三十四歳トーシュルツパニック-22
鈴木もあれば朝山もあり、高橋もあれば江川もある。いずれもありふれた苗字だ。けれどそれがおのおのの家庭を明示し、続柄の対外的な表明となる。血縁なき親子関係など市井に多くある。証明の手段として、一般的には養子縁組か。アウトローでいけば固めの盃も聞く。法定相続の場では生計維持関係の申立てもある。しかし俺たちには第三者証明が欠ける。何より当人からの賛同が欠ける。俺はもう十一年も前からこの子を見守っている。たしかにパパと呼ばれぬ。父の日に何かあるわけでも無い。似顔絵を描かれた過去も無い。父兄参観に出たことも無い。けれど俺はチハルの望む家庭を提供してきた。行いからして俺が父でないか。この俺以外に父がいるとうのか。
早く正式な父となりたかった。たくさん喧嘩をしてたくさん話をして、いつの日にか連れてくるだろう婚約者と、君に俺の気持ちが解るかと殴り倒して、でも結局は認めて、あの子を頼むと託して共に酌み交わし、幸福な様を見て、俺は死ぬつもりだった。そのためにまず俺がしなければならないことは結婚相手を探すことだった。俺に配偶者があれば家庭という単位が構築できるから。けれど女性と知り合おうだなんてこれっぽっちも考えたことのない人生だった。もう今更どうして良いのかも分からない。
チハルはそれから服を着ぬようなった。何度言い聞かせども全裸のままあり、咎める俺をただ睨め付ける。初めて拝む乳房は手のひらに収まるほどの大きさで、それは俺の思い描いていたものとは違いきちんと体の丸みの延長上にあった。おっぱいがあるのでなく、体の特徴的な箇所におっぱいと名付けたのだと、俺はこの歳で理解した。勃起はしなかった。愛娘を性的な目で見ていなかったことの証左として、俺はほっと胸を撫で下ろす。反面、一糸もまとわず鎖につながれあるその姿体に社会性なぞ何一つ見いだせない。
感冒の犠牲者が日に日に増していき、ついに一日の新規罹患者数が一万を数えた。俺たちの手がけた免疫向上飲料なる怪しげな商品は飛ぶように売れた。平静ならば実証にどれだけの年月を費やすか。高尚な開発という過程がないがしろにされたようで、下っ端たる俺すら忸怩たる思いを感じていた。時勢は俺たちを囲いあげ、新型のウイルスは世との隔絶を迫っていた。同僚たちと顔を合わせぬまま季節は白露を迎えた。外界ではまだ夏の残滓が解けぬはずであり、しかし俺はもう公園になぞ出ぬ。昼になればスーパーでなくリビングの冷蔵庫に向かう。鍋に油を敷き炒めれば、あとはもう食後のブレックタイムまでずっと冷房の中にある。今では工事の騒音も何も無い。たまに、ぽろんと、メッセージを受信する通知音がPCから漏れるくらいだ。
その日、俺はテレビ会議に集中できずいた。朝山さんのSNSアカウントが消えていた。「このトークルームにはメンバーがいません」との表示にオンライン上でしかつながれぬ関係の脆弱さを知った。
画面のどの位置がオンライン上における上座であるかなどとご高説を垂れる糞上司があり、俺はこんな会議のことなんかよりチハルにかまけていたかった。朝山さんへ謝罪に参りたかった。いつも裸でいるものだから娘の部屋へ入るのが憚られる。朝山さんとのトークはホテルビュッフェの待ち合わせを最後にもう交わされることは無い。
「このやりとり意味ある?」
自身から漏れ出たとは思えぬほど俺にしてはフランクな言葉遣いだった。幸いにして音声入力はミュート状態であったから誰も何も反応はせぬ。
この時間を利用して資料を取りまとめるべきだ。販路を拡大していくべきだ。他部署との連携に充てるべきだ。以前の俺ならば喜んでいただろうか。神妙な顔をして頷いておれば良いだけの場だもの。自走力だなんていつの間に芽生えたのか。
日に日に外界の生活臭が消えていく。もともと人の通りが多い立地では無かったけれど、それでも飛び込んでくる息遣いはめっきり減退していた。盆を過ぎ一向に収まらぬ暑さのなか虫の音も無い。
ふいにごとごとと異音が響く。それはお小言に憔悴した脳を現実に引き戻した。間違いない。娘の部屋からだ。筋トレでもしているのだろうか。まさか何か病に苦しんで? チハルは大丈夫なのか。遊んでいるだけと思いたい。しかしそうで無いかも。見に行って良いものか。今日も全裸だろう娘の元へ。そもそもチハルは実子で無い。様子を伺う資格なんてあるものか。ああ、くそ。違うだろうよ。誓ったではないか。どう思われていようとも。俺はこの子の親になるのだ。俺が見てやらねば。あの子には俺しかいないのだ。普段せぬような音が立ち確認もしないだなんて。チハルに何かがあってみろ。この世の終わりではないか。
俺は画面をそのままに立ち上がる。ただの筋トレのはずなんだ。平静を装うべく心の中ではそんなことばかりを呟く。念のため。念のためなんだ、これは。仕舞われてあった警棒を取り出すと俺はチハルの部屋の戸に手をかけた。
しかし、開かない。え、なんで?
「チハル? チハル? 大丈夫か? チハル?」
ごとごとという音はぴたりと止まり、代わりに、
「江川くん、助けて」
脳が焼き切れそうだった。取手は回るがなぜ開かない。チハルを守れず何が親か。俺は警棒を投げ捨て必死になって押した。思えば彼女は八苦の只中にある。家族と生別し、身体は思うようならず、自由が叶わず、その張本人と顔を合わさなければならぬ毎日なのだ。あの子はまだ幸せになっていない。そんなあの子に何かがあったとしたら。
瞬間、急に戸の抵抗が無くなり俺は部屋の中に倒れ伏した。遅れ、目の前に冷蔵庫が落ちてきて俺は悲鳴を上げた。
何なのだこれは。チハル、チハルは無事か。
当のチハルは俺の脇をすり抜け廊下に踊り出た。部屋の中は酷い有様だった。収納の扉が割れ、縄状に結われた服が冷蔵庫に巻き付けられてあった。おまるが倒れ娘の便が床に飛び散っている。
俺は振り返る。何かを振りかぶる娘の姿が視界を占め、刹那、頭蓋に重たい衝撃が走った。俺はこの光景を忘れ得ぬだろう。目前、チハル。腰から脇、肩から前腕。細い体躯の下の筋肉がしなやかに動いた。屈託の無い笑みとは違えど、チハルにもまだ感情の爆発が残っていたということに、俺は心の底から打ち震えた。意識はそこで途切れた。
高橋チハルは断じて江川チハルなどでは無い。
懐柔策が失敗に終わった高橋チハルは、ブラジャーの留め具を用いて手錠のかかる土台側を壊すことには成功していた。威嚇さえしていれば江川はあまり立ち入らなかったから作業時間はいくらでもあった。しかし嵌め込まれたポールを引き倒すことだけはできなかった。だから収納棚の上に冷蔵庫を設置し、くくりつけ、部屋の戸の開閉で落下するよう仕掛けた。賭けだった。失敗すれば本当に犯されるかも知れない。手錠の数がまた増えるやも知れない。しかしこの子はやり遂げた。無様に倒れ伏した江川に対して、転がる警棒で打擲してみせた。
「わたし高橋チハルです。警察を呼んでください。高橋チハルです。助けてください」
チハルは居間に飛び込むと開け放されたPCに縋り付く。ミュート状態のなかその声が届くことはなかったが、独身のはずの江川の部屋に、全裸の泣き叫ぶ少女がいるというその異様さに、同僚たちは事態を飲み込んだ。
「すぐ警察呼ぶから。落ち着いて。何があったの。江川はどうしたの。まずは身の安全を確保して」
チハルはその声に安堵して泣いた。一年間じっと耐え忍んだ自身の境遇と、行方が知れぬようなり困憊しているであろう母の様とを思い涙した。嗚咽はこの隔絶された空間のなかいつまでも響いた。
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