三十四歳トーシュルツパニック-21

 上長から呼び出された俺は会議室の扉を叩く。

 新型感冒への対応で社内はどこも慌ただしい。生産ラインの計画停止が囁かれ、一方で、免疫に作用する商材への開発費が臨時に承認されたとも伝え聞いた。

 何度かドラッグストアへ顔を出すも、朝山さんの疲れ切った表情に俺は声をかけられぬままでいた。ただのマスクが数千円で取引される異常事態に気づけば世の誰もが振り回されていた。我が家にはうがい薬なんて無い。いままでその必要性を感じてこなかった。もちろん前部署では滅菌を心がけてはいた。二の腕まで洗浄し、爪の間をたわしでこすり、消毒用アルコールをぶっかけ、紫外線部屋をくぐり、ダメ押しの強風ゲートで菌を物理的に弾き飛ばしてから職務に当たっていた。けれど社外でそこまではしない。仕事のクオリティのための処置であり自身の健康に留意した行いでなかったのだ。

 俺は備品庫からアルコールを盗み出した。前部署のパスで個数の改竄をはかってみるに、どうも帳簿上合わぬ気がしてそのまま場を後にした。誰もが同じ考えだったのだろう。家族を思ってのその行動はよく分かる。倫理よりも我が子が優先。確信犯として初めて罪を犯した。

 だから所属部署の上長だけで無く人事部長まで在席しているのを見とめて、俺はバレてしまったので無いかと冷や汗をかいた。

「急な辞令で申し訳ないけれど、来週から営業部事務課に異動してほしい」

「営業部、ですか」

「知っての通り感冒のおかげで社内の舵取りも急務でね。江川くんは長く開発にいたでしょう。研究データをきちんと読み解けてまとめられる人材にいてもらいたいんです。それに、おめでたの方がいてゆくゆく人時が足りなくなりそうでもあってね」

 どて腹の上司はやはり太鼓持ちらしく人事部長の斜め後方で立ち尽くす。お前が行けば良いだろう。俺にそんな仕事は無理だ。

「江川くんも今の部署だと宝の持ち腐れだろう」

 俺にとっての宝はチハルだけだ。俺の中に誇れるものなど何も無い。

 会社からのお願いなど断れるはずもない。

 先般チハルは、

「ねえ、魚」

 と発した。そういえば食卓に魚を上げることがなかった。むき身のアサリを除けば出来合いの塩焼きを買って帰ったくらいやも知れぬ。ぼろぼろの猫まんまはカウント外としたい。しかし魚は高い。レシピを習得せねばならぬ。今更多忙な部署になど移りたくは無いのに。

 太鼓持ち上司から見れば嬉しいだろう。糞漏らしと嘘を吐いてでもサボりたがる社内一の爪弾き者が異動するのだから。どうせ煙草を吸うだけの非生産社員のくせして。

 こっそり練習してから食卓に出したかったのに。べちゃべちゃのムニエルは食えたものでなくタルタルソースを山盛り乗せて咀嚼した。こんな体たらくでこれから向こう魚料理を出していけるだろうか。「今が旬」とあったから買ってみたが、それならスズキでなくとも適当な魚で良かった。惣菜のフライでも買った方がまだおいしかったはずだ。チハルは何も言わぬまま口に放り込んでくれる。

 悔しかった。全て空回りしているように感ずる。

 娘の幸福を追求するのが俺の役目でないか。それなのにこの一年チハルは幸せであっただろうか。俺はチハルから多くを与えられた。何より生に起伏があることを教えられた。この一年に起こった様々な珍事だが、実はそんなに嫌ではなかった。俺の人生にもイベントが起こりうるのだと知れて感謝すらしている。しかし俺のレベルが低いことにより直面した出来事ばかりだったはずだ。親がこうで、その扶養たる娘に何らの影響も無かったなどとは思えない。

「今度部署変わるみたいで……」

 気づけばぼやいていた。ソースを塗りたくる端からぼろぼろと崩れ落ちる白身のかけらを、摘んでは飲み込みながら、俺は訥々と話した。これまでは愚痴だなんて自意識の中だけで処理できる範疇のものだったのだ。チハルは何を思い聞いているか。愛娘は茶碗を見つめたまま必要以上に顎を動かす。

 要領を分かり得ただけ今の状況は余計に辛い。仲良くなった方との不仲、自身ではどうすることもできぬ辞令。逆にチハルだってそうだ。ままならぬ只中にある。俺自身がそんな現状を疎ましく思っているというに、愛娘に強いているという愚行。

 翌週から俺は在宅勤務となった。少し遠出をしたスーパーで加熱するだけのお手軽料理セットなどという商品を買い込んだ。牡蠣のアヒージョに鮭のソテー、鶏肉の山賊焼、烏賊とコーンのバター炒め。油を敷いて簡単調理とあり、これならば俺にもどうにかできそうだ。チハルは喜んでくれるだろうか。煮物は思ったよりも時間がかかる。面を取ったり焼いてから煮たり。料理にも手間があることを知った。その一手間はチハルを思えば苦ではなかったが、それでも時短できるならば越したことはない。昼のたった一時間という休憩のなか、せっかくの在宅だもの、暖かい料理を食わしてやりたいではないか。出来立てすぐの手料理をさ。

 業務にはすぐ慣れた。経済トレンドに合わせじっくりとした研究を挟まぬぶん直で営業部とすり合わせたいというだけで、もともとの業務とあまり変わりはない。日々の下準備が無いだけこちらの方が幾分か楽だ。ひっきりなしにチャットでのコンタクトが飛んでくるが、たいていは取りまとめた資料を貼り付けるだけで相手は引き下がる。新入社員の時分はメールだった。

「お疲れ様です。表題の件、課長からの承認はすでにいただいております。添付いたしますのでご査収よろしくお願いいたします。なおパスは別送いたしますため改めてご確認お願いいたします。不備等なければご返信には及びません。江川」

 長たらしく嫌味な文面ばかりであった。あの頃はまだ、こんな俺でも一角の何かに成れるのでないかと、粉骨砕身、日々の業務に邁進していた時期であったから、立派なサラリーマンたれるよう必死に食らいついた。今では厄介者だよ。同期でまだ一介の平社員である者など居るか知らん。実は高橋など中途入社だ。その彼の方が人望もある。期待も無いから誰も追及はせぬ。

「どうぞ」

 今ではこの一言だけで咎められない。これが俺の仕事上での十年以上かけて歩んできたコミュニケートの道の先だ。はじめこそ「ありがとうございます」との返信がついた。しばらくして何も無くなった。既読マークが灯ればそれが受領のサインだ。侮られるこの身はたしかに俺の招いたものだ。令和の世だからインスタントにという向きもあろう。けれど軽んじられるのは全て俺が俺たる結果のためだ。

 鈴木くんならどうしたろう。彼は最低賃金すれすれのパート従業員に過ぎぬ。オートクレーブも使えぬだろうし計画書も読めぬだろう。けれど俺なぞより遥かに有能な人間性だ。彼ならばチャットやたまのテレビ会議の場でもうまく取り入るだろうか。

 俺は在籍を表す自身のアイコンに「今日も一日お願いします」と吹き出しをつけた。なんとなく鈴木くんならばそのようにするだろうと思ったからだ。とくに他者からのアクションは無い。それもそうか。俺は鈴木くんで無い、江川だ。即効性などあるまいよ。

 幾日か経ち、晩、ホッケの腹をその長い指で器用に摘みながら、チハルは俺に聞いてきた。

「あなたは私をどうしたいんですか。私とどうなりたいんですか」

 いつかも聞いたその言葉の意図が分からず、俺はおそらく過日と変わらぬ返答をする。娘と思っている、君を幸せにしたいのだと、どうにかその二言だけを絞り出した。

 チハルは小骨を器用に取り除きながら応じる。

「私の幸せって何」

 ぺらりと残る皮の上を、繋ぎ止められ片腕しか使えぬ姫の箸先がついとなぞる。箸の持ち方が綺麗だ。白く長い人差し指が優雅に動く。咀嚼しようと開く口元は愛娘ながら性的に過ぎる。手錠擦れの痕すら妖艶なボディペイントのごとく肌に映える。

「幸せってどゆこと」

 チハルはこちらを見向きもしない。ざく、ざくと、漬物を噛み潰す音が部屋に漏れ出る。ここが親子の正念場だ。食を止め、俺は箸を置いた。

「ねえ、私の幸せって何なの」

 チハルは三度繰り出す。なぜだか正視できずにいた。クーラーの風に揺られカーテンの端が揺れる様を、俺は視界の片隅に捉えながら逃れられずにいた。

「正直、」自身の言葉で語るべきだと思った。本能で漏れるものでなく、きちんと理性で発したかった。こんなにも想っているこの愛情の一端を少しでも娘に届けたかった。「正直、何が幸せなのかはまだ考えあぐねている。しっかり甘やかしたいということと、立派な大人にしたいってことはずっと思っている」

 俺は正しく言語化できたことに高揚しながら前を向いた。チハルの口は一文字に結ばれていた。

 この一年でこの子も変わった。髪は背にまで伸びた。肌は浅黒くなった。瞼の端に皺が寄り陰は瞳にまで達した。ひょうきんさが失われた。俺じゃあ無いか。この子を幸せから遠ざけたのは俺なんじゃ無いのか。気づいて叫び出しそうだった。温かいご飯があるだろう。食事を共にしているじゃ無いか。家事なんてしなくて良い。親が共にある家庭だ。俺じゃ不服か。だけれどこの俺が父なのだ。

 ややあってチハルは口を解く。その言葉に俺はいたたまれず家を飛び出した。何がいけなかった。どうして駄目だった。俺がこの子の親なのに。どこで間違った。こんな子とは思わなかった。ああ、どうしてなんだ、チハルよ。

「甘やかして惚れさせて、成人したら犯そうって魂胆なんでしょ、どうせ」

 高橋チハルはムニエルの残骸を見つめながら発する。

「やってることがキモい。未成年に手を出したら刑が重くなるとかそんなん思ってるんでしょう。だから囲っておいて十八超えたらえっちしようて考えなんでしょう。娘とか、取り繕っちゃってさ、キモいんだよ。大義名分が無いと動けない童貞なんじゃん、ほんとキモい。やるならやればいいじゃん。思考がもう童貞通り越してガキなんよ。ちんこ入れたい、傷つきたくも無い。いい加減にしろよ。お前の童卒になんで私が何年も付き合わないとなんねんだよマジ。触ってみろよ、触ってみろよ乳もさ。まんこも。脱いだろうか、いま。ここで。どうせ私もパパに体売ってきたんだ。やってみろや、なあ、おい、江川。こんだけ言ってもお前はどうせ何も動けない糞野郎なんだろ。気づいてんだよ。何とか言ってみろよ、童貞がよ。なあ」

 語気とは裏腹、チハルは微動だにせずあった。ただいつの間にか握りしめられていた箸の先だけが呼応するように小円を描き揺れていた。これだけ喋るチハルも久方ぶりだった。だから余計に重く響いた。俺は本当に子と見ている。疾しさなど微塵も無い。心外だ。俺の愛は曲解され伝わっていたのだ。誰がそんな卑劣なことをする。俺は本当に子と見ている。

「おい、逃げんのか。逃げんなや、おい」

 返す言葉は何も無かった。もう少しだってこの場にいたくなかった。娘の誤解が衝撃だったか、娘の貞操に驚愕だったか。とにかく少しだって早く逃げ出したかった。

 俺と市井の雄との違いはなんだ。青年期の社会性だろうか。それとも女を知るかどうかか。肉体的コミュニケートの果てに成るのが親なのか。

 守ってやりたかったんだ、この子のことを。父性に飢えていたから。家庭を求めていたから。だから親に成り代わることで満たしたかった。そうすればまた屈託なく笑ってくれると思って。

 空は煮詰めた味噌汁をぶちまけたかの色合いにして、酢を入れ過ぎたタルタルソースのような白が円を作り月となる。駅前まで出ると小規模な人の群れがあり各々が家路を急ぐ。自動車の駆動音が迫っては流れ消えていく。「思考がもう童貞通り越してガキなんよ」チハルの言葉がいつまでも耳に残りこれまでの人生を悔いる他には無かった。チハルの幸せを奪ったのは俺なのか。チハルの幸せを奪ったのは俺なのか。「思考がもう童貞通り越してガキなんよ」どこで間違った。立派な子に育て上げるんだ。どこで間違った。もう一度見せておくれよ。腹の奥底から笑んだあの根源からの情動を。

 俺はドラッグストアへ飛び込んだ。この時間ならまだ朝山さんはいるはずだ。俺は手頃なスキンを一つ引っ掴むと店内を駆け回った。

 俺を男にしてくれるのは朝山さんしかいない。

 彼女は加食コーナーにいた。立膝をつくことで尻の丸みが強調されてあり、束ねた髪の先がエプロンの結び目をなぞり愛玩動物の尾のごとく揺れていた。折り込みコンテナから乾麺を掴んでは棚奥に押し込むその仕草にはどこか優美な野生が透けて見えた。俺は自身の弱い部分を押し込めるように一歩一歩近づいた。店内放送に紛れ客の息遣いがある。生きるということ。その行いに直結した品揃えだ。朝山さんともこの場所で再会した。チハル嬢の物品もここで買った。ここでなら何でも揃う。ここでなら気後れはせぬと考えた。

 俺は朝山さんの肩を叩く。朝山さんの首がびくんとこちらに回る。「なんだ、江川くんか」朝山さんが安堵の息を吐く。俺はスキンの箱を掲げる。訝しげな表情をあらわにする彼女。言え、言うんだ。親となれるならあらゆる可能性を模索せねばならぬ。援交などして擦れてしまった娘を理解するのに俺が未経験のままでどうせよという。言え、言うんだ。女体を知り父となれるならこれは一時の恥に過ぎぬ。

「えっちして、ください」

 彼女は目を見開いた。けれど瞳に光は宿らない。

「お願いします。チハルのためなんです。えっちしてください。お願いします。チハルのためなんです。俺とえっちしてください」

 朝山さんはふらりと立ち上がるとどこかへ駆けて行った。俺はその場に立ち尽くした。学生時代、同学年の不良に強制されて女性用下着のショップに入ったことがあるが、あの時に向けられた客たちの視線には今でも嫌な汗をかかせられる。俺は泣いた。気づけば棚の隙間から見知らぬ大人たちが嘲笑していた。大人たちによる視線も、俺には合わせてトラウマの一つだった。

「えっちしてください。えっちしてください、誰か」

 俺は泣き叫ぶほか無かった。悲しいかな俺の股間は柔肌を知らぬ。女性の液の味を知らぬ。そこに親としての成分があるとして、俺はそれを知らぬ。滲む視界の端に男性店員が寄ってくる様を捉えながら、ああ、あの子は高橋チハルであり江川と成り得ることは一生無いのだと、俺は悟っていた。

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