当ですか!?」
「うん、ほら、見てみて」
空木が手招きするので隣に座ってまじまじと見つめる。本当だ、英文の上に日本語訳が載っている。これならなんとかなるかもしれない。
ほっと、一安心した私と空木の目が合う。ちょっと困ったように笑う顔。この世で一番好きな人の顔が、そこにあった。
全身が熱くなって、でも、その目が好きだから、逃げることができない。今すぐ離れないと、自分の熱で死んでしまいそうなのに。
「あー……スマホ渡せばよかったよね、俺。ごめんね」
「す、すみませんっ、今すぐ離れるんで、」
「いや、違くて。そんなに『好き』って顔されると、俺も、満更でもないからさ。ほら、こう、悪い気持ちになると言うか」
「悪い、気持ち?」
バツが悪そうな顔をして、歯切れの悪そうに話す空木。
もしかして、もしかして……
沈黙が永遠のように感じる。その度に期待がふつふつと湧き上がってきてしまって、どうにかなってしまいそうだ。
「色葉さんをからかいたくなるんだよね。好意を利用してさ」
「そ、それは前からでは……」
「もっとタチが悪いよ。俺は君の好意を利用して欲の捌け口にしたいって思ってる」
「よ、欲…………」
それでもいい、と言いたくなった自分の言葉を必死に飲み込んだ。惚れた欲目とはいえ、それは良くない。リスクのある行為だってよく知っている。せめて、恋人同士になったらしたい。
「やだよ、俺。恋がわからないくせに、身勝手な欲で傷つけたし、嫌な思いさせたでしょ、ごめん」
向かい合った空木に深々と詫びられる。顔が見えない。
彼は今、どんな顔をしているんだろう。あのはぐれた子どものような顔をしているのだろうか。
そう思ったら黙っていられなかった。
「空木くん。ハグしませんか?」
「ハグ……?」
「はい、空木くんをよしよししたい、と思って」
「何をしでかすかわかんないよ、俺」
「大丈夫です。私、空木くんのこと好きなので」
自嘲気味に言う空木の目を見つめる。
「じゃあ、お言葉に甘えて」
「はい、どうぞ」
戸惑っていたみたいだけど、空木は素直にハグされた。私が腕を回すと、おずおずと抱き返された。心臓の音が聞こえる。私に負けず劣らず激しくて、びっくりしてしまった。
空木もドキドキしているんだ、よかった。
「……嬉しい、ですか?」
「………わかんない」
「嫌ですか?」
「いやじゃ、ないよ」
「よかったです」
そう言って背中を優しくさする。抱き返されて、びっくりしたけれど、体温の心地よさに頬が緩んだ。
ーー好きな人に抱きしめられるのって、こんなにも心地よかったんだな。
「色葉さん、俺まだ恋わかんない」
「はい」
「でも、俺、色葉さんと一緒にいると、なんだか心地いい」
「それはよかったです」
きっといつか、空木が恋に気づけるといいな。
そう思って背中をよしよし、とさする。ふわ、爽やかな香りがする。空木の近くを通った時によく感じる香りだ。
今日のこと、絶対忘れないようにしよう。私が勇気を出した日だから。
獣と人の間で揺れて人を取った温もりは
続
恋色葉詠物語 みつるぎおくた @Oct2355
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